砂に溺れた女 5
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リシャーフ・マスジドへは、今夜出向くことになっている。
ユエ一人で行くのかと思ったのだが、シャハラもついて来いと言われた。シャハラの「目」が役に立つかもしれないと言うのだ。
ハレムに入れば、原則、外に出ることは叶わない。
だがユエの手にかかれば、こっそり夜の散歩を楽しむくらいは可能らしいので、シャハラは二つ返事で了承した。不謹慎だが、夜の散歩というのが楽しそうに聞こえたからだ。
リシャーフ・マスジドに向かうのが夜なので、シャハラは今日も書庫にやってきた。
続きの本の中身を確認していると、書庫に誰かが入って来る気配がした。
顔を上げると、それはナジャーフだった。今日も複数名の取り巻き女官を連れている。
シャハラはふと、いつも女官を大勢連れて歩いているナジャーフは、もしかしたらハレムの中の誰かを警戒しているのではないだろうかと思った。
それが一人なのか複数名なのかはわからない。
だが、ナジャーフは昔カリムの子を宿し、そして毒を盛られて流産したと聞いた。
もう子を産めない体になったと彼女は言ったが、それでも、カリムに寵愛されているナジャーフを疎ましく思っている妃妾はいるかもしれない。
つまりナジャーフは、女官という盾がなければ、一人で気軽に出歩けないのだ。
それは、シャハラのただの推測に過ぎないが、間違ってはいない気がする。
切なくなっていると、ナジャーフがにこりと微笑んで近づいてきた。
「精が出るわね。怪異について調べているの?」
「ええと、はい」
本当は微妙に違うが、結果として怪異の原因究明に繋がるのだから嘘ではなかろう。ファイサルが封印されているかどうかを調べ、封印されていたら彼の封印を解いて怪異の正体を探ってもらうのだ。
シャハラはせっかくだし、ナジャーフに精霊について訊ねてみることにした。本はまだ発見できないが、彼女は何か知らないだろうか。
「ナジャーフ様、精霊について知っていることがあれば教えてくださいませんか?」
「まあ、精霊? じゃあやっぱり、あの件は精霊が関係しているのかしら?」
「まだはっきりとはわかりませんけど、その可能性があると思って調査しています」
「そう……」
ナジャーフは少し考えるようにうつむき、それから窓のそばに置かれている長椅子を指さした。
「では、あそこでお話ししましょう? お茶とお菓子を運ばせるわ。わたくしも少し気分転換がしたいの。ここなら静かだし、気分が落ち着きそう」
(気分転換?)
その言葉が引っかかり、じっくりとナジャーフの顔を見れば、どこか青白い。
「体調が悪いのなら、あの、無理には……」
「いいのよ。体調ではなくて気分の問題なの。……例の妃だけどね、まだはっきりしないけれど、医官の話では陛下の子を宿していた可能性があるんですって」
ナジャーフが声を落として言った。
シャハラはひゅっと息を呑む。
「……わたくしに毒を盛った犯人は、ずっと前に捕まって処罰を受けたわ。でもまだ、こういうことが続くのね。怪異は恐ろしいけれど、犯人が妃妾の誰かよりは、怪異の方が何倍もましだと思ってしまったわ」
行きましょう、とナジャーフがシャハラの背中に手を添えて長椅子へ誘う。
ナジャーフの女官の一人がお茶とお菓子を準備しに向かった。
「精霊についてだったわね?」
ナジャーフが気を取り直すように華やかな声を上げた。
「わたくしが知っていることは多くはないけれど、一つなら知っているわ。わたくしが子供の頃に封印された精霊のお話よ」
「どんな精霊ですか?」
「さあ、それはよくわからないの。ただ、どうして封印されるに至ったのかってお話なら知っているわ。ただ、本当かどうかは定かではないの。あくまで、こういうお話があったってだけのこと。精霊の封印なんて、それこそ聖職者や陛下くらいしか詳しく知らされないもの。封印の器が盗み出されたら大変ですものね」
「封印の器?」
「ランプとか壺とか、そういうものに精霊を封印するでしょ? あれは普通のランプや壺ではなく、昔誰かから聞いた話によれば、高位の聖職者の骨を混ぜて作られた、特別なものらしいわよ」
ひくっとシャハラの頬が引きつった。
ナジャーフがくすくすと笑う。
「本当かどうかはわからないわ。わたくしは眉唾だと思っているけれど。ともかく、特別な製法で作られたランプや壺なの。その製法は門外不出とかで、知っているのはそれこそ、そのランプや壺を作っている工房の人間だけよ」
シャハラだって、精霊を封印するくらいだから、そのランプや壺がその辺に転がっているものと同じだとは思っていなかった。だが、聖職者の骨……。嘘であると信じたい。
シャハラがふるりと肩を震わせると、ナジャーフが幼子にするようにそっと頭を撫でる。
そのとき、女官がお茶とお菓子を持って戻って来た。
お茶はミントティーで、お菓子はバクラヴァだ。
バクラヴァを食べたらシロップで手が汚れるので、手を洗うための水が入った容器と布も用意してある。さすがはナジャーフの女官。準備がいい。
毒見のためか、女官が目の前でバクラヴァを一つとミントティーを口にした。
以前、市でお茶をした時には見られなかった行為だ。下級妃ラーイダが奇妙な死に方をし、その原因がわからない今、ナジャーフは口入れるものに警戒しているようだった。
「さ、どうぞ」
