外伝 御影栞と西野竜(後編)
キッチンに、出汁の香りが広がっていく。
鍋の中では大根がゆっくり煮えていた。
味噌汁から立ち上る湯気。
まな板の上では雫が手際よくイカを切っている。
御影も隣で教わりながら包丁を動かした。
「そんな感じです。」
「焦らなくて大丈夫ですよ。」
「うん。」
慣れない手つき。
それでも一つ一つ丁寧に覚えていく。
その時だった。
インターホンが鳴る。
「来た。」
御影が玄関へ向かう。
扉を開けると、仕事を終えた西野が立っていた。
「栞。」
「勉強教えてくれ。」
いつもの挨拶。
いつもの夜。
部屋へ入ろうとした西野は、玄関にもう一人いることに気付く。
「あれ?」
「お客さん?」
御影が答えた。
「紬ちゃんの妹だよ。」
雫は笑顔で頭を下げる。
「はじめまして。」
「西野さんの話は姉から聞いてます。」
西野は少し照れくさそうに笑った。
「そっか。」
部屋の中を見渡す。
鍋から湯気が立っている。
「今日は帰った方が良いか?」
少し疲れた顔だった。
雫は首を振る。
「まもなく私帰るので大丈夫です。」
御影が台所から声を掛ける。
「せっかくだし。」
「ご飯もうすぐ出来るから。」
「三人で食べようよ。」
西野はコンビニの袋を持ち上げた。
「カップラーメン買ってきた。」
「時間がもったいない。」
御影は少し困った顔になる。
「竜、追い込みすぎだよ。」
「せめてご飯はしっかり食べよう。」
西野は首を横に振る。
「時間がもったいないって言ってんの。」
少しだけ空気が止まる。
雫が静かに口を開いた。
「西野さんは会社立ち上げる予定と聞いていますが。」
「そうだけど。」
「従業員にもあなたと同じ時間の使い方をさせるつもりですか?」
西野は答えなかった。
雫は続ける。
「長続きしない会社を作るつもりですか?」
「今、無理してまで。」
静かな声だった。
責めるような口調ではない。
ただ、真っ直ぐだった。
「西野さんの代わりはいるんですか?」
御影は驚いて聞いていた。
初対面の相手に。
ここまで真っ直ぐ意見を言える人を。
御影は陽介しか知らなかった。
雫は西野を見つめたまま言う。
「今日は、栞さんがご飯を作りました。」
「どうしますか?」
西野は少し不貞腐れたような顔をする。
しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……食べるよ。」
御影は嬉しそうに食卓へ料理を並べた。
大根とイカの煮物。
豆腐の味噌汁。
炊きたてのご飯。
どれも湯気が立っている。
西野はその湯気をぼんやり見つめた。
(え? なんだ? この感覚。)
(料理を体が求めてる。)
自然と手が箸へ伸びる。
「食べて良いか?」
御影は笑った。
「はい、いただきます。」
三人で手を合わせる。
「いただきます。」
西野は煮物を口へ運んだ。
大根が崩れるようにほどける。
イカの旨味が広がる。
続けて味噌汁を飲む。
温かい。
体の奥へ染み込んでいく。
「うめぇ、沁みる。」
箸が止まらない。
夢中で食べ続ける。
「とまらねぇ。」
御影はその様子を見て思わず笑った。
西野は顔を上げる。
「マジで栞が作ったのか?」
御影は少し照れながら答える。
「雫ちゃんに教わりながら一緒にね。」
西野は頷く。
「そっか、すげえな。」
茶碗のご飯もきれいになくなった。
箸を置く。
「栞、仕事してるのに料理作ってくれて。」
「心配かけてすまない。」
大きく息を吐く。
「はぁー。」
「生き返る。」
雫を見る。
「雫ちゃんだっけか。」
「ありがとう、目が覚めたよ。」
少し考えてから口を開く。
「資格取るの遅くなるけど勉強は休日だけにするよ。」
御影は何も言わず聞いている。
西野は笑った。
「カップラーメンじゃ満足できなくなりそうだ。」
御影も笑う。
「今日は泊まって行きなさい。」
「布団用意したから。」
西野は驚いて御影を見る。
「布団?」
御影は頷く。
「明日はここから仕事に行ったら良いじゃない。」
少しだけ沈黙が流れた。
西野は照れくさそうに頭を掻く。
「……世話になる。」
雫は静かに立ち上がった。
「ご馳走様です。」
「私は帰りますね。」
西野を見る。
「西野さんしっかり休んでくださいね。」
「おやすみなさい。」
「おう。」
雫は笑顔で玄関を出て行った。
部屋が静かになる。
西野は湯飲みを手に取り、小さく笑った。
「栞。」
「なんか陽介がいるみたいだったな。」
御影も苦笑する。
「そうだね。」
「びっくりした。」
「竜にハッキリ意見言うんだもん。」
西野は少し考える。
「陽介まだ独り身かな?」
「二人は合うんじゃねえか?」
御影はすぐに返した。
「竜、余計なことはしないの。」
「今は、自分のことをやる。」
西野は苦笑いする。
「はいはい。」
御影は少し笑って言った。
「これからも一緒にご飯食べよ。」
西野は静かに頷いた。
「ああ。」
その一言だけで十分だった。
二人にとって当たり前の日常は、少しだけ温かくなった。
終わり




