第30話 やっと会えました
街灯の下の人は動かずに、俺が通りを渡るのをただ見ていた。
人間に俺が見えることは分かっているが、この見方は人間の見方ではない。石の前に立った十五の俺を神殿の者が見たときの、「映らない者」を見る目に、どこか似ていた。
だがこの人の目は違って、「映らない者」をやっと見つけた目だった。
「エドさん」
先に言われた。少し低くて丁寧で押しが強い、人間の声だ。
「やっと会えました。あなた、映らないんですもの」
足が止まった。
板を見ると神託欄は「エド」で流れているのに、その流れの中に、今日二度書いたあの豊穣の女神の名前がどこにもない。
≫知恵の女神アウラ:……豊穣がいないわ
≫雷神ドゥル:メルティアがいない。さっきまでいた
≫迷子の神:名前の欄から消えた。三柱のときみたいに
名前の欄から消えて、目の前にいるのだ。
「届け方を考えました」
街灯の下の人は丁寧語の文字と同じ笑い方で笑っていた。笑うと目尻に細い皺が寄るので、神様にも皺があるのだと思った。
「加護は名前に投げます。けれどあなたには届かない。器がないから。十一年前に石の前で決まったことですものね。……ですから届け方を変えました。わたくしが来れば届きますでしょう?」
その人は手を伸ばして、黒いものの爪が届いた俺の左の二の腕に触れた。
人間の手の温さで、温さだけだ。
そして、見ている間に傷が閉じた。血が止まり裂けた皮膚がくっついて、ティナの左腕に残ったのと同じ薄い跡だけが残った。
俺の板が光った。
【加護】豊穣の女神メルティアより エドへ「癒しの実り」 届きました
届いたのだ。無加護の俺に。
十五のとき石の前で神殿の者が横に振った首を、今、一人の神が振り返した。十一年前に決まったことが、街灯の下で手で覆された。
俺は腕を見て、板を見て、目の前の人を見た。
「……降りたんですか」
「降りました」
「神様が」
「神様が。禁じられておりますけれど」
禁じられているという言葉を、この人は夕飯の献立を言うように言った。
「百年前に一度降りた神がおります。その神は戻りませんでした。戻れなかったのか戻らなかったのかは誰も知りません。わたくしも」
「戻れるんですか。あなたは」
「分かりません。試したことがございませんもの」
試したことがないというのは、今日、俺が線の向こうで思ったのと同じ言葉だ。
「それでも」
「それでも。……三柱のときから見ておりましたのよ。画の中に穴があって、穴の形があなたでした。三柱の剣姫さんの配信の画面の端の、誰も見ない穴を。わたくしだけが見ていました」
それは、五年、四千柱の板の端にもあった穴だ。
「穴に名前が付きました。エド。付いたら届けたくなりました。届かなかったので来ました」
理屈になっていない。神様の理屈は、名前が付いたから来た、で止まっていて一歩も先へ進まない。
◇
「エドさん! 誰ですか!」
宿の戸が開いてティナが飛び出してきた。
寝間着の上に革鎧の胸当てだけを着けているのは、何かあったときのためにと前に言っていたからだ。何かがあった。
「えっと……」
俺が目の前の人を見ると、その人はティナを見て深く頭を下げた。バルトやオルドの下げ方ではなく、もっと古い、何かの型のある下げ方だ。
「剣姫さん。お声、三日間ずっと。一度も聞き逃しませんでした。……お目にかかれて嬉しゅうございます。その石。胸に着けていらしたのね。三日、声はそこから」
ティナは固まった。文字と同じ丁寧語と、文字と同じ押しの強さで、声で分かったのだと思う。
「……め、メルティア様?」
「メルティアです。豊穣の。様は要りません。様を付けられると、投げたくなりますので」
「か、神様がなんでうちの宿の前に」
「エドさんに加護を届けに。届きましたのよ。ほら」
メルティアは俺の腕を取って、薄い跡をティナに見せた。
ティナは腕を見て、メルティアを見て、俺を見てからもう一度腕を見て、言った。
「……手で?」
「手で」
「触って?」
「触って」
「…………むう」
三度目の「むう」を、神様に向かって言ったのだ。
◇
夜の通りにさらに足音が来た。黒い外套に、鉄を巻いたままの杖を持っている。
「騒がしいと思ったら」
セレスは街灯の下の人を一目見て、俺の腕の跡とティナの顔を見ると、全部を理解した顔をした。この人はいつもそうだ。
「……腹が立つわ」
「何にですか」
「全部に」
メルティアはセレスに向かっても頭を下げた。
「白銀の翼のセレスティアさん。あなたが録りで二十三を数えた日のことも見ておりました」
「……そう」
それは信じていない「そう」ではなく初めて聞く観念した「そう」だ。
「しばらくこちらにおります。届けたいものがまだありますので」
メルティアは俺に言った。
「宿はここでよろしいかしら」
「よろしくないです!」
ティナが言うとメルティアは笑った。たぶん、神様の笑い方なのだろう。俺は神様の笑い方を、今日初めて見た。神殿がこれをどう帳面に書くのかは、考えないことにした。
板を見ると神託欄の流れは止まっていて、一万二千柱が豊穣の女神のいない神託欄を見ている。
一番下に、一行だけ新しく残っていた。
≫冥府の神ネル:豊穣は、地上にいる。生きている
ネルは、死んだものを数える。生きているものも、たまに数える。
俺は板を閉じた。
四千柱の板の端にいた男が、三柱の配信の端にいて、今は一万二千柱の板に名前があり、腕には神の手で届いた跡がある。
映らない。
相変わらず映らない。
だが、見られている。
街灯の下で、神様が笑っていた。ティナが「むう」と言っていた。セレスが「腹が立つ」と言っていた。
俺は石を持っていない手で頭を掻いた。明日から、俺の石の横はずいぶん混む。
(第一部 完)




