外伝 北見葵と柳下麟太郎(前編)
「今日もダメだった。」
柳下は会社の椅子にもたれ、大きく息を吐いた。
営業先から戻るたび、同じため息が出る。
話は弾む。
相手も笑ってくれる。
最後には、
「またお願いします。」
そう言ってもらえる。
それなのに。
契約だけが取れない。
机の上に置いた営業資料を眺めながら、小さく呟く。
「何がダメなんだ……。」
何度考えても答えは出ない。
一人で考えるより、誰かに相談した方が早い。
そう思った柳下はスマホを開き、御影連絡スレにメッセージを送った。
『営業がうまくいかない。誰か相談乗って。』
数秒後。
返信が届く。
今、天野呉服店。今日は暇だよ。
来れるなら相談乗るよ。
北見だった。
柳下の表情が少しだけ明るくなる。
『これから行きます。』
⸻
天野呉服店。
暖簾をくぐると、店内には反物が整然と並び、どこか落ち着く空気が流れていた。
北見は柳下の姿を見ると、小さく笑った。
その瞬間。
「あぁ、なるほどね。」
柳下は首を傾げる。
「麟太郎君。」
「営業で一番大事なの何かわかる?」
「提案だと思う。」
「そうだね。」
北見は優しく笑う。
「でももっと大事な事あるの。」
「圧倒的、第一印象。」
柳下は黙る。
営業資料ばかり気にしていた自分には、その発想がなかった。
北見は柳下をじっと見つめた。
「それ。」
「リクルートスーツだよね?」
「……うん。」
「髪いつ切った?」
「一か月くらい前。」
「時間は何で確認してる?」
「スマホ。」
北見は小さく頷いた。
一つ一つ確認するように質問を重ねる。
「お客様はね。」
「何を買うかじゃないの。」
「誰から買うか。」
「だから最初の印象が大事。」
柳下は真剣に聞いている。
営業の技術ではなく、人として見られている。
そんな考え方は初めてだった。
「商品説明なんて頑張ってもパソコンには勝てないよ。」
「今はみんな調べてから買うし。」
「だから。」
「人柄を売るの。」
少し笑う。
「まず見た目改造してみようよ。」
バッグからスケッチブックを取り出す。
慣れた手つきでページを開いた。
「予算ある?」
「あまりない。」
「新しいスーツ欲しいよね。」
「髪は私が切るとして……」
「勝負スーツ作らして貰えませんか?」
二人が振り向く。
物陰から雫が顔を出した。
「聞こえちゃいました。」
照れくさそうに笑う。
「どんなスーツですか?」
北見はスケッチブックに絵を描き始めた。
線が増えるたびに、柳下の姿が紙の上で変わっていく。
雫は真剣に覗き込む。
「なるほどです。」
「じゃあ。」
「採寸しちゃいましょうか。」
柳下はされるがままだった。
肩幅。
袖丈。
腕の長さ。
雫は手際よく採寸を進めていく。
北見と雫。
二人の話はどんどん進んでいく。
「麟太郎君は性格良いから。」
「話は聞いてもらえると思う。」
雫も頷く。
「あとは。」
「任せられるか。」
「そこを見られてると思うよ。」
「新人風な人より。」
「ベテラン風の人の方が安心感あるじゃん。」
柳下は二人の話を聞きながら、
そんな風に見られているのかと初めて知った。
営業は話し方だけではない。
立ち姿も。
服装も。
雰囲気も。
全部含めて第一印象なのだ。
⸻
採寸が終わる。
雫はメモを閉じた。
「来月までには仕上げます。」
「多少直しも必要だと思いますので。」
「準備出来たら連絡しますね。」
「お願いします。」
柳下は頭を下げた。
店を出る。
夕方の風が少し気持ちいい。
「次は髪か。」
北見が笑う。
「今からうち来れる?」
「試し切りさせて。」
「本番はスーツ出来てからだから。」
柳下は少し驚いた。
「お願いします。」
そう答えるしかなかった。
⸻
初めて北見の部屋。
柳下は少し緊張していた。
美容室とは違う。
静かな部屋。
鏡の前に座る。
鏡越しに北見を見る。
北見は仕事の顔だった。
さっきまでの柔らかい笑顔とは少し違う。
美容師として、お客様を見ている目だった。
「今日は髪質チェック。」
「あと少しすくね。」
「あと、おでこ出そうか。」
額に手が触れる。
ドキッとした。
でも北見は何事もないように髪を整えていく。
ハサミの音だけが静かに響く。
「うん。」
「素材は良い。」
「あとは演出だけだね。」
鏡越しに目が合う。
「良い?」
「今回。」
「麟太郎君の改造計画してるでしょ。」
「たぶん。」
「印象はだいぶ変わるよ。」
少しだけ真面目な表情になる。
「でも。」
「絶対変わらないで欲しいとこもあるの。」
柳下は鏡越しに北見を見た。
北見は笑う。
「江口君風に言うと。」
「媚びるな!」
「相手によって。」
「自分を変えちゃダメだよ。」
「中身はそのままでいてね。」
柳下は静かに頷いた。
その言葉が、心の奥へゆっくりと染み込んでいった。
(後編へ続く)




