シャイターナ 1
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次の日、シャハラはさっそく書庫へ向かった。
ユエはと言えば、今日も今日とて、ファイサルが封印されていると思われるランプに嫌がらせ――ではなく、封印を解こうとしている。今日は煙でいぶしてみるらしい。
(中のファイサルが逆に怒って出て来なくなるんじゃないかしら……)
せっかく封印のランプを盗み出したのに封印が解けなくてユエがイラついているのはわかる。わかるが、やっていることが幼稚すぎて、それが封印を解くことにつながるとは到底思えない。
シャハラは本棚の前に立ち、中身を確認していなかったものの、左から順番に手に取って表紙をめくった。
時間がないので、じっくり読むようなことはしない。その本が何の本なのかがわかれば次に行く。
(一冊か二冊くらいはあると思うんだけど)
カディール国は精霊信仰の国だ。
今でも、モスクは精霊を崇める場である。
精霊と神、または悪魔と同一視され、人に害をもたらさないいい精霊を神として崇め、人に害をもたらす精霊を悪い精霊として悪魔と呼び恐れている。
悪魔は野放しにしておけば世の中に不幸をばらまくと言われており、だから聖職者が封印を施すのだ。
同じ精霊でも、人に害があるかないかで区別するなんて、なんとも人類至上主義なことだが、これに関してシャハラはとやかく言うつもりはない。恐ろしい存在が平然と野放しにされていたら、怖くて夜も眠れなくなってしまうからだ。
この精霊信仰だが、シャハラが生まれるずっと前。それこそ、百年以上前までは、今よりももっと精霊が身近に存在していたと聞く。
しかし今、精霊は姿を隠し、人の前にはなかなか現れない。それこそ、カリムの母親の死に関係したとされて封印された精霊――おそらくファイサルだろうとあたりをつけている存在が、この国で精霊が目撃された最後だろうと思われた。シャハラの推測だが。
ともかく、それ以前は、今よりももっとこの国に精霊の息吹を感じ取れた。
ならば精霊について書かれた本が書庫にあっても不思議ではない。
(精霊嫌いらしい陛下が、精霊の本を処分していなかったらの話だけどね)
気がかりと言えばその点だが、精霊を嫌っていても、母親の形見だったルビーの耳飾りを処分せずに宝物庫に残していたのだから、さすがにそこまではしていないだろうと思いたい。あの耳飾りは、女の精霊の持ち物だったらしいから、精霊にまつわるものを処分するのならば、真っ先に捨てられてもおかしくないものだろう。
「あら、あなたもここにいたのね」
シャハラが本を調べていると、書庫にナジャーフが入って来た。今日も複数名の女官を連れている。
「ナジャーフ様、どうされたんですか?」
ナジャーフはにこりと微笑んで、シャハラの隣に立った。
「わたくしも何かお手伝いできないかと思って。以前、あなたがここで精霊について調べていたのを思い出したのよ。ハレムに精霊……悪魔がいるのならば、早く見つけて聖職者に封じてもらわなくてはね。精霊を見ることはできなくても、情報を集めるくらいならわたくしも役に立てるかもしれないでしょう?」
以前、シャハラが怪異を調べていると聞いて青くなっていた時とは大違いな反応だ。
驚いていると、ナジャーフが困った顔をした。
「わたくしだって、妃の一人ですもの。陛下のお役に立ちたいわ」
「恐ろしくないんですか?」
「恐ろしいかと訊かれたら……正直なことを言えば恐ろしいけれど。それはあなたも一緒でしょう? なんでもかんでもあなた一人に押し付けるのは、気が引けるわ」
(ナジャーフ様、優しい……!)
カリムに爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい気分だ。
「それで、どこまで調べたの?」
「ここから左の棚は調べました」
「そう。ではわたくしたちは右から調べましょう」
ナジャーフがお付きの女官たちに目配せする。
一人はお茶を淹れに行き、残りはナジャーフと共に手分けをして本の内容を調べはじめた。
残りの本は五十冊もない。これならばすぐに調べ終えるだろう。
ナジャーフに感謝しつつ、シャハラも手元の本に集中する。
何冊かの本の中を確認し終えた頃、ナジャーフの女官がお茶の準備を整えて戻って来た。
「シャハラ、何冊か持って、そこの長椅子で座って調べましょうか。根を詰めすぎると疲れてしまうもの。ちょうど、お茶も入ったみたい」
「そうですね」
シャハラはともかく、ナジャーフに立ちっぱなしで調べものをさせるのには気が引ける。お茶のいい香りもするし、お茶を飲みつつ調べるのもいいかもしれない。
シャハラが五冊ほど本を抱えて長椅子に移動すると、ナジャーフも女官たちに十数冊の本を持たせて長椅子に座った。
「ナジャーフ様は、文字が読めるんですね」
この国は識字率が低く、特に女性は文字の読み書きができない人が多い。
ナジャーフはくすりと笑った。
「わたくしは、実は陛下と子供の頃からの知り合いなの。だからというわけではないんだけど、陛下が即位する前に娶ったはじめの妃がわたしなのよ。……これは、他の妃には言わないでほしいのだけど、王妃となった方の多くは、王が即位前に娶った最初の妻が一番多かったわ。子宝に恵まれたのもあるでしょうけど、どうしてもそれだけ情が傾くのでしょう。わたくしも、図々しいことにそうなると思っていたの。だから、少しでも陛下のお役に立てればと思って、文字の読み書きや算術を勉強したのよ」
なんとなく、年齢的にナジャーフがカリムの最初の妻だろうとはあたりをつけていたが、即位前からの付き合いらしい。
