シャイターナ 2
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「アドナナ様」
立ち上がった横で、ナジャーフはしかし、不思議そうな顔をした。
「まあ、シャハラ。どうかしたの?」
「……え?」
シャハラは驚いてナジャーフを見、それからアドナナを見、またナジャーフに視線を戻した。
「ナジャーフ様……アドナナ様が」
「アドナナ?」
「はい。あの、おそらく上級妃の……」
ナジャーフは首を傾げた。
「そんな名前の上級妃は聞いたことがないけれど……新しく入ってくる予定でもあったかしら?」
ナジャーフが女官の一人に訊ねる。女官も困惑顔で首を横に振った。
シャハラは大きな違和感を覚えた。
何故なら目の前にアドナナがいるのに、ナジャーフたちはまるでそれに気づいていないかのようだ。否。気づいていないのではなく――
シャハラはひゅっと息を呑んで、勢いよくアドナナに視線を向けた。
妖艶な美女は、真っ赤な唇を弧の形に持ち上げて笑っている。
――くさい。
ユエに掛けられた言葉を思い出した。
ユエに「くさい」と言われた直前に会っていたのは、一回目も二回目も――アドナナだ。
(なんで気づかなかったの!)
違う。気づけなかった。
何故ならアドナナは、シャハラの知る幽鬼や妖怪の類とまるで違う。人にしか見えない。だからこそ、シャハラはアドナナが人ならざるものであるとわからなかった。
背筋に冷や汗が伝う。
「ナジャーフ様、ここから急いで逃げてください」
「シャハラ?」
「異形がいます」
ナジャーフが大きく息を呑んだ。女官たちの口からは悲鳴が上がる。
彼女たちは書庫の中に視線を彷徨わせたが、やはりアドナナの姿は見えないようだった。
(どうしよう……)
逃げてとナジャーフたちに言ったが、書庫の入り口近くにはアドナナがいる。脇をナジャーフたちが通り過ぎた時、アドナナは彼女たちを害さないだろうか。
アドナナは、いい精霊と悪魔、どちらだろう。
人に害のない精霊であればナジャーフたちを見逃すだろう。しかし、悪魔ならばわからない。
ラーイダが奇怪な死を遂げた事実がある以上、目の前のアドナナがいい精霊である可能性は低かった。彼女が犯人だ。これは勘だが、そう思う。
シャハラの腕を、ナジャーフがぎゅっと掴んだ。
「どこにいるの? 悪魔なの? だったら、あなたも逃げないと……!」
「わたしは、最後でいいです」
そしておそらく、シャハラは逃がしてもらえないだろう。そんな予感がする。アドナナはしっかりとシャハラを見つめて、楽しそうに笑っていた。アドナナが女の悪魔であると気づいたシャハラを、彼女は決して逃がしはしないだろう。
アドナナが見えていないナジャーフたちはまだ可能性が残っている。
シャハラがアドナナの注意を引き付けることができれば、ナジャーフたちは逃げられるかもしれない。
何とかしてナジャーフたちの逃げる隙をつこうと考えていると、ナジャーフが悲鳴を上げた。
「駄目よ! あなたも一緒に逃げるの! 陛下に聖職者を呼んでいただくように進言しましょう! 急いで!」
すると、アドナナがちらりとナジャーフを見た。
ひやりとしたシャハラは、とっさにナジャーフを背に庇える位置に移動する。
アドナナは真っ赤な爪を顎の下にあてて、同じく真っ赤な目を瞬かせた。
「……あたくしは、若い子が好きなんだけど」
ぽつんとつぶやいたアドナナが、一瞬後、シャハラの視界から消えた。
ハッとしたときは目の前にいて、長い爪の先をナジャーフに向かって伸ばす。
シャハラはとっさに、左手でその手を叩いた。
バチッと大きな音がし、アドナナがさっと手を引っ込める。
アドナナの爪の先がシャハラの手の甲を傷つけ、つぅ……と赤い血がしたたり落ちた。
ナジャーフが叫ぶ。
