第10話 撮影係の方、お名前は
「立てますか」
ティナは答えずに、俺を見たままだった。
俺は糸の残りを彼女の腕から外し、落ちていた剣を拾って柄を向けた。受け取るときも、彼女の目は俺の顔にある。
「一時間です。戻ります」
「……はい」
声が出たので、それだけで少し安心した。
十一階の入口まで、いつもは後ろか横を歩く俺が前を歩いた。前を歩くと、彼女の視線が背中に当たるのが分かった。
石はずっと彼女に向けてあって、画角の中では剣姫が黙って階段を上っている。それだけの画を四百柱が見ていた。
階段を上りながら、俺は彼女が地上で何を言うかを考えていた。ギルドに言えば神殿へ届くし、無加護が神々の前で剣を振ったとなれば教義の穴は埋められる。
考えても足は止めなかった。止めたところで、彼女が見たものは消えない。
神眼は五百を越えて、五百二十になった。
≫雷神ドゥル:もう一回だ。もう一回蜥蜴を出せ
≫戦神ガルヴァ:剣姫。今のは何だ。お前がやったのではないな
≫知恵の女神アウラ:剣を振っていない。腕は糸に引かれていた。それは全員が見たわ
≫迷子の神:勝手に倒れた。三柱のときからずっとそうだった。誰も信じなかった
≫冥府の神ネル:四匹死んだ。誰も斬っていない。それだけ
冥府の神から見れば、誰も斬っていないのだろう。俺は映らないので、映らないものが斬っても斬ったことにはならず、冥府には斬り手の欄が空のまま行く。
それが今、四百柱の神々の前の画面の真ん中で起きた。自分の剣を画面の真ん中で振るのは、五年一度もしなかったことだ。
上層との境の階段を上りきると、石が少し冷めた。中層を出ると神眼は落ちるのに、落ちなかった。五百二十のまま誰も帰らない。
帰らないのは、まだ何か起きると思っているからで、それは起きた。
≫知恵の女神アウラ:剣姫。聞いていい? あなたは蜥蜴の正面にいた。何が起きたのか見ていたでしょう
来た。
神託欄は人間には見えないが、配信者には見えるし、配信者の声は神々に届く。アウラはそれを知っていて、画面の中の人間に直接聞いたのだ。
ティナは足を止めて、板を見ていた。戦いは終わっているのだから、見ていい。
俺は何も言えなかった。言えばその声は神には届かないが、ティナには届く。何を言えばいいのか。嘘をついてくれと言うのか。
ティナは顔を上げて、石をまっすぐに見た。いつも「見ててくださいね」と言うときの顔だった。
「見てません」
そう言った。
「糸で引っぱられて怖くて、目をつぶってました。気がついたら蜥蜴が倒れてて。……すみません。剣姫なのに」
神託欄が一瞬だけ止まって、それから崩れた。
≫雷神ドゥル:目をつぶってたぁ?
≫戦神ガルヴァ:惜しいことをしたな剣姫。一番いいところだぞ
≫迷子の神:嘘だ! 目は開いてた! 俺は見てた!
≫井戸の神:怖かったんだろう。いいじゃないか
≫知恵の女神アウラ:……そう。目をつぶっていたのね
アウラは信じていない。この女神は信じないときに「そう」と書くので、書き方で分かる。
だが追及もしなかった。配信者が「見ていない」と言った以上、それ以上は神託欄に書いても仕方がないからだ。
ティナは嘘をついた。神様に、四百柱の彼女の神眼そのものに、俺のために。
そして一日に一度しか書かない神が、今日の一度を使った。
≫豊穣の女神メルティア:剣姫さんは目をつぶっていた。それでは仕方ありませんね。では撮影係の方、あなたは見ていましたね。石は一度も動いていませんでしたもの。お名前は?
◇
「配信、止めます」
ティナが言って、石が冷えた。数字は五百三十一だった。
上層の入口は、朝なら配信者が十組並ぶ場所だが、昼の今は誰もいなかった。ティナは石を抱えたまま壁に背を預けて座り込み、俺はその横に立っている。
しばらく、どちらも何も言わない。
「……エドさん」
「はい」
「わたし、見てません」
俺を見上げてそう言う彼女の目は、はっきりと開いていた。
「見ましたよね」
「見てません。仕事中は見ないってエドさんが言ったので」
「それは俺の話で」
「わたしも仕事中でした」
詭弁だが、酸蛙のときに俺が言ったことをそのまま返されて、俺は言葉に詰まった。
「ティナさん。俺は──」
「言わなくていいです」
遮られた。
「言わなくていいです。エドさんが言いたくないなら。……でもひとつだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「言ったらエドさんは困りますか。神殿とかギルドとか」
「困ります」
「じゃあ言いません。誰にも。神様にも」
簡単に言う。
神様に嘘をつくことや、加護を投げてくれる相手を騙すことが、この世界の配信者にとって何なのか。彼女はそれをさっき四百柱の前でやって、今もう一度言った。
「なぜですか」
「え?」
「嘘をついてまで。あなたは配信者で神眼が全部です」
ティナは首をひねって、答えが出なかったのか、別の答えを出した。
「撮影係なんて誰でも同じ、じゃないからです」
それから彼女は、声を落とした。
「……ずっと、ですか。三柱のときから」
「三柱のときから」
「ゴブリンの二匹目も? 蛙の四匹目も?」
「ええ」
「わたし、勢いで斬ったって」
「言いました」
ティナは両手で顔を覆って、しばらく動かずにいたが、やがて指の間から「でも狼の長はわたしですよね」と言った。
「あれはあなたです。声は出しましたが」
「よかった……」
顔を上げたときには笑っていたのだから、この人は立ち直るのも早い。
◇
宿に戻って板を見ると、神託欄の一番下にまだ残っていた。
≫豊穣の女神メルティア:(略)では撮影係の方、あなたは見ていましたね。石は一度も動いていませんでしたもの。お名前は?
俺は映らないし、声も届かないので、答えられない。
答えられないことを、この女神は知っている。三柱のときから見ていて、知らないはずがない。知っていて、聞いているのだ。
百十二柱で名乗った神が、五百柱で俺の名前を聞いた。