ナジャーフに勧められたので、シャハラはさっそくバクラヴァに手を伸ばした。甘い焼き菓子は、噛めばじゅわっとシロップの甘さが広がり、その後でナッツの香ばしさが追いかけて来る。
甘いお菓子のあとにミントティーを飲むと、今度は爽やかな清涼感が口いっぱいに広がって、これは無限に食べられるやつだと思った。
「ふふふ、以前も思ったけれど、あなたは本当に美味しそうにお菓子を食べるわね」
ナジャーフがミントティーに口をつけて笑う。
少しの間お菓子とお茶に舌鼓を打ち、ナジャーフは話を再開した。
「十五年以上前……二十年までは経っていないと思うけれど、その頃、王宮に精霊が現れたことがあるのよ。精霊が人の前に姿を見せることはとても珍しいの。精霊は、自分の姿を消すことができると言われているから」
シャハラは黙ってナジャーフの話に耳を傾けた。
女官がミントティーのお代わりを入れてくれる。青く爽やかな香りが鼻孔をくすぐった。
「その頃、陛下のお母様……前陛下の王妃様は病に伏せっていらっしゃったわ。その枕元に、夜な夜な精霊が現れたと言うの。そのせいで前王妃様は憔悴して、どんどんお体が弱って行ったのよ。だけど、どうしてなのか、前王妃様は亡くなる少し前まで精霊のことを口にしなかったの。前陛下がおかしいと気づいて、そして発覚したときには、前王妃様はもう回復の見込みがないほど弱っていらっしゃったわ。前陛下は急いで聖職者を読んで精霊を封印させたけれど、前王妃様はその二月後にお亡くなりになったの」
「精霊は、枕元に現れただけなんですか?」
「それはよくわからないわ。前陛下は精霊が王妃様の生命力のようなものを吸い取って殺したと思っていたみたみたいだけど。でも、そうそう、カリム様……陛下からこんな話を聞いたことがあるわ。前王妃様はお亡くなりになる前に、ルビーの耳飾りを精霊に返してあげてほしいと言ったそうよ。先日陛下があなたに下賜した、あの耳飾りね」
「じゃあ、枕元に現れた精霊は、ルビーの耳飾りの持ち主だったんですか?」
「それが違うの。前王妃様の枕元に現れたのは、男の精霊だったんですもの。あの耳飾りは、女の精霊の持ち物だと言われているし、どこからどう見ても女物よ」
だとすると、前王妃が返してあげてほしいと言った相手は、枕元に立っていた男の精霊ではなくて別の精霊なのだろうか。
ナジャーフはその精霊がどこに封印されているのかは知らないようだったが、王宮に現れて、そして前国王が急いで聖職者を呼んだのならば、首都アワティフに封印の器があると考えていいのではないだろうか。急いで聖職者を呼んだのだから、地方のモスクから呼びつけたとは考えにくいし、何より、アワティフ最大のモスク【リシャーフ・マスジド】には最も多くの聖職者が暮らしており、高位の聖職者も大勢いる。
前国王がその精霊が王妃を害したと思っているのならば、一番力のあるモスクに封印の器を置くだろう。決して封印が解けないように。
となると、その精霊はリシャーフ・マスジドに封印されている可能性が高い。
(それは、ファイサルなのかしら?)
わからない。だが、もし封印されている精霊がファイサルではなく、別の精霊だったとして、その精霊が本当に王妃を死に至らしめたのならば――危険ではあるまいか。
ユエと精霊、果たしてどちらが強いのだろう。もしユエでも太刀打ちできない相手なら、大問題に発展するのではなかろうか。
シャハラは途端に今夜の件が心配になって来た。
(でも、ユエは行く気満々だし……腹をくくるしかないのかしら?)
ナジャーフがミントティーに口をつける。どうやら精霊の話はこれで終わりのようだ。
「ナジャーフ様、ありがとうございました」
「あら、いいのよ。こんなお話でも役に立ったかしら?」
「はい」
「よかったわ。怪異の件、大変だと思うけど、あなたしか頼れないの。陛下のためにもお願いね。でも、あまり危険なことはしないでちょうだい」
それから、ナジャーフは「秘密よ」と言うように唇に人差し指をあてた。
「陛下はね、お母様のことがあるから、精霊を憎んでいるの。だからこそ、この怪異が精霊の仕業であったのなら、絶対にその精霊を許しはしないでしょう。あの方、あれでなかなか短気なの。わたくしは、精霊があの方の前に姿を現さなければいいと、心の底から思っているのよ。激怒して何をするか、わからないもの」
ああ、だからなのか、とシャハラは得心した。
カリムとはじめて対面した酒宴の席で、彼は自分の治世に精霊は必要ないと言っていた。それは憎んでいたからだ。それがいい精霊だろうが悪い精霊――悪魔だろうが関係ない。彼は精霊そのものを、受け入れることはできないのだ。
精霊は、死なないと言われている。だから殺すこともできない。できるのは、封印するだけ。
これは、法師と聖職者の――幽鬼や妖怪と精霊の、大きな相違点だろう。
法師は幽鬼や妖怪を調伏、つまり消し去ることができる。
シャハラはふと、それならば「仙」はどうなのだろうと思った。
ユエは自分は妖怪ではなく仙だと言った。彼は、幽鬼や妖怪に近いのだろうか。それとも精霊に近いのだろうか。この世から、消えることはないのだろうか。
不死であればいい。ふと、そう思ったのは、どうしてだろう。
ユエが誰かに消し去られる様を見たくはないと、シャハラは思った。
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