先王が早世したため、カリムは十八歳で王になった。その直前にナジャーフが妃になったと考えても八年の付き合いだ。それ以前ならもっと。カリムとナジャーフにはそれだけ長い、特別な絆があるのだろう。
もし、ナジャーフに子が産まれていたら、彼女の言う通りカリムはナジャーフを王妃にしたと思う。だけど、運命の悪戯か、そうはならなかった。ナジャーフはどれだけ悲嘆にくれただろうか。彼女の絶望は、どれだけ想像してもシャハラが正しく知ることはできない。
ナジャーフの女官も主人に習って文字の読み書きを学んだのかもしれない。それともナジャーフがそれだけの教養を女官たちに求めたのか。彼女たちも平然とした顔で本のページをめくっている。
「早く片付けばいいわ。……ラーイダは、珍しく陛下が気に入った妃だったのに」
「珍しく?」
「あら、言っていなかったかしら? 陛下はどうも好みにうるさくて、一度通うと飽きてしまうことが多いのよ。だから、何夜も同じ妃妾の元に通うのは珍しいの。ラーイダのところへは、それほど間を開けずに通っていたようだから……」
それは、ラーイダの雰囲気がナジャーフとどことなく似ていたからではないだろうか。なんとなく、シャハラはそう思う。
何故ならカリムは、跡取りが望めないとわかっていてナジャーフの元に通っているようだから。つまりは、他の妃にはなかなか興が向かないのだ。他の妃妾へは、物珍しいからとりあえず一夜は通っても、それで満足するのだろう。
(いまだに陛下にお子がいないのは、そう言うことなのかもしれないわね)
カリムは、ナジャーフを特別に寵愛しているのだ。
ままならないものだなとシャハラは思う。それだけ想いあっていても、王というのはそれだけで一番を決められない。
「ナジャーフ様は、嫉妬とか、しないんですか?」
「ふふ、見た目は幼くても、やっぱり十八歳の女の子ね」
ナジャーフはころころと笑った。
「もちろん、人並みに嫉妬するわ。陛下が他の女性に熱を上げれば悔しいとも思うもの。やっぱり、好きな男性の一番でありたいものね。……でも、わたくしは、今の陛下に最も必要とされる跡取りを、産んで差し上げることができないから」
割り切っている、ということだろうか。それとも、割り切ろうと努力しているということだろうか。シャハラはきっと、後者だろうなと思った。そうでなければ、カリムの気を惹く情報を、シャハラから得ようとはしなかっただろう。ナジャーフは今も、カリムの一番でいたくて仕方がないのだと思う。子が産めないと言う、王の妃としては致命的とも言える欠点を持つからこそ。
(これが、王の妃でなければ違ったんでしょうけど……)
どれだけ理不尽なものを感じても、王の妃となった女性に求められるのは、子を産むこと。それが一番で、必要なことはそれだけと言っても過言ではない。
子を育てるときは教育係がつくため、母親の思想が子に色濃く受け継がれることはないのだ。だからこそ、産むことがすべて。気分はあまりよくないが、ハレムはそう言うところだ。王の血を残すための、そのためだけに作られた場所。
まあこれは、カディール国に限ったことではない。
シャハラの母の祖国である燦にも、同じような、王のための花の園があった。どこの国も、どの権力者も、考えることは似たり寄ったりだ。
こんなことを言っても仕方がないけれど……と思いながら、シャハラは口を開いた。
「わたしは、ナジャーフ様が好きですよ」
「まあ!」
ナジャーフが本を置いて、シャハラをぎゅっと抱きしめて頬を寄せた。
「はじめて見た時から思ったけれど、なんて可愛らしいのかしら」
子ども扱いされている気がしたが、ナジャーフの年齢からすれば、十八歳なんて子供だろうと思いなおした。余計なことは考えない。見た目は幼いとさっき言われたが、それは聞かなかったことにしよう。
考えてみたら、ナジャーフははじめてシャハラに優しくしてくれたこの国の住人かもしれない。
アブダラもアブダラの義母も異母兄弟姉妹も、邸の使用人も、シャハラのことを気味悪がってろくに会話すらしたがらなかった。顔を見れば逃げる人もいたくらいだ。
アブダラの邸で、シャハラは別に息を殺して生きていたわけではない。恐れられることにはすっかり慣れたし、彼等の気持ちを慮って行動していたわけでもない。食事が欲しければ怯えるのがわかっていても厨房に向かったし、廊下の端から異母兄弟姉妹が歩いてくるのが見えても、彼等のために道を変えたりはしなかった。
彼らが悲鳴を上げたり青ざめたりしても、内心で舌を出すことはあっても、心が痛むことはまるでなかった。
だけど、一人には違いなかった。
そのシャハラが、ハレムに入ることになり、ナジャーフは最初にシャハラに優しくしてくれた人だ。まあ、そこに打算があったとしても、シャハラを恐れずに話しかけてきた。シャハラが人ならざるものを見ることができると知っても態度を変えなかった。今もこうして親しくしてくれる。
だからこそ、シャハラはナジャーフには幸せになってほしい。
彼女の幸せがどこにあるのかは、ナジャーフ本人でないのだからわからない。
だけど、不幸にはなってほしくない。
この優しくて懐の深い女性には、何よりも幸福が似合うはずだ。
「さ、続きを確認しましょう」
シャハラをしばらく抱きしめて満足したらしいナジャーフが、再び本に手を伸ばす。
シャハラも本を開いた。――そのときだった。
「あら、先客がいたのね」
甘ったるい声がした。
顔を上げたシャハラは、真っ赤な唇をした妖艶な上級妃アドナナが、書庫に入って来るのを見た。
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