第34話 触れていないと届きません
六日配信したら一日休むのが決まりだが、今度は三日で休みを入れた。線の向こうから戻って、体がまだ戻っていないのだ。
休みの朝、俺は宿の湯屋にいた。
宿の裏の小さな湯屋は、男湯と女湯が板一枚で分かれている。朝のうちは誰も使わない。五年、休みの朝はここで湯に浸かってきた。映らない男にも、誰にも見られたくない時間はある。
戸が開いた。男湯の戸だ。
「エドさん。おはようございます」
メルティアだった。
毛布ではなく、宿で貸す薄い麻の湯着を一枚だけ羽織っている。脱ぎ方を知らないはずの人が、籠の前に立っている。
「……ここは男湯です」
「存じております。エドさんがいらっしゃいますもの」
「女湯は板の向こうです」
「エドさんがいらっしゃいませんもの」
理屈が通っているのが一番困る。
俺は湯の中で向きを変えて壁を見て、板の木目を数えた。
「湯は温かいと女将さんに伺いました。わたくし冷えておりますので」
「女湯も同じ湯です」
「でもエドさんに触れていないと届きませんの」
「何がですか」
「街灯の下の加護の続きです。エドさんの左腕の跡。まだ少し残っておりますでしょう。消して差し上げたくて」
黒いものの爪の跡は薄く残っているが、残っていて困ったことは一度もない。
「残っていて構いません」
「わたくしが構います」
籠の前で湯着の紐に手が掛かる音がした。
俺は見ていない。壁を見ていて、木目は今四十二本目だ。
見ていないが、撮影係は映さないものも把握していなければならない。見ないまま言えることだけ言うと、紐がほどける音と麻が肩から滑る音がして、それは神様に見せていいものかどうか以前に、俺に見せていいものではなかった。
「メルティアさん」
「はい」
「紐を結んでください」
「どうしてですの」
「人間はそうします」
少し間があってから、紐を結び直す音がした。
「……人間はそうしますのね」
「します」
「覚えました」
三日で匙の持ち方を覚えた人の、覚えた声だ。
俺は木目を数えるのをやめた。
◇
今度は湯屋の戸が勢いよく開いた。
「メルティアさん!! そっち男湯です!!」
ティナだった。
女湯にメルティアを誘おうとして、いないので探したらしく、女湯のほうから回ってきて、湯着を着て、髪から湯が垂れている。男湯の戸の前で、全部を理解した顔をしていた。
「ティナさん。おはようございます」
「おはようございますじゃないです! エドさんは見てませんよね!?」
「壁を見ています」
「壁ですね! ずっと壁ですね!」
「四十二本目まで」
「何の数ですか!」
木目の数だとは、言わなかった。
ティナはメルティアの手首を掴んで引き、湯着の紐が結んであるのを確かめて、肩の力を抜いた。
「女湯はこっちです。行きましょう」
「でもエドさんの跡が」
「跡は湯から出てからでいいです! 服を着てからでいいです!」
「服を着ると届きにくいのですけれど」
「届きにくくていいです!」
答えになっていない。二人の足音が遠ざかって、戸が閉まった。
板一枚の向こうで湯の音がして、それから話し声がした。ティナが何かを説明していて、メルティアが「まあ」と言うと、ティナが「まあ、じゃないです」と言っていた。
◇
その夜、寝台に入って灯を消してしばらくしたときに、戸が開いた。
鍵はかけていたが、この宿の古い鍵は女将の鍵束で開く。女将が鍵束を貸したとは思えない。
あとで聞くと、鍵に触れて「開いてくださいな」と頼んだら、古い鍵はそれで開いたのだそうだ。豊穣の神に頼まれて開かない錠は、この街にはないのかもしれない。
「エドさん」
「……メルティアさん」
「失礼いたします。跡の続きを」
寝台の端が沈んだ。
湯着ではなく昼の服を着て、紐も結んである。この人は湯屋で覚えたことを守っていた。守ったうえで、寝台に入ってこようとしていた。
「触れていないと届きませんの」
「明日でいいです」
「明日にはわたくしがもっと冷えております。冷えた手では届きにくいのです」
この前ティナが挟んで温めた手のことを言われると、断る言葉が一つ減る。
「……左腕だけです」
「はい」
俺は寝台の上で起き上がって、左腕だけを出した。
メルティアの指が跡に触れた。井戸の水よりは温いが、湯屋のときよりは冷たい指だ。
跡が消えて、消える感触が腕に分かった。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
メルティアは手を離さないまま、寝台の端に座っていた。
「エドさん。触れていると、あたたかいのですね」
「人間はだいたいそうです」
「神様はそうではございませんの。上には触れるということがございません。見るか投げるか、それだけ」
三柱のときから俺を見ていた神は、俺に触れたことがなかった。触れたのは、街灯の下が初めてだ。
廊下で二人ぶんの足音に床板が鳴った。眠らないメルティアは、夜になると食堂の窓際に座っている。その窓際が空なのに、水を飲みに降りたティナが気づいたのだろう。
開けっぱなしだったので、今度は鍵の音もせずに戸がもう一度開いた。
「…………」
寝間着に胸当てを着けたティナが立っていた。
その後ろに、寝間着の上に黒い外套を羽織って、鉄を巻いた杖を持ったセレスが立っている。
「左腕です」
言わないと何を言っても遅い気がしたので、先に言った。
「左腕だけです」
「……左腕ですか」
「跡を消してもらっていました」
ティナは俺の左腕を見たが、跡は消えているので何の証拠にもならない。
セレスが杖の鉄の先で、床を叩いた。
「メルティア。部屋に戻りなさい」
「でもまだ少しあたたかくて」
「わたしの部屋が空いてるわ。わたしの手もそこそこあたたかいわよ」
メルティアは、セレスを見て少し考えた。
「では、お邪魔いたします」
寝台から立ち上がってセレスについて出て行くと、ティナが最後に残った。何か言いかけてやめて、もう一度言いかける。
「……むう」
四度目の「むう」で戸が閉まった。
俺は跡のない左腕を見た。生まれてから一度も加護に触れられなかった腕に、この数日で二度、神様が触れた。




