第4話 角度
夕飯は屋台の串焼きだった。
賭けに負けたのはティナで、払ったのもティナだ。薄い財布から銅貨を出すのを見ても、俺は止めなかった。賭けは賭けで、止めれば彼女は次から賭けをしなくなるし、賭けをしない配信者は伸びない。
「エドさんって白銀の翼にいたとき、何柱から始めたんですか」
「俺が入ったときはもう八百柱いました。四千にしたのはそれから」
「四千……」
ティナは串を持ったまま遠い目をした。
「うちは七柱でこんなに嬉しいのに」
「七柱も八百柱も、神様は一柱ずつです」
自分で言って、少し気恥ずかしい。四千柱の板を持っていた頃の俺は、そんなことは思いもしなかった。
「剣姫って名前、父さんが付けたんです。神眼が四十柱いたとき、神様の一柱が書いてくれたんですって。『この子は剣姫になる』って」
「それで名乗っているんですか」
「はい! まだなってないですけど」
串を三本食べながら、まだなってないと言えるのは悪くないと思った。神様の言葉を真に受けて十年持ち歩いている人間を、俺はほかに知らない。
◇
翌朝の上層四階で、今日の相手は酸蛙だった。
犬ほどの大きさの蛙で、動きは鈍いが、口から吐く酸が厄介だ。鉄は溶けないが、革は溶ける。
ティナの革鎧は革だ。胸当てが胴の前を覆って革紐で背中に留める作りで、その下は肌着しかない。
「蛙は正面に立たないこと。横から。吐いたら一歩下がって吐き終わりに踏み込む」
「はい!」
神眼は七で、昨日の数字をそのまま引き継いでいる。迷子の神は本当に来たのだから、律儀な神様だ。
≫迷子の神:来たぞ
≫井戸の神:今日は蛙か
≫竈の神:蛙ってなに
ティナは一匹目をうまくやった。横から入って吐き終わりの首を落とし、二匹目もよかった。
三匹目で欲が出た。
二匹続けて決まったので、横からではなく正面から踏み込んだところで、蛙が口を開けた。
「下がれ!」
下がったが、半歩足りない。
酸が胸当ての革紐に掛かって、革紐は音もなく溶けた。
胸当てが前へ落ちた。
俺は石を上へ振った。
考えるより先に手が動いた。こういうときのために動かしてきた手だ。画角はティナの首から上と振り上げた剣の先だけで、胸から下は画面の外にある。
≫迷子の神:角度!
≫井戸の神:撮影係、何してる
≫竈の神:今なんか落ちた
≫迷子の神:角度を戻せ。何が落ちた
戻さない。
ギルドの品位規定では、配信者の肌を映すと配信停止になる。それがひとつだ。
もうひとつは規定ではなく、映していいものと映したいものは違うということだ。神様が映したがっているものを全部映す撮影係は、ただの石の台だ。俺は台ではない。台なら銅貨二十枚でも高い。
「ティナさん。前を向いて。石はあなたの顔しか映していない」
「え? ……あ──」
彼女は自分の胸元を見下ろして、酸蛙を見て、それから俺のほうを見た。胸当てがなく、麻の肌着一枚だ。朝から走って汗を吸った麻が、見なくても分かるくらい体に貼りついている。
俺は見ていないし、見ないのが仕事だ。
だが撮影係は、映さないものも把握していなければならない。見ないままで言えることだけ言うと、神様に見せていい状態ではなかった。
「斬れますか」
「……斬れます!」
首から上しか映っていない画角で、ティナは三匹目の蛙を斬った。顔は真っ赤で目は泣きそうで、それでも剣は止まらなかった。
画面の中では、赤い顔の剣姫が歯を食いしばって剣を振り下ろしている。映っているのは、それだけだ。
≫井戸の神:顔がいい
≫竈の神:顔しか映ってないけど顔がいい
≫迷子の神:角度は許さん。許さんがこれはこれで
神眼は十二に増えた。騒ぎを聞きつけたのだろう。神様の側で何が話されているのかは知らないが、神託欄の「角度!」はどうやら呼び水になるらしい。
四匹目がいた。
水たまりの中に沈んでいて、三匹目を斬ったティナの背中に向かって口を開けかけている。画角はティナの顔に寄せてあるので、背中も水たまりも映らない。
俺は水たまりに踏み込んで、開きかけた口の中に短剣を縦に入れた。吐く前に顎が動かなくなったので、酸は飛ばなかった。
石は一度も動かしていないし、蛙の死骸は水たまりの中で画角の外だ。俺が起こしたことは映るのだから、映る場所で起こさなければいい。
首から上の画角というのは、恥ずかしいものを隠すだけではなく、それ以外の全部を隠す。
≫迷子の神:そういえば蛙は二匹じゃなかったか。奥にもう一匹いた気がする
≫井戸の神:剣姫が斬ったんだろう
≫迷子の神:顔しか映ってないのにどうやって分かる
分からないままでいてほしい。
◇
俺は外套を脱いで、顔を背けたまま差し出した。
ティナは黙って受け取ると肩から羽織り、前をかき合わせてから小さな声で言った。
「……配信、止めます」
「どうぞ」
石が冷える前に、板をちらりと見る。
≫迷子の神:明日は角度を戻せ
≫井戸の神:戻さんだろうな
≫竈の神:顔でいい
石が冷えて、神眼の数字は十九で止まった。
七から十九。胸当てひとつぶんの値段としては悪くない。本人には言わないが。
「胸当て、いくらでした」
「銅貨三百……」
「十二柱で銅貨三百。安い買い物です」
「安くないです!」
彼女の財布では安くない。俺は何も言わずに、明日の分配のときに考えることにした。
「エドさん」
「はい」
「見ました?」
「仕事中は見ません」
「仕事中は、って」
ティナが外套の中から俺を睨んだが、耳まで赤いので迫力はなかった。
「……ありがとうございました。石はずっと顔でしたよね。板は見てないけど分かりました」
「分かりましたか」
「はい。だから最後まで斬れました」
それはよかった。
俺は水たまりのほうを見ないようにしながら、四匹目の蛙のことを考えている。彼女は三匹斬ったと思っているが、神様たちは「奥にもう一匹いた気がする」と書いた。
気がする、で済んでいるうちはいい。
迷子の神は今日で二度目だ。一度目は「剣は右にあった」で、二度目は「奥にもう一匹」だった。
三度目に何を書かれるのか、考えたくなかった。




