キスはおあずけ
朝食を終えて執務室に向かう途中、カイルは廊下で母と行き会った。
フリーデリケ・イース。カイルと同じ銀髪に、白髪が幾筋か混じり始めている。目元の柔らかい皺は、日常的によく笑う人だと物語っていた。
「ねぇ、カイル。リーシェちゃんはどうだった? 仲良くできた?」
「再三お伝えしたとおり、俺は女に興味はありません」
「ずーっとそればっかりじゃないの。思春期の男の子でもないんだから」
「一生、こうです。幸いいとこはたくさんいるので俺が跡継ぎなく死んでも困ることはないでしょう。なかなか優秀な者も多いと聞いています」
そう突っぱねた瞬間、一夜の間に感じたリーシェの温もりが脳裏をよぎり、カイルの頬にじわりと熱が上った。
「えっ、あら、あらあら……」
フリーデリケの顔に、みるみる笑みが広がっていく。
「もう失礼します!」
カイルは足早にその場を立ち去った。背中に、母の含み笑いがずっと追いかけてくるような気がした。
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その日の午後、宮殿の奥にある音楽室から、ピアノの旋律が漏れていた。
カイルが扉を開けると、リーシェが鍵盤に向かって指を滑らせている。栗色の髪が肩から滑り落ち、彼女の指先だけが妙に優雅に動いているのが目についた。
「ピアノの音が聞こえるなんて久しぶりだったから、誰かと思った」
演奏の手を止め、リーシェが振り返る。
「母上がもっと若いころは、このピアノも使われていたんだが」
「ピアノは毎日弾かないと腕がなまるんです。私、こう見えてフォンレーヴで一番のコンクールで優勝しているのですよ」
リーシェは誇らしげに言った。
「お好きな曲をお弾きしましょうか? 有名なものなら、楽譜を見なくても弾けますよ」
「じゃあ、母上がよく弾いていた曲を頼もうか」
聞きなれた曲のはずだったが、リーシェの手から生み出される音は、記憶の中の響きよりもずっと優雅に感じられた。カイルはその音を聞きながら、椅子の背に軽く手をかけて立つ。
「自慢するだけあって、さすがにうまいな」
「陛下は、女とはいえ国王の第一子である私が、なんでこんなにアホっぽいのか疑問に思ったことはありますか」
「お前、自覚あったんだな」
「昨日の夜、陛下があまりに驚いてらっしゃったので、ご存じないのかなと」
リーシェは器用に話しながら、演奏する手を止めない。
「うちはそういう国なのですよ。国王一家は、民に愛される人物であればそれでいいんです。ほがらかに笑って、式典で見事な演奏を披露することが私たちの使命です」
リーシェは鍵盤の上で軽やかに手を遊ばせながら、旋律に合わせるように、歌うような調子で続けた。
「ピアノのほかに、歌も、得意なんですよ~」
音程まで綺麗に乗せた言い回しに、カイルは思わず眉を上げた。
演奏がふと転調する。
「頭の中をのぞかれたって困らないくらい、裏表のない人間であれと教えられてきました。でも、それだけでは国として成り立たないでしょう? だから、フォンレーヴには代わりに政治の実務を担う家門があります」
「カルディエ家というのですが、その家は血筋にかかわらず最も優秀な者が継ぐんです」
「なるほどな」
「ただ、今回はカルディエ家も予想していなかった事態になっておりまして」
ボーーーーン。
最後の一音が響く。
リーシェは音が完全に止まったのを見届けてから視線を上げた。
「フォンレーヴは美しい山、天然の温泉、大陸一の芸術が自慢の国で、外国の方が訪れる保養地くらいしか目立った産業がありません。侵略してまで欲しがられるような国ではないから、軍備は捨てて保養地としての魅力を上げる方法で投資しようという結論になっていたそうなのですが……」
「山に希少金属が大量に埋まっていることが判明して、このままでは四方八方の近隣国家から狙われかねない。だから、皇国と縁を結んでしまえ、と。陛下も、その話があったから縁談を受けてくださったんですよね」
「そうだ。それがなければ、結婚なぞすぐに断っていた」
「その作戦もカルディエ家が考えたんですよ。シュヴァルツリートの前皇帝は善良だし、今の皇帝はツンツンしてるけど結構いい奴だからって」
「――誰が言った、それは」
「カルディエ家の次期当主のノアです。嫌々言いながらもちゃんと一緒の部屋で寝てくれたし、朝食も魚にしてくれるし、いい奴ってほんとでしたね」
「ペラペラ内情を話しすぎだろう、お前は」
カイルは額に手を当てて息を吐いた。
「理にかなった作戦ではあるが……派遣する王女がこれほど珍妙な点は、問題にならなかったのか」
「それもお前のいいところだからって、送り出されましたね……」
「問題にしなかった連中の頭を疑うな」
言いながらも、カイルの口の端が微かに歪んでいた。呆れながらも、どこか楽しんでいるような響きだった。
ふと、カイルは名前を思い出したように呟く。
「カルディエ家といえば、国王の代理としてよくこちらの式典に出ていた二人が、その家名だったな。四十代くらいの男と、もっと若い男だった」
「それは現在の当主のオーギュストと、次期当主のノアですね。ノアは私の元婚約者でした」
リーシェは弾きながら淡々と説明を続ける。
「フォンレーヴ王国は今回希少金属が見つかるまでは価値のない土地とみなされていたので、縁談の話は来なくて。王族も国内の貴族と結婚するのが普通でした」
カイルは、わずかに眉根を寄せた。
「元婚約者だったなんて、一言も聞いていない。それも、俺の前でする話ではないだろう」
「あれ? そうでしたか? 私また、失言しちゃいましたね」
リーシェは、しゅんとした様子で肩を落とす。
「悲しい曲にしますね」
腕を上げて再びピアノを弾き始める。低く沈んだ音の連なりが、部屋の空気まで少し重くした。
カイルは、リーシェのすぐ横に近づいた。
「……そいつとはキスくらいしたのか」
リーシェが驚いて演奏を止める。
「まさかまさか! それはないです」
「ボケっとしてると、他の男に『初めて』をとられてしまいそうだからな。いっそここで済ませてしまおうか」
カイルが顔を近づける。
「え~っと、うれしいんですが! でも今は突然のことすぎてどうしていいかわからないので! 一旦持ち帰らせてください!」
リーシェは楽譜をたたむと、足早に音楽室を出ていった。
一人残されたカイルは、閉じた扉をしばらく眺めていた。
(からかったつもりが、逃げられた俺の方が間抜けみたいだな)
「昨日はあんなにグイグイきたのに……変なやつ」
カイルは、くすりと笑った。




