第32話 手が冷たい
二日目の配信も上層七階だった。
中層の封鎖は解けないので上層で配信するしかないが、上層の魔物は一万柱の神々には物足りない。
≫戦神ガルヴァ:狼か
≫雷神ドゥル:狼はもういい。三日前に言った
≫迷子の神:豊穣は今日もいるのか。何もないところは二つか
二つだ。
俺の左に立っているメルティアは、今日は女将に借りた外套を、この街の者ではない服の上に羽織っていた。女将は「腰の礼だ」と言って外套の代金を受け取らなかった。
神眼は昨日より五百少ない九千五百で始まった。
一万柱は黒い線の向こうの声を聞きに来た神々で、線のこちらで狼を斬る剣姫は見たいものではない。分かっていたが、上層しかないのだ。
「エドさん。わたくし、お役に立てますかしら」
メルティアが小声で言った。石には乗らない声なので小声にする必要はないのだが、この人は小声で言った。
「何がですか」
「剣姫さんの数字が減っております」
「上層だからです。仕方ない」
「仕方なくないことをして差し上げたいのです」
そう言うと俺の返事を待たずに前へ出た。
画角の外の、石の外側を俺がいつも通るのと同じ道筋で通っていく。教えたわけではなく、三柱のときから見ていたのだ。
「ティナさん。お手を」
「え?」
狼の群れが来る前の静かな通路で、ティナが振り向いた。
メルティアは彼女の剣を持っていない左手を両手で包んだ。光らない。音もしない。
「……え、あの」
「すぐ済みます」
「手、手が」
ティナの顔が、耳まで赤くなった。
石は彼女の顔と手を映していて、ティナの左手が何もない空間に包まれて少し浮いているのが映っている。
≫知恵の女神アウラ:剣姫の手が何かに握られているわ
≫迷子の神:何もないところが握ってる
≫雷神ドゥル:誰だ。エドか
≫冥府の神ネル:豊穣だ
板の神託欄の下に、行が出た。
【加護】豊穣の女神メルティアより 剣姫へ「満ちる実り」 届きました
神託欄が一拍止まった。
≫戦神ガルヴァ:……豊穣が加護を投げた。地上から
≫知恵の女神アウラ:手で。手で届けたのね。映らないまま
≫雷神ドゥル:角度!! 手を握ってるところを見せろ!!
≫迷子の神:見せろと言っても映らないんだ。映らない者の角度はどうするんだ
どうするのかは、俺にも分からない。十一年映らない側に立っていて、映らない者を映せと言われたのは初めてだ。
メルティアが手を離すと、ティナは左手を見下ろしたが、何も変わっていないように見えた。
「……軽い」
ティナが剣を持ち直した。
父の剣は加護がなければ膝をつくほど重い。盲層で、彼女自身が知ったことだ。その剣を彼女は今、片手で持ち上げて振った。風が鳴った。
「軽いです。エドさん! 剣が羽みたいに」
「振りすぎないこと。剣が軽くなっても体のほうは同じです。……効くのは今日の配信の間だけでしょう」
「たぶんそうですわ。満ちて、引きますの」
メルティアが後ろから言った。探索の間だけ剣を軽くして、終われば引く、一時加護だ。
「はい!」
狼が三匹、いつもの出方で来たが、いつもでない剣がそれに向かった。
ティナは一匹目を横から斬った。俺が「右」と言う前にもう右にいるほど速い。二匹目は振り向きざまに斬り、三匹目は跳ぶより先に下にいて腹を裂いた。四つ数える間もない。
メルティアが、やはり石の外側の道筋で、俺の横に戻ってきた。
「剣姫さんに手で届けるのは初めてでしたの。エドさんのは傷を塞ぐだけでしたもの」
「上からはどう届けるんですか」
「投げます。名前に向かって。届いたかどうかは、板が光るのを見て分かります。……手で届けると、届いたのが手で分かりますのね」
手で分かると聞いて、俺は自分の左腕の、昨夜の薄い跡を見た。触れられて届いたのが、俺にも分かった。加護というものが手の形をしていると、生まれて初めて知った夜だ。
≫戦神ガルヴァ:いいぞ剣姫! 今のは速い。白銀より速い
≫雷神ドゥル:豊穣の加護だ! 豊穣もっと投げろ!
≫冥府の神ネル:三匹死んだ。剣姫が三匹斬った
≫知恵の女神アウラ:……桁が違うわね。豊穣が手で届けるとこうなるの
神眼は九千五百から一万、一万八百と上がった。上層の狼で神眼が上がったのは、見たいものが映ったからだ。
映らない神が、映る剣姫に、見えない手で何かを渡して、その結果だけが画面に映った。
俺がずっとやってきたことと同じ形だった。違うのは、俺は魔物を消し、この人は剣姫に足したことだ。
◇
配信を止めて、地上へ上がる階段でティナが言った。
「メルティアさん。手が冷たかったです」
「そうでしたか」
「すごく。井戸の水みたいに」
メルティアは自分の手を見て、握って開いた。
「わたくしは冷たいとか温かいとかを昨日まで存じませんでした。粥が温かいのは分かりました。手が冷たいのは分かりません」
「冷たいですよ。今もたぶん」
ティナはメルティアの手を取って、自分の両手で挟んだ。加護を返すように。返せはしないが、温めることはできる。
「さっき、ありがとうございました。……でも手を握るときは、先に言ってください。びっくりするので」
「先に言いましたわ。『お手を』と」
「その次をです」
メルティアは少し考えて「では次からは、握りますと申します」と言った。ティナはそれでいいのか分からない顔をした。
「……あたたかい」
メルティアが言った。
階段の途中で二人が手を挟み合って立っていたので、俺はその横を通り過ぎて、上の段で待った。
隣に並んだセレスは、黙ってメルティアの肩を見ている。外套の下の肩が、かすかに震えていた。
今日は暖かい日で、上層の通路も地上の通りも、外套が要るほど寒くはない。
「エド」
セレスが言った。
「あの人、寒がってるわ」
「地上が初めてだからでしょう」
「昨日は寒がってなかったわ。一晩窓際で座ってて平気だった」
昨日は平気だった。
今日は加護を一つ届けた。届けたあと、この人は俺の横に戻ってきて、自分の手を一度だけ握って開いた。あのとき、もう冷えていたのかもしれない。
「……偶然かもしれない」
「そうね」
信じていない「そうね」だった。俺も信じていなかった。




