陰謀にはご注意
昼食を終えたリーシェは、自室で所在なく過ごしていた。することがなさすぎて、何度も同じ場所を歩き回っている。ふと思い立って、傍らに控えていた侍女に声をかけた。
「あのぅ……お仕事は、ないんですか?」
「ないです」
侍女は即答した。あまりの迷いのなさに、リーシェは少し面食らう。
「立派な皇妃になるための厳しい教育とかは?」
「ないです」
「即答なんですね……」
「働きすぎの皇帝陛下が万事きっちりなさっておりますので、皇妃殿下がなさることは特にありません」
侍女はにこりと笑って答えたが、その笑顔にも取り繕った様子はなかった。リーシェは釈然としない気持ちを抱えながらも、他に思いつくこともなく、とりあえず外の空気を吸うことにした。
「じゃあ、お庭でも歩いてきますね」
宮殿の奥にある庭園へと、リーシェは足を向けた。
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シュヴァルツリートの庭園は、フォンレーヴの華やかな花壇とは違い、白い石畳と刈り込まれた常緑樹が幾何学的に並ぶ、静かで整然とした造りだった。噴水の水音だけが響く小道を、リーシェは物珍しそうにあちこち眺めながら歩いていく。
「お花の色はうちの方が多いけど、こっちは……なんだか絵になりますね」
独り言を呟きながら奥へ進んでいくと、小道の角を曲がったところで、誰かの気配を感じて足が止まった。
薔薇の生垣の前に、一人の男が佇んでいる。リーシェの方を先に見つけていたのか、こちらへ視線を寄越すのと、リーシェが立ち止まるのとが、ほとんど同時だった。
艶のある金髪を後ろに撫でつけ、鋭い金色の瞳をしている。整った顔立ちに絶えず薄い笑みを浮かべているが、親しみやすさよりも、余裕と支配欲を感じさせる笑みだった。仕立ての良い黒を基調にした衣装が、いかにも皇国貴族らしい重厚さを漂わせている。
「これは、皇妃殿下。お初にお目にかかります。ディーター・ローゼンハイトと申します」
「リーシェです。よろしくお願いします」
「皇国の暮らしにはもう慣れましたか?」
「はい、おかげさまで快適に過ごしていますよ」
ディーターは、含みのある視線をリーシェに向けた。
「それは何より、と言いたいところですが……お一人で庭園を歩かれているのですね。陛下は政務でお忙しいのでしょうか」
「そうですね。朝食を召し上がったら、あわただしく執務室に向かわれましたよ。侍女によると『働きすぎ』なんだとか」
「おかわいそうに、皇妃殿下。どうせあの方のことですから、放っておかれているのでしょう」
ディーターは痛ましい話でも聞いたかのように、ゆるく首を横に振った。けれどその口元には、慰める者には似つかわしくない、薄い笑みが貼りついている。
「陛下は昔から、女性というものに関心をお持ちにならない方でしてね。皇妃殿下のような方が嫁がれたところで、態度が変わるとは思えません。……これから先も、ずっとこのままかもしれませんよ」
リーシェは、きょとんとした顔でディーターを見返した。
「そうなんですか? でも、朝ごはんは一緒に食べてくださいましたし、寝るときも同じ部屋にいてくださいましたよ」
「それは、形上そのようにしているだけでしょう。心がこもった愛ではありません」
「うーん、それはそうかもしれませんけど」
リーシェは腕を組んで、少し考え込むような顔をした。ディーターは、その様子に手応えを感じたのか、さらに一歩踏み込んだ。
「もし、この結婚に虚しさを感じることがあれば、フォンレーヴにお戻りになることも、決して恥ではありませんよ。誰も皇妃殿下を責めはしません」
「戻る、ですか?」
「ええ。愛のない結婚に縛られる必要はどこにもありません」
リーシェは、真剣な顔でしばらく黙り込んだ。ディーターは、その反応を待つように微笑みを深くする。
「……あ、でも」
「はい?」
「陛下、私がお魚好きなのを知って、料理長に魚にするように言ってくれたんですよ。あれ、結構嬉しかったんです」
「……はい?」
「陛下の噂はなんとなく知ってはいましたけど。むしろ、想像していたより気を遣ってくれる方だなって」
