第7話 三柱目はわたくしです
今日は何も殺さないと、朝の上層の入口で決めた。
冥府の神は死んだ数を数える。数えられるなら、俺が足さなければいい。ティナが斬った数と死んだ数が同じなら、ネルに書くことはない。
「エドさん、今日なんか顔が怖いです」
「いつもこうです」
「いつもより怖いです」
そうかもしれない。
三柱から八十八柱まで、俺は毎日どこかで何かを殺してきた。今日はそれをやらずに代わりにやることはひとつだけだ。
「今日は俺が声を出します。右。左。後ろ。言ったとおりに動いてください。考えなくていい」
「考えなくていいんですか」
「考えると遅れます。俺の声を自分の目だと思って」
ティナは少し首を傾げてから「はい!」と言った。
七階の灰狼で、昨日と同じ階だ。
「配信、始めます」
石が熱い。八十八で始まってすぐに九十になった。
迷子の神、井戸の神、竈の神、アウラ、ドゥル、ガルヴァ、そしてネル。名のない三柱目は、今日も名前の欄が空だった。
◇
狼は三匹で来た。
「正面と右の岩の上。正面から」
ティナが踏み込んで一匹目の首を落とす。
「右。跳んでくる。半歩引いて下から」
引いたところに跳んできた狼の腹がちょうど剣の上に乗った。
「後ろ。振り向かずに前へ三歩」
三歩進むと狼の牙がさっきまで彼女の肩があった場所を噛んだ。振り向いたときには狼は体勢を崩していて、そこを斬った。
三匹ともティナだ。
俺は石を持って口を動かしただけだった。
≫知恵の女神アウラ:剣姫、今日は後ろが見えてるのね
≫戦神ガルヴァ:動きが変わった。誰かに教わったか
≫雷神ドゥル:いいぞ。もっとやれ
≫冥府の神ネル:三匹死んだ。三匹斬った
三匹死んで三匹斬った。
息を吐く。冥府の神の一行を見てほっとする日が来るとは思わなかった。
神眼は九十五。
狼を四匹、五匹と全部声で通した。ティナの動きは本当によくなった。もともと剣筋はよく、足りなかったのは目で、目は俺が貸せばいい。
九十八、九十九。
そこで止まった。
九十九のまま狼を二匹倒しても七階の奥まで行っても、数字は動かない。
四千柱の板を持っていた頃は一柱の増減で心が動いたことはなかった。今は九十九と百の間に崖がある。
「エドさん。今何柱ですか」
「板を見ない」
「見てません! 聞いてるんです!」
「……九十九」
「きゅうじゅ──」
言いかけた彼女の声が途切れたのは、岩の陰から狼が出たからだ。
今までの倍はある、群れの長だった。足音がしなかったので俺の耳でも出てくるまで分からなかった。
「右! 大きい!」
遅かった。
狼の肩がティナの胸当てに当たって、彼女は後ろへ飛んだ。剣が手から離れて三歩先の石床で跳ねた。
狼は剣ではなく彼女を見ている。
俺は動きかけて短剣の柄に手を掛けた。あと一歩踏み込めば届いて、届けば終わる。終われば冥府の神が、四匹死んだ、三匹斬ったと書く。
手を止めたのは、ティナが自分で起き上がったからだ。
起き上がれなければ出ると最初から決めてある。隠し事と彼女の命なら、比べるまでもない。
「剣は左へ三歩。狼は右。剣を取るまで狼を見るな」
彼女は狼を見なかった。
左へ三歩進んで剣を拾い、振り向きざまに下から上へ振る。
狼はそのとき跳んでいたので、剣は腹を裂いた。長い獣の体が彼女の上を越えて後ろの石床に落ち、動かなくなった。
◇
静かだ。
ティナは肩で息をして剣を下げたまま立っていた。左腕の革袖が裂けて血が出ているが深くはない。
神託欄も静かで、騒ぐはずの神様たちが一拍何も書かなかった。
そのあとで、来た。
≫雷神ドゥル:剣姫!!
≫戦神ガルヴァ:見たか。今のを見たか。腹だ。跳んだ狼の腹を下から
≫迷子の神:ほら! ほら! ほら!
≫井戸の神:よかった
≫冥府の神ネル:四匹死んだ。四匹斬った
神眼の数字が動いた。
百。
百一、百四、百十と崖を越えていく。
そしてずっと空だった名前の欄に文字が出た。
≫豊穣の女神メルティア:百柱になったら名乗ると決めていました。三柱目はわたくしです
【加護】豊穣の女神メルティアより「癒しの実り」
ティナの板が光って今度は一瞬では消えなかった。
見ている間に左腕の傷が閉じた。血が止まり、裂けた皮膚がくっついて跡だけが薄く残った。井戸の神の「渇かず」とは桁が違う。
≫知恵の女神アウラ:豊穣の……? あなたが地上の配信なんて見ないでしょう
≫豊穣の女神メルティア:見ますよ。三柱のときからずっと
≫雷神ドゥル:三柱のときから?
≫豊穣の女神メルティア:ええ。名前の欄を空けたまま、ずっと。剣姫さん、今日はひとりで戦いましたね。偉いこと
今日はという二文字を、俺はしばらく見ていた。
今日はひとりで。つまり、昨日までは。
豊穣の女神の名前は四千柱の板で見たことがあるが、ほとんど書かない位の高い神様だ。投げる加護はいつも桁が違い、ジークが一度だけもらって一週間自慢していた。
その神が、三柱のときから名乗らずに見ていたのだ。
「エドさん! 腕が治りました! 見てください跡だけ!」
「見えています」
「それで今何柱ですか!」
「百十二」
「ひゃく──」
ティナは剣を放り出して俺に抱きつきかけ、途中で止まって、代わりに狼の血が付いたままの両手を上げて跳ねた。
「配信、止めます!」
石が冷えて数字は百十二で止まった。
◇
ギルドの窓口で奨励金の銀貨一枚を受け取るとティナはそれを両手で持って俺に差し出した。
「エドさんの一枚です。約束の」
「胸当ての立て替えの一枚目として、いただきます」
「……そうでした」
彼女の手に残ったのはやっぱり何もなかったが、それでも笑っていた。
「夕飯は俺が出します。記念に」
「いいんですか」
「銀貨は使うためにあるので」
屋台へ向かう道でティナが思い出したように言った。
「配信のあとで神託欄を読んだんです。戦神様が、中層へ降りろって」
「まだです」
「まだ、なんですね。いつかは」
「いつかは」
いつかは行く。行けば数が増える。殺すものが、ではない。数える神の書く数が、だ。
串焼きの屋台へ歩きながら、俺は板をもう一度見た。神託欄の下のほうにまだ残っている。
今日はひとりで戦いましたね。
三柱のときから見ていた神が、百柱で名乗った。その理由を俺はまだ知らなかった。




