第三話「この世界の魔力」
それから、さらに半年ほどが過ぎた。
俺がこの世界に来てから、およそ一年。
そしてついに俺は、念願の二足歩行を手に入れた。
「おお……!」
立てる。
歩ける。
自分の足で好きなところへ行ける!
前世では当たり前だったことなのに、今の俺にとってはとんでもない進歩だ。最初こそ何度も転んだが、今では家の中くらいなら普通に歩き回れる。
さらば、ハイハイ。
もう床を這いずり回る生活とはお別れだ。
それだけじゃない。
この一年で、この世界の言葉もかなり分かるようになった。
父さんと母さんが何を話しているのかは、ほとんど理解できる。文字も母さんが何度も本を読んでくれたおかげで、簡単なものなら読めるようになってきた。
いやー、子供の頭ってすごいな。
まるで某掃除機のようだ。
変わらない吸引力で、知識をどんどん吸い込んでいく。
……使い方、合ってるか?
まあいい。
問題があるとすれば、まだまともに喋れないことだ。
頭の中では普通に文章を組み立てられる。相手の言っていることも分かる。
なのに、いざ喋ろうとすると、
「あー」
「うー」
こうなる。
もどかしい。
なので今の俺は、基本的に身振り手振りで意思を伝えている。
欲しいものがあれば指を差す。聞かれたことが合っていれば頷く。違えば首を振る。行きたい場所があれば、自分でそこまで歩く。
そのせいか、父さんと母さんからはかなり賢い子供だと思われているらしい。
「シャウト、お手洗い?」
母さんの声に頷く。
俺は一人で歩いて、便所の扉の前まで来ていた。
「まあ、本当にお利口さんね」
母さんが嬉しそうに俺を抱き上げる。
当たり前だ!
俺の精神年齢はとっくに成人している!
いつまでも寝床に世界地図を描いてたまるか!
ちなみに、あの日の一件はノーカウントだ。
あれは不可抗力。
完全な不可抗力だからな。
「この子、本当に覚えるのが早いわね」
「本もよく見てるしな」
父さんまで感心したように言う。
ふふん。
まあな。
中身は大人だから当然なんだが。
褒められるのは、悪い気はしない。
父さんと母さんは、相変わらず俺をかなり可愛がってくれている。
父さんは暇さえあれば俺を構い、母さんはそんな父さんを見て笑っている。
赤ん坊の身体になってしまったこと自体は大変だ。
自由に動けない。
喋れない。
トイレすら一人ではまともにできない。
だが、この二人の子供として生まれたことについては、運が良かったのかもしれない。
自分で歩けるようになったことで、家の中を探索する機会も増えた。
そこで改めて気になったのが、この家の造りだ。
俺の部屋だけじゃない。
家の多くの場所で、天井がガラスのような透明な素材で作られている。
おかげで昼間はかなり明るい。
最初に目を覚ました時から思っていたが、この世界、プライバシーとかそういうのないの?
……と思っていた。
だが、どうやらちゃんと理由があるらしい。
それを知ったのは、ある本を見つけた時だった。
その日、俺は本棚の前で一冊の本を見上げていた。
この家には結構な数の本がある。
最近は簡単な文字なら読めるようになってきたので、気になる本を見つけては眺めている。
今日も面白そうな本を見つけた。
ただし、一つだけ大きな問題がある。
「…………」
高い。
本棚の上の方にある。
頭脳は成人。
身体は一歳。
どれだけ知能があっても、身長差だけはどうにもならない。
背伸びをして手を伸ばす。
届かない。
もう一度。
届かない。
くそっ。
あと少しなのに!
「シャウト様、どの本を読まれるのでしょうか?」
後ろから声がした。
振り返ると、ベルトが立っていた。
助かった。
俺は欲しかった本を指差す。
「おお、こちらですか?」
こくこくと頷く。
ベルトは本を取ると、俺のために開いてくれた。
どうやら魔力について子供にも分かるように書かれた本らしい。
これは気になる。
俺はベルトの隣で本を覗き込んだ。
『魔力とは、この世界に生きるすべての生物が持つ力です』
なるほど。
人だけじゃないのか。
動物や魔物なんかも持っているのだろうか。
『持っている魔力の量には、それぞれ違いがあります』
まあ、そこは予想通りだ。
人によって魔力の量が違う。
いかにもファンタジーらしい。
『魔術を使うためには魔力が必要です。魔術を使えば魔力は減り、減った魔力は光を浴びることで少しずつ回復していきます』
…………光?
俺は思わず顔を上げる。
ベルトはそのまま読み進めた。
『人族は、主に太陽の光から魔力を得ます。そのため、日中に十分な光を浴びることはとても大切です』
俺は透明な天井を見上げた。
なるほど。
そういうことか。
この家の天井が透明なのは、家の中に太陽の光を取り込むためだったんだ。
別にプライバシーを捨てたわけではなかったらしい。
『魔力をたくさん使った後は、すぐに魔術を使えるようになるとは限りません。十分に光を浴びて、回復するのを待ちましょう』
ふむふむ。
つまり魔力は使えば減る。
そして太陽の光を浴びることで回復する。
光合成みたいなものか?
