ずっとそばに
「陛下、待ってください」
リーシェが、起き上がりながら必死に声を上げた。彼女の声は普段のような呑気さを失っていた。
ノアはリーシェの上から静かに身を引き、危害を加える意思など初めからなかったと示すように、両手をゆっくりと肩の高さまで上げてみせる。
「このアホはちゃんと叱っておきますので、どうか落ち着いてください」
リーシェはノアを睨みつけながら言ったが、カイルを止めようとする声にも、かすかな震えが混じっていた。
「はい、アホの所業なので申し訳ありません」
ノアは手を上げたまま、楽しそうに笑っている。
「リーシェ様の肩に虫がついていたので取って差し上げようとしただけなのですよ?まさかこんなささいなこと、両国の国際問題にはなさりませんよねぇ」
涼しい顔で見え透いた言い訳を口にする様子がさらにカイルの苛立ちを煽る。
「殴ってスッキリするならば、どうぞ」
「ノア、余計なことを言わないの」
あえて煽るようなその言葉に、カイルの拳が強く握られた。
リーシェが息を呑む。
カイルは一歩、ノアへ近づいた。
ノアは微動だにせず、薄ら笑いを崩さない。
その目には恐れがなかった。
カイルがどこまで踏み込むのかを試すような表情だ。
次の瞬間、カイルは拳を振り上げた。
リーシェが小さく悲鳴を上げる。
「陛下!」
けれど、拳はノアの顔ではなく、その下――ソファのクッションの上へ叩き込まれた。
乾いた音が、静かな部屋に大きく響く。
ソファの土台がかすかに軋み、リーシェが手で目を覆っている。
カイルの拳の下で、白いクッションに深い皺が刻まれている。
「……さっさと国に帰れ」
カイルは、拳をつけたまま低く言った。
「次にリーシェへ勝手に触れたら、国際問題になろうと容赦はしない」
その声には、脅しでは済まない本気があった。
「ありがとうございます、陛下」
リーシェは半泣きになりながらその場にへたりこむ。
「はい。明日の朝一番にでも失礼しますよ」
ノアはそう言うと、何事もなかったように服の乱れを直した。
その余裕が、カイルにはひどく癪に障った。
ノアは扉の前まで歩き、そこで一度だけ振り返る。
視線を向けた先はリーシェではなく、カイルだった。
「皇帝陛下」
「何だ」
「リーシェ様のことをたいそう愛してくださっているようで安心いたしました。では、私はこれで」
ノアは、満足げに目を細め、静かに部屋を出ていった。
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「うちの国の者がご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありませんでした」
夜カイルが寝室に入ると、リーシャは膝を折って待っていた。言うと同時に、勢いよく頭も下げる。初めて出会った夜、子作りを頼むために見せたのと、まったく同じ体勢だった。
「また土下座か」
「二度目の土下座になってしまいました」
カイルは呆れたように息を吐き、リーシェの肩に手を置いた。
「そんなことはしなくていい」
しかし、リーシェは頭を下げたままその手を外す。
「この体勢でないと言えないこともありますので……」
そのまま言葉を続ける。
「言い訳させていただくとですね。まだ子作りできていないと、ノアに相談したところ」
「そんなこと、身内でも相談するなよ」
カイルが呆れ顔で言う。
「あと一押しが必要だから、嫉妬させればいけると言い始めて、あんなことに……」
カイルは、深いため息をついた。
「お前はシュヴァルツリートの皇妃なんだ。もっと自覚しろ」
その言葉に、リーシェの目にみるみる涙が滲んだ。
「やっぱり私には、皇妃なんて無理なんですよ。側妃の……それも三番目くらいがお似合いです」
リーシェは笑って言った。
いつものように、自分を茶化して場を軽くしようとする笑い方だった。けれど、声の端には力がない。
カイルはすぐに言葉を返せなかった。
脳裏に浮かんだのは、リーシェが何度も何かを言いたげにこちらを見ていた姿だった。
カイルは俯くリーシェの隣に腰をかけ、ゆっくりと抱きしめた。
「悪かった」
「……え」
「お前の望みに気づいていたのに、応えられなかった俺が悪い」
「陛下、熱でもあるんですか?」
リーシェは慌ててカイルの額に手を当てる。
「かっこ悪いな。あの男に、嫉妬していたんだ」
「えええ!?」
「あいつにもだし、これからも、関わる男全員に嫉妬するかもしれない」
「だから、もう俺のものになれ」
「……はい」
カイルは、リーシェにそっとキスをした。いつもの横柄な態度からは想像もできないような優しいキスだった。
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まだあたりが暗い頃にカイルは一度目を覚ました。
リーシェも枕に頬をつけたまま、半分だけ目を開けてカイルを見ている。眠たそうだが、顔は少しにやけている。
「……起きているのか」
カイルが小さく尋ねると、リーシェはゆっくりと瞬きをした。
「ん……たぶん……」
曖昧な返事をした直後、リーシェは布団の中をもぞもぞと動き、ためらいなくカイルの方へ寄ってくる。
「おい、何を――」
カイルが言い終えるより早く、リーシェは彼の胸元へ額を押しつけた。
それから、胸に顔をうずめるようにして小さく息を吐く。
「カイル様、あったかいです……」
寝間着越しに伝わる体温と、首元に触れる髪の感触に、カイルの体がぴたりと固まった。いつもなら突き放していたかもしれないが、今日はカイルも黙ってリーシェの腰に手を回す。
リーシェはカイルの胸元で、すぐに穏やかな寝息を立て始める。
カイルはしばらく、胸元で眠る彼女を見つめていた。
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朝の光が、寝室の窓からやわらかく差し込んでいる。
カイルもリーシェも起き上がり、朝の支度を始めようとしていた。
「あいつに踊らされたのが、まだ気分が悪い」
カイルが布団を持ち上げながら呟いた。
「ノアのことですか?」
「最初から、俺を焚きつけるつもりであんなことをしたんだろう」
「ノアは無駄なことはしない人なので……そういう意図だったんだろうと思います」
リーシェは、また少し落ち込んだ様子で言った。
「お前が気にする必要はない……結果だけ見れば、きっかけになってよかった」
リーシェはいつもの満面の笑みに戻ってカイルに抱きついた。
「私も!嬉しかったですよ!やっと本当の夫婦になれたので」
カイルは、少し気まずそうに視線を逸らした。
「こういうことに慣れていななくて、遅くなってすまなかった」
「も~、陛下は律儀ですね。慣れていないことを一緒にやっていくのが夫婦じゃないですか」
カイルも、リーシェを抱き返す。
「ずっと、ここにいろよ」