ディーターは、一瞬言葉を失った。
「……皇妃殿下は、それで満足されているのですか」
「満足というか、まだ結婚したばかりですし。これからじゃないですか?」
あっけらかんと笑うリーシェに、ディーターの笑みがぴくりと歪んだ。
「そう、ですか。それは……余計なことを申しました」
「いえいえ、心配してくださってありがとうございます!」
リーシェは特に何かを疑うこともなく、にこやかに微笑んだ。ディーターはそれ以上言葉を続けず、優雅に一礼して庭園の奥へと去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、リーシェは首を傾げる。
「……なんだったのかしら。まぁ、いいか」
そう呟いて、また花壇の方へ歩いていった。
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ディーターが庭園の奥へ去っていくのを見送ると、リーシェは今度は宮殿の方へ視線を向けた。
庭園の一角から見上げると、石造りの宮殿の二階にある大きな窓が見える。朝、カイルが慌ただしく向かった執務室は、あのあたりだと侍女が教えてくれていた。
「まだお仕事なさっているのかしら」
リーシェは木々の間を抜け、窓の真下に近い場所まで歩いていった。
窓の向こうには、書類を抱えた人影が何人も行き交っている。その奥、机に向かっていた銀髪の男が立ち上がり、窓際へ近づいた。
カイルだ。
リーシェは思わず顔を明るくすると、両手を頭の上まで上げて大きく振った。
「カイルさまー!」
窓の向こうで、カイルの肩がびくりと跳ねた。
次の瞬間、ばさりと大きな音を立てて、窓のカーテンが勢いよく閉じられる。
「えっ」
リーシェが手を振ったまま固まっていると、しばらくしてカーテンの端がほんの少しだけ開いた。
隙間から覗いたカイルが、周囲を気にするように一度だけ視線を巡らせる。それから、胸の高さまで上げた片手を、小さく控えめに振った。
リーシェは思わず吹き出した。
「律儀な人ね」
口元をくすっと緩めながら、リーシェはもう一度だけ手を振り返す。すると、カーテンの隙間はすぐに閉じられた。
執務室の下から少し歩くと、午後の日差しを受けてきらきらと輝く温室があった。ガラス張りの屋根の下には、フォンレーヴでは見たことのない大きな葉の植物や、南方のものと思われる鮮やかな花々が並んでいる。
「わあ……。中、見てもいいのかしら」
温室の入口に近づいたところで、背後から切羽詰まった声がかかった。
「そこのお方!」
後ろから切羽詰まった声で呼ばれ、リーシェは足を止めた。
振り返ると、淡い藤色のドレスを着た若い貴族令嬢が、息を切らして立っていた。顔色は青ざめ、両手を胸元でぎゅっと握りしめている。
「あの、助けてください……! 温室の中に人が倒れていて、どうしていいか分からなくて」
「えっ、大変です。すぐに人を呼びましょう」
リーシェが周囲を見回して声を上げようとすると、令嬢は慌てたように首を振った。
「だ、駄目です。もしまだ息があるなら、早くしないと……! あなたと私の二人で今すぐ運んだ方が早いです。お願いします」
令嬢はリーシェの返事を待たず、手首をつかんだ。
「わ、分かりました。でも、急いで誰かにも知らせて……」
「すぐそこなんです!」
細い指とは思えないほど強い力で引かれ、リーシェは半ば駆けるように温室へ向かった。
温室の中は、外よりもむっとするほど暖かかった。土と草の匂いが濃く漂い、天井から差し込む午後の日差しが、葉の影を石床に落としている。
「倒れている方は、どこですか?」
「もう少しです」
「お怪我をされているなら、布か何か……」
「もう少しですから」
令嬢の返事は、次第に短くなっていった。
リーシェは首を傾げたが、困っている人を放っておくわけにもいかない。つかまれた手首が少し痛いと思いつつも、素直についていく。
令嬢は、温室の奥にある背の高い葉の植物が並ぶ一角で足を止めた。
「ここです」
「えっ、でも誰も……」
リーシェが大きな葉の陰を覗き込んだ瞬間、背後で温室のガラス扉が閉じる音が響いた。




