外伝 北見葵と柳下麟太郎(後編)
家に帰る。
玄関で靴を脱ぎ、そのまま鏡の前へ向かった。
鏡を見る。
そこに映るのは。
少しだけ印象が変わった自分だった。
髪型が変わっただけ。
それなのに、不思議と表情まで違って見える。
無理に誰かになったわけじゃない。
少しだけ、自分の良さを引き出してもらった。
胸が熱い。
北見の事だけじゃない。
自分を見てくれる人がいる。
自分を信じてくれる人がいる。
それが嬉しかった。
柳下はその日から、
鏡を見る時間が少し増えた。
スーツの着こなし。
姿勢。
笑顔。
営業資料だけではなく、自分自身にも目を向けるようになった。
一か月後。
約束の日。
柳下は天野呉服店を訪れた。
「お待たせしました。」
雫が大切そうにスーツを抱えて現れる。
丁寧に仕立てられた勝負スーツ。
柳下は静かに袖を通した。
肩が合う。
袖の長さもぴったりだった。
鏡の前に立つ。
自然と背筋が伸びる。
北見が満足そうに頷いた。
「うん。」
「良い感じ。」
雫も嬉しそうに笑う。
「スーツ作り。」
「楽しかったです。」
「ありがとう。」
柳下が頭を下げる。
雫は少し照れながら笑った。
「お金は。」
「契約取れたらご飯ご馳走で良いですよ。」
「私と北見さんで。」
「お店探しておきますね。」
冗談まじりに笑いながら、
雫は部屋の奥へ消えていった。
店の中は穏やかな空気に包まれていた。
帰り道。
柳下は北見を家まで送った。
夕方の風が心地良い。
二人は他愛のない話をしながら歩く。
家の前に着く。
「じゃあ。」
そう言って別れようとすると、
北見が思い出したように振り返った。
「ちょっと待ってて。」
北見は家へ入り、
小さな箱を持って戻ってきた。
「プレゼント。」
「使ってね。」
「私からのエールだよ。」
「ありがとう。」
柳下は大切そうに箱を受け取った。
北見は微笑む。
「営業。」
「頑張って。」
その笑顔に背中を押された。
家に着く。
机の上に箱を置く。
ゆっくりと蓋を開けた。
中には腕時計。
思わず息を呑む。
落ち着いたデザイン。
仕事でも普段でも使えそうな一本だった。
あの日の会話が頭をよぎる。
『時間は何で確認してる?』
『スマホ。』
あの質問には意味があった。
営業先でスマホを見る姿より。
腕時計で時間を確認する姿。
その方が相手に安心感を与える。
北見は最初から、
そこまで考えてくれていた。
箱の内側には、小さく文字が書かれていた。
一期一会
柳下はしばらくその言葉を見つめる。
目頭が熱くなる。
北見は。
ちゃんと自分を見てくれていた。
何が足りないのか。
何を伸ばせば良いのか。
全部考えた上で背中を押してくれた。
まずは契約一本。
その一本を持って。
胸を張って報告しよう。
自然と気合いが入った。
翌日。
天野呉服店。
北見と雫が笑っていた。
「麟太郎君。」
「子犬みたいだったね。」
雫も笑う。
「ふふっ。」
二人は顔を見合わせる。
北見が思い出したように笑う。
「麟ちゃんって呼びそうになった。」
「危なかったよ。」
雫は吹き出した。
「危ないですね。」
店の中に。
二人の笑い声が優しく響いた。
終わり




