第9話 傾ける暇がなかった
百十二は五日で百六十になった。
七階の灰狼はもう神眼を増やさない。神様は見慣れたものには飽きるので、四千柱の板で嫌というほど見た流れが、百六十柱の板でも同じように起きた。
≫戦神ガルヴァ:剣姫。いつまで狼と遊んでいる
≫雷神ドゥル:中層だ。中層へ行け
≫知恵の女神アウラ:撮影係が止めているのよ。たぶん
止めているのはアウラの言うとおりだ。
中層は上層とは違って、魔物が二つ三つ同時に来る。声だけで捌ける数ではない。
だがティナは配信のあとに神託欄を読んで毎晩俺に言う。
「中層、行きましょう」
「まだです」
「ガルヴァ様が三日続けて書いてます。アウラ様まで撮影係が止めてるって」
「止めています」
「どうしてですか」
中層では俺の声が間に合わないからだ。間に合わなければ俺が出るし、出れば映る。映ればネルが数え、アウラが並べ、迷子の神が「ほら」と書く。
そう言えば済むのだが言えない。言えば俺が何者かを言うことになる。
「中層十一階。入口のあたりだけ。一時間で戻る。それが条件です」
「……行けるんですね!」
「条件を聞いていましたか」
「聞いてました! 十一階、入口、一時間!」
聞いていて顔が全部喜んでいる。
この顔を映せば神眼は増えると分かっていて止めていたのだから、俺のほうが配信者より臆病だということだ。
◇
中層十一階は、上層と空気が違う。
冷たく湿っていて松明の光が遠くまで届かず、壁の岩には横穴が多い。横穴の多さは、伏兵の多さだ。
石が熱く、降りた瞬間に百六十が二百を越えた。中層に降りたというだけで神様は来る。
≫戦神ガルヴァ:やっと降りたか
≫迷子の神:中層だ。剣姫が中層にいる
メルティアは今日まだ書いていない。百柱で名乗って以来一日に一度しか書かず、書くときは短い。それでもこの一柱が書くと神眼が増えるのは、この神が見ているならと付いてくる神がいるからだろう。
「右の横穴。岩蜥蜴。首を狙わない。前足を斬って動きを止めてから」
「はい!」
一匹目はそれでいけた。前足を落とされた蜥蜴が壁に頭をぶつけたところで、ティナが首を落とした。
二匹目は後ろから来た。
「振り向かない。前へ四歩、それから左」
四歩進んで左へ寄ると蜥蜴の顎が空を噛んだ。ティナは振り向いて今度は正面から首へ入れた。
二匹ともティナだ。神眼は二百六十になった。
≫冥府の神ネル:二匹死んだ。二匹斬った
≫雷神ドゥル:いいぞ!
≫知恵の女神アウラ:声でも聞こえているみたいに動くわね。誰の声かしら
誰の声かしらと聞かれても、俺には答えようがない。
三十分が経って、戻る時間を見たちょうどそのとき、天井が動いた。
石蜘蛛が一匹ではなかった。糸が三本同時に垂れたのは、巣の下に入っていたからだ。中層十一階の入口に巣があるなど聞いていないが迷宮は聞いていないことをする。
「上! 下がれ!」
ティナは下がったが、糸のほうが早かった。
一本目が剣を持った右腕に巻きつき、二本目が左の足首に巻きついて、彼女は引かれて膝をついた。三本目は外れて床に落ちて、そこから蜘蛛が這い上がってきた。
そして右の横穴から三匹目の岩蜥蜴が首を狙って出た。
俺は石を見た。
画角の中央でティナが膝をついて右腕を上へ引かれている。剣は手にあるが振れず、その右から蜥蜴が来る。
いつもの手なら石を右へ流して蜥蜴を画面の外へ出し、外で殺す。
だが右へ流しても、画面の中にはティナの顔が残る。顔の横の何も映らない空間で蜥蜴の首が落ちれば、それは顔のすぐ横で映る。
左へ流せば蜥蜴は外れるが、ティナも外れる。外れた瞬間に、ティナの首が噛まれていたら。
どちらにも三秒いるのに、蜥蜴の顎は一秒で届く。
傾ける暇がなかった。
俺は踏み込んで、右腕の糸を短剣で切り、切った勢いのまま蜥蜴の顎の下へ刃を入れた。頭が左右に割れた。
画面の真ん中で。
蜥蜴の体がティナの前に崩れて、頭が割れるところは映ったが、割った俺は映っていない。
蜥蜴から短剣を抜いて振り向くと、床に落ちた糸から蜘蛛が這い上がってくるところだった。それを踏んで腹を裂き、ティナの足首の糸を切った。
天井からは、さらに二匹が降りてきた。一匹は短剣で斬り、もう一匹は蜥蜴の死骸を盾にして床に叩きつけた。
四つ。八秒。五年で一番長い八秒だった。
静かになった。
息を整えて石を見ると、石はティナの真正面に向いたままだった。
画面の中には、膝をついたティナと、頭の割れた蜥蜴と、腹を裂かれた蜘蛛が三匹いる。そのどれもティナは斬っていない。
板を見ると神託欄が止まっていた。
四千柱の板でも見たことのない止まり方で、一行も流れず、二百六十柱が一斉に黙っている。
それから来た。
≫戦神ガルヴァ:今のは何だ
≫雷神ドゥル:巻き戻せ。巻き戻せ!!
≫知恵の女神アウラ:……剣姫は剣を振っていない。腕は糸に引かれていた
≫迷子の神:ほら!! ほら!!! 言った! 勝手に倒れるって言った!
≫冥府の神ネル:四匹死んだ。誰も斬っていない
≫豊穣の女神メルティア:あら
神眼の数字が壊れたように回った。
二百六十、三百、三百四十、四百と、跳ね方が違うのは、神々の側で今この瞬間に噂が回っているからだ。
俺は石を持ったまま動けなかった。五年隠し通してきたことが、八秒で終わった。終わらせたのは俺で、後悔はしていない。していないことに少し驚いていた。
そしてティナを見た。
彼女は膝をついたまま、蜥蜴ではなく俺を見ていた。
切られた糸が右腕から垂れていて、頭の割れた蜥蜴が目の前にある。その蜥蜴の顎の下に俺の短剣が入るところを、彼女は正面から見ていた。
神様には見えないが人間には見える。
「……エドさん」
板の神託欄は流れ続けていて、四百柱の神々が何が起きたのかを言い合っている。
画面の外の俺を、画面の中のティナだけが見ていた。