……いや、さすがに違うか。
魔力だし。
『魔力は身体の成長と深く関わっています。また、魔術を使い、魔力を扱う練習を続けることで、扱える魔力も少しずつ増えていきます』
なるほど。
生まれた時から全部が決まっているわけではなく、成長や訓練も関係しているらしい。
俺は頭の中で整理する。
この世界の生き物は魔力を持っている。
魔術を使えば魔力が減る。
減った魔力は光を浴びることで回復する。
そして、成長や訓練によって扱える魔力も増えていく。
今のところは、これくらい覚えておけばいいだろう。
「なるほど……」
と言いたいところだが、
「あー……」
しか出ない。
早く喋りたい。
ベルトが最後まで読み終えると、本を閉じた。
「シャウト様、これで満足でしょうか? それとも、ほかの本も読みましょうか?」
俺は首を横に振る。
「そうですか」
ベルトは微笑み、本を元の場所へ戻した。
俺はもう一度、透明な天井を見上げる。
そこから差し込んでくる太陽の光。
俺にとっては、今までただ明るいだけのものだった。
だが、この世界では魔力を得るためにも必要なものらしい。
この天井にも、ちゃんと意味があったんだな。
それから、一年が経った。
俺は二歳になった。
そして、ついに。
「母さん!」
喋れるようになった。
いやー、長かった。
頭の中ではずっと普通に喋っていたのに、それを言葉にできない生活。
ようやく卒業だ。
「シャウト!」
母さんは目を丸くした。
「もう一度言って?」
「母さん!」
「まあ!」
母さんは嬉しそうに俺を抱き上げる。
その声を聞きつけた父さんまでやって来た。
「どうした?」
「シャウトが『母さん』って!」
「本当か!?」
父さんが俺の前にしゃがみ込む。
「シャウト。父さんは?」
期待に満ちた目。
……圧がすごい。
「父さん」
「おお!」
父さんが満面の笑みを浮かべた。
なんだこの人。
めちゃくちゃ嬉しそうじゃないか。
まあ。
悪い気はしない。
それからというもの、俺は少しずつ普通に喋れるようになっていった。
父さんと母さんからは「覚えるのが早い」と何度も言われる。
もしかして、俺って成長が早い?
異世界転生者だからなのか?
それとも、この世界ではこれくらい普通なのか?
今の俺には分からない。
まあ、そのうち分かるだろう。
それと最近、身体を動かすのが妙に楽しい。
特に走るのが楽しい。
「はははっ!」
俺は庭を走り回る。
「シャウト、転ばないようにね!」
「はーい!」
母さんに返事をしながら、そのまま庭を駆け回る。
いやー、身体が軽い。
それに、なかなか疲れない。
二歳児ってこんなものなのか?
そういえば、あの本には人族は太陽の光から魔力を得ると書いてあった。
俺は空を見上げる。
今日もいい天気だ。
太陽の光を浴びる。
魔力が回復する。
だから疲れにくい。
…………なるほど。
たぶんそういうことなんだろう。
この時の俺は、それで納得していた。
それからしばらくして、俺には新たな疑問が生まれた。
この家。
そこそこ広い。
本もたくさんある。
そして召使いのベルトまでいる。
当然、これだけの生活をするには金がかかるはずだ。
じゃあ、その金はどこから来ている?
俺は以前から、うちは貴族か何かなんじゃないかと思っていた。
もし本当に貴族なら、土地を持っていたり、そこから金が入ってきたりするのだろうか。
つまり。
何もしなくても金が入る!
……最高じゃないか。
気になった俺は、父さんに聞いてみることにした。
「父さんって、何のお仕事してるの?」
「父さんか?」
父さんは少し考えてから答えた。
「今は、この辺りの安全を守る仕事をしてるな」
「安全?」
「ああ。悪い奴を捕まえたり、危険な魔物を倒したりな。何か危ないことが起きた時に呼ばれることもある」
へえ。
思っていたより物騒な仕事だ。
そういえば、父さんが何日か家を空けることがある。
帰ってきた時には、酷く疲れた顔をしていることもあった。
そんな時は、母さんが父さんの食事を用意したり、心配そうに声をかけたりしている。
父さんも母さんには弱いらしく、「大丈夫だ」と言いながら結局言われた通り休んでいる。
なんだかんだ、仲のいい夫婦だ。
俺もいつか結婚するなら、こんな関係がいいな。
……まあ、二歳児が考えることじゃないけど。
「それでお金もらってるの?」
「ああ。王家からな」
「王家!?」
思わず声が大きくなる。
やっぱり!
王家から直接金をもらっている。
これはもう、ほぼ確定じゃないか?
「じゃあ、父さんって貴族なの?」
「いや?」
「…………え?」
「父さんは貴族じゃないぞ」
…………。
待って。
召使いがいる。
そこそこ大きな家に住んでいる。
俺は「シャウト様」と呼ばれている。
父さんは王家から金をもらっている。
なのに。
貴族じゃない?
俺の頭の中で、優雅な貴族生活が音を立てて崩れていく。
「じゃ、じゃあ……父さんは何なの?」
「今の仕事をする前は、冒険者だったんだ」
「冒険者?」
来た。
異世界定番職業!
「どんなことするの?」
「依頼を受けて、魔物を倒したり、人を護衛したり、危険な場所を調べたりだな。他にも色々ある」
なるほど。
俺の想像している冒険者と大体同じらしい。
ということは、父さんは元冒険者。
そこから今は、この辺りの安全を守る仕事をして王家から金をもらっている。
なるほどな。
貴族ではなかった。
さらば、俺の優雅な貴族生活。
さらば、何もしなくても勝手に金が入ってくる夢。
「父さん、強かったの?」
俺が聞くと、父さんは少し笑った。
「まあ、それなりにな」
「へえー」
それなり、か。
俺はまだ、この世界の冒険者についてほとんど知らない。
だから、その言葉も特に気に留めなかった。
ただ、危険な魔物を倒したり、人を守ったりできるくらいには強かったんだろう。
その程度にしか思っていなかった。
この時の俺はまだ知らなかった。
父さんの言う「それなり」が、一体どれほどのものなのかを。
2026/9/12 改稿




