第二話 「五人の天賢」
それから、半年が過ぎた。
あの日から何度眠って、何度目を覚ましても、俺が元の世界に戻ることはなかった。
透明な天井も、知らない言葉も、指先から火を出す男も全部そのまま。
どうやら本当に、俺は異世界へ来てしまったらしい。
そして今の俺はというと、自分で這い回れるようになっていた。
そう。
ハイハイだ。
前世では当然のように二本の足で歩いていたというのに、今の俺にとってはこれが最速の移動手段。
なんとも情けない。
だが、自分で動けるようになったのは大きい。
今までは寝かされた場所から見える範囲しか知らなかったが、最近では家の中を少しずつ探索できるようになった。
そして、この半年で分かったこともいくつかある。
まず、この世界には本当に魔術が存在する。
最初に見た指先の火だけじゃない。
あれから何度か、同じような不思議な現象を目にした。
異世界に転生して、魔術まで存在する。
となれば、期待してしまうのが男というものだろう。
特別な能力。
とんでもない量の魔力。
俺にしか使えない謎の力。
もしかしたら、生まれた時から最強だったりして。
「ぐへへ……」
……と言いたいところだが、実際に口から出たのは、
「あぅ……」
だった。
悲しい。
今のところ、自分に特別な力があるのかは何も分からない。
そもそも、まだ魔術の使い方すら知らない。
まあいい。
俺はまだ赤ん坊だ。
時間ならいくらでもある。
それから、自分の名前も分かった。
「シャウト」
何度もそう呼ばれているうちに、さすがに気づいた。
さらに何度か耳にしたのが、
「シャウト・ロータス」
という言葉。
おそらくこれが俺のフルネームだ。
シャウト・ロータス。
これが、この世界での俺の名前。
悪くない。
むしろちょっと格好いい。
最初に俺を抱き上げていた綺麗な女の人は、ウルト・ロータス。
俺の母親だ。
指先から火を出していた男は、シャート・ロータス。
俺の父親。
最初は知らない男女だった二人も、半年も一緒に暮らしていればさすがに分かる。
父さんは相変わらず変な顔で俺を笑わせようとしてくるし、母さんはよく俺を抱き上げて話しかけてくる。
おかげで、この世界の言葉も少しずつ理解できるようになってきた。
毎日同じ言葉を聞いているうちに、音と意味が繋がってきたのだ。
まだ全部を理解できるわけじゃないが、この調子ならいずれ普通に話せるようになるだろう。
それと、この家にはもう一人、よく見かける男がいる。
名前はベルト・バーグ。
父さんや母さんよりずっと年上で、掃除や食事の準備をはじめ、家の中の色々なことをしている。
どう見ても召使いだ。
そして、ベルトは俺のことをこう呼ぶ。
「シャウト様、本日もお元気そうで何よりでございます」
シャウト様。
…………。
待てよ。
俺は改めて家の中を見回した。
そこそこ広い家。
たくさんの家具や本。
そして召使い。
その召使いからは「様」付けで呼ばれている。
父さんと母さんの身なりだって悪くない。
…………まさか。
俺って、かなりいいところの子供なんじゃないか?
もしかして、貴族?
それどころか王族だったりする?
異世界転生して、魔術のある世界に生まれて、その上王族。
そんなことある?
…………あるかもしれない。
主人公だし。
いや、主人公かどうかは知らんけど。
まあ、まだ何も分からない。
今のところは、将来に期待しておこう。
最近、母さんは俺によく本を読んでくれる。
もちろん、文字はまだ読めない。
だが、母さんが本を読みながら文字を指で追ってくれるおかげで、少しずつ文字の形と音が結びつき始めていた。
今日も母さんが一冊の本を持ってきた。
「シャウト、今日はこれを読みましょうか」
全部は分からない。
だが「シャウト」と「読む」くらいなら、なんとなく意味が分かる。
母さんは俺の隣に座り、本を見せてくれた。
表紙には、五人の人間が描かれている。
そして、その五人全員の背中には翼があった。
「…………?」
これ。
どこかで見たような。
俺は頭上を見る。
そこには、生まれた時から何度も見てきた五人の人形が吊るされている。
似ている。
いや、たぶん同じだ。
母さんは表紙を指差し、ゆっくりと読んだ。
「天賢伝説」
てんけん……でんせつ?
意味はまだ分からない。
母さんは本を開き、俺にも聞き取りやすいようにゆっくりと読み始めた。
「これは大昔、はるか古代のお話」
かつて世界は、今よりも争いが多く、恐ろしい魔物や災害によって多くの命が失われていたという。
そんな時代に、五人の偉大な魔術師がいた。
火。
水。
風。
雷。
そして、土。
それぞれが強大な魔術を操り、その背中には大きな翼があった。
人々は彼らを天賢と呼んだ。
ある時、世界を大きな災いが襲った。
空は暗く染まり、恐ろしい影が世界を覆ったという。
それがどこから現れたのか。
何故生まれたのか。
今となっては、誰にも分からない。
五人の天賢は、人々を守るために立ち上がった。
長い戦いの末、天賢たちはついに災いを退けた。
だが、その代償はあまりにも大きかった。
多くの命が失われ、土地には深い傷が残り、多くのものが失われた。
戦いが終わった後。
五人の天賢は傷ついた土地を立て直し、人々に魔術を教え、二度と同じ災いが世界を襲わぬよう見守ることを誓った。
そして、その意志と名は後の時代へと受け継がれていった。
「火、水、風、雷、土。世界を守りし、五人の天賢」
母さんが最後のページをゆっくりと読み上げる。
「彼らの光がある限り、世界に再び、あの暗闇が訪れることはないでしょう」
本が閉じられた。
「…………」
なるほど。
……と言っても、全部理解できたわけじゃない。
まだ知らない言葉も多いし、細かい内容までは分からなかった。
ただ、大体は分かる。
この翼の生えた五人は、昔この世界を救ったすごい魔術師らしい。
そして、天賢と呼ばれている。
俺はもう一度、頭上に吊るされた五人を見る。
生まれた時からずっと見ていた人形。
ただの赤ん坊用の飾りだと思っていたが、この世界では有名な人物を模したものだったのか。
火、水、風、雷、土。
五つの魔術。
そして、世界を救った五人の天賢。
魔術が存在するだけでも十分すごいのに、そんな伝説まであるとは。
もっと知りたい。
魔術のことも。
天賢のことも。
この世界のことも。
今の俺には、知らないことばかりだ。
でも。
だからこそ、面白い。
俺は閉じられた『天賢伝説』を見つめながら、まだ何も知らないこの世界に、少しずつ興味を持ち始めていた。
2026/9/12 改稿