「シャハラ、血がっ!」
「ナジャーフ様、どうか動かないでください。目の前に……悪魔がいます」
アドナナは悪魔で確定だろう。ナジャーフを傷つけようとしておいて悪魔でないはずがない。
シャハラは右手で左手首に触れた。
どうやらこの数珠は、多少なりとも悪魔にも効果がありそうだ。
アドナナは、ぺろりと赤い舌を伸ばして自分の唇を舐めた。
「あなたはとても美味しそうだけど、正体に気づかれた以上、その目は危険ね。もう少し熟して……一番美味しくなってから食べたかったんだけど、仕方がないわ。だって、あなたがいたら、せっかくのあたくしのレストランに聖職者が入り込みそうなんだもの」
(レストラン……)
非常に違和感がある言葉だった。つまり、ハレムがこの悪魔のレストランということだろうか。
その、食事はいったいなんだろう。シャハラの脳裏に、ラーイダが浮かぶ。もしかしなくとも、干からびて死んだラーイダは、アドナナの食事にされたのだろうか。
シャハラの全身に怖気が走った。
シャハラがこれまで見た幽鬼や妖怪は、それほど害のあるものたちではなかった。
せいぜい、父の髪の毛を引っ張って頭頂を薄くするくらいのことで、命を奪うような危険なものはいなかったのだ。
ラーイダに至ってはまったくの無害で、彼女は幸せそうに輪廻の輪に乗った。
それが、目の前の悪魔はどうだろう。当たり前のように人の命を奪い、それを食事と言う。悪魔とは、これほどまでに恐ろしい存在だったのか。
(どうしたらいいの?)
シャハラは、見ることしかできない。
唯一左手首の数珠がアドナナに効果を発揮するようだが、これで彼女を退けることはできない気がした。現に、アドナナは涼しい顔をしている。シャハラの数珠にはじかれたことなど、子猫に引っかかれた程度のことなのかもしれなかった。
ナジャーフも女官たちも皆、今にも倒れそうなほど青ざめていた。
彼女たちにはアドナナは見えないけれど、シャハラの手の甲が傷つけられたのを見て、そこに見えないものが確かに存在していると強く認識したのだ。
見えないけれど悪魔がいる。それは恐怖だろう。よく耐えている方だと思う。人によっては発狂して泣き叫んでもおかしくない。
「シャハラ……」
「なんとかして隙を作りますから、合図をしたら逃げてください」
「駄目よ! あなたはどうするの!」
どうもできない。もう、アドナナはシャハラを獲物として認識している。シャハラが逃げれば追って来るだろう。どうあっても、シャハラはここでアドナナの相手をするしかないのだ。
(ユエ……!)
なんとかして、ユエを呼べればいいのだが、彼は今、アズラクの間で封印のランプ相手に嫌がらせという格闘をしている。書庫からアズラクの間はそれなりに離れているので、異変に気付かないだろう。精霊の気配は、仙であるユエは感じ取りにくいと言っていたから。
「ナジャーフ様、もし、ここから無事に逃げることができたら、何も考えずにアズラクの間の扉を叩いてわたしが危ないと叫んでください。それだけでいいです。お願いしてもいいですか?」
「わかったわ。扉を叩いて叫べばいいのね」
「はい」
もしそれでユエが間に合えば何とかなる。
だが、間に合わなければ――いや、最悪のことを考えるのはよそう。母の形見の数珠の力を信じて、できる限り目の前の悪魔に応戦するのだ。
シャハラはぐっと左手の拳を握り締めた。
「いいですか。いきま――」
「俺様の飯係に何しやがった、この厚化粧女がっ!」
シャハラはナジャーフに合図を送ろうとしたが、その寸前で失敗した。
何故なら声を荒げたユエが、書庫の扉を容赦なく蹴破って怒鳴り込んできて、そして、容赦なくアドナナに回し蹴りを食らわせたからだ。
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