第33話 神、日ごとに冷ゆ
三日目の朝、宿の食堂に白い服が二つ来た。
一つはオルドで、もう一つは知らない男だった。六十くらいで背が高く、白い服の襟に金の糸が一本だけ通っている。金の糸は神殿の上の者の印だと、十五のときに聞いた覚えがある。
女将は厨房から顔を出して白い服を見ると、黙って引っ込んだ。
「ホルスト殿。朝早くに」
オルドはいつもより深く帽子を取ったが、隣の男は帽子を取らないまま窓際の卓を見た。
三日目で匙の持ち方を覚えたメルティアが、粥を食べていた。白い服が二つ入ってきても、匙は止まらない。
「監察総長のグラーフと申します」
低くよく通る声で、男が言った。神殿の階段の上から話す人間の声だ。
「豊穣の女神にお目にかかりに参りました。……お目にかかると申し上げてよいのか分かりませんが」
メルティアは匙を置いてから立ち上がり、古い型の頭の下げ方をした。
「豊穣です。粥の途中で失礼いたしますわ」
「とんでもない」
グラーフは膝をついた。
白い服の膝が食堂の板張りの床について、オルドが息を呑むのが聞こえた。この街で神殿の監察総長が膝をつく相手は、たぶん一人もいない。いなかった。今朝までは。
◇
話は長くなかった。グラーフは、神殿の印のある紙を一枚、卓に置いた。
「降りられた神を神殿でお守りしたく存じます。神殿の奥に降りた神のための部屋がございます。百年使われておりません。お入りいただけば、神殿の外へはお出になれません。お守りするとはそういうことです」
「百年前に使われましたのね」
「使われました。……そしてお守りしている間に、天へお戻りいただく儀を整えます。送還の儀と申します」
メルティアは紙を見たが、読んだのかどうかは分からない。それから丁寧に紙を卓の上で滑らせて、グラーフのほうへ戻した。
「ありがとうございます。お断りいたします」
「理由を伺っても」
「届けたいものがまだございますので」
グラーフは紙を受け取らずに卓の上に置いたまま、メルティアを見ていた。
「百年前に降りられた神も、同じことを仰ったと帳面にございます」
食堂が静かになった。ティナが粥の匙を止めて、セレスは最初から止めている。
「その神は、戻られませんでした」
「存じております」
「戻られなかった理由は帳面には書いてございません。ただ降りられていた間の記録が一行だけ残っております」
グラーフは、メルティアから目を離さずに言った。
「神、日ごとに冷ゆ」
セレスが顔を上げて、昨日の階段で「あの人、寒がってるわ」と言った顔で俺を見た。
俺は何も言わない。言わないのが答えだと、セレスはもう知っている。
「冷えるのは嫌いではございませんの」
メルティアは少しも声を変えずに言った。
「冷えると温めていただけますもの。昨日剣姫さんが手を挟んでくださいました。あれは上からでは分からないものでした」
ティナは赤くなって、赤くなったまま粥を食べる。
グラーフは長いことメルティアを見てから、紙を取って懐にしまった。
「本日のところは。……オルド」
「はい」
オルドはグラーフの隣でも半歩後ろでもない、一歩下がった位置から答えた。神殿の中で、この男の立つ場所はもうそこなのだと分かった。
「お前の報告は読んだ。見たとおりに書いてあった」
「はい」
「見たとおりに書く者は神殿には少ない。少ない者は神殿では居場所が狭い」
オルドは何も言わない。言わない顔をこの男が覚えたのは、たぶん俺の横に立っていた何日かのせいだ。
◇
グラーフは帰りがけに、俺の前で止まった。
背の高い男に、神殿の階段の上から見下ろす目で見下ろされた。十五のとき石の前で首を振った神殿の者と、同じ高さの目だ。
「エドガー・ホルスト殿」
「はい」
「百年前の帳面をわたしは全部読みました。降りた神のことも、盲層のことも、閉じたときのことも」
百年前、盲層は閉じた。閉じたことは帳面にある。
「あなたのような者の記述は、ありません」
「無加護の記述が?」
「無加護はおりました。百年前にも。全員迷宮の外で死んでおります。線の向こうへ入った無加護は一人もいない。十一人を連れて戻った無加護はなおさら」
この男は俺を帳面の外にいる者として見ている。
「帳面の外にいる者は神殿のものではありません。神殿のものでない力は危うい。……ですがもったいない」
オルドが言ったのと同じ言葉だった。神殿の人間は同じ言葉を使う。
「線は止まっております。止まった線は百年前もいずれまた動きました。動いたら神殿の名であなたにお願いに参ります」
「断るかもしれません」
「断る方に、お願いするのが神殿の仕事です」
そう言って、グラーフは帽子を取らずに出て行き、オルドは帽子を取って深く頭を下げて出て行った。二つの白い服の下げ方は、最後まで違う。
◇
メルティアは卓に戻って、冷めた粥を食べ始めた。冷めても食べることを、三日目で覚えた。
「メルティアさん」
ティナが言った。
「寒いんですか。今も」
「少しだけ」
「どうして言わなかったんですか」
「言うと温めてくださるでしょう? それは嬉しいのですけれど」
メルティアは匙を置いた。
「温めていただくために冷えるのは、ずるい気がいたしますの」
ティナは黙って立ち上がると、二階へ上がって毛布を一枚持って降りてくる。何も言わずにメルティアの肩に掛けた。メルティアも何も言わない。
セレスが俺の袖を引いて、外へ連れ出した。
「日ごとに、よ」
宿の前の通りで、セレスが言った。
「昨日加護を一つ届けて冷えた。帳面には日ごとって書いてある。届けるたびに冷えるのか、地上にいるだけで冷えるのか」
「分かりません」
「分からないから、腹が立つの」
セレスは杖の鉄の先で、通りの石を叩いた。
「調べるわ。百年前の帳面。神殿のじゃなくて街に残ってるほうを」
「街に?」
「神殿の帳面に一行しかないなら、残りはどこかにあるはずよ。百年前にも配信を見ていた人間はいたんだから」
百年前にも、と聞いて、俺は宿の窓を見た。毛布にくるまった神様が、冷めた粥を食べている。




