第29話 把握しきれないことも
十五階の階段を上がるのに一時間かかった。
担がれる者がジークとミラの組の目を閉じたままの男の二人で、支えられる者が腕の折れた男の一人だ。それでも全員が上がった。十六階の線は俺たちが越えたあと動かず、オルドは最後の石灰の印を、四つ目の印と同じ場所に付けた。
線は止まったのだ。
止まった理由は分からないが、百年前もある日止まったと帳面にあるらしい。
石はずっと熱かった。
ティナは上がりながら、「十五階に着きました」「ジークさんは眠ってます。息はあります」「ミラさんが松明を持ってくれてます」と言い続けた。三日黒い石に向かって言い続けた癖が、石が戻っても抜けていなかった。
神託欄は速すぎて読めなかったが、一つだけティナが拾った。
≫豊穣の女神メルティア:剣姫さん。三日間、ずっと聞いていました。一度も聞き逃しませんでした
ティナはそれを読んで、階段の途中で少しだけ泣いた。泣きながら上った。
◇
地上に出ると上層の入口に収まりきらない数の人がいた。
配信者とギルドの者と神殿の白い服、バルトと防具屋の老婆、それにパン屋の前で「剣姫だ」と言った子どもとその母親もいた。
三日、大水晶が黒かった街の人間だ。黒い画面と、神殿がギルドの壁に貼り出した神託欄の写しと、ティナの声だけで三日を過ごした街の人間だった。
ティナが石を胸に着けて出た。白銀の翼がジークを担いで出て、ミラの組が出る。セレスとオルドが出て、最後に俺が出た。
誰も俺が誰なのか分からない。人間には見えているが、大水晶に映っていなかった男を街の人間は知らない。知っているのは神託欄の「エド」という文字だけだ。
ロロが黒くなくなった石を頭の上に掲げて「石、戻りました」と言った。誰に言ったのかは分からないが、全員にだと思う。
それをティナが変えた。
入口の真ん中で振り向くと、俺の腕を掴んで石の前に出した。映らない男を映る場所に。
「エドさんです」
大声だった。
「エドガー・ホルスト。わたしの撮影係です。線の向こうでわたしたち十一人を一人で守ってくれました。……映りません。無加護なので。でもここにいます」
街が静かになった。それから、無加護、撮影係、映らない、線の向こう、とざわめいた。
石は俺を映さずにティナの顔と彼女が掴んでいる何もない空間を映している。その何もない空間に街の人間が目を向けた。
防具屋の老婆が「揺れない石の」と言った。パン屋の前の子どもが母親に「見えない人?」と聞くと母親は「見えるよ」と答えた。
人間には見えている。
五年見られていなかったのではなく、見られないようにしていたのだ。
≫知恵の女神アウラ:……剣姫が何もない場所を掴んでいるわ
≫雷神ドゥル:エドがいるんだろう。そこに
≫迷子の神:いる。三柱のときからいる
◇
ギルドの一階の酒場の床に寝かされて、ジークは目を覚ました。
治癒師が加護の戻った手で足を押さえていて、治るのに三日はかかると言った。
頭の上の大水晶には今日の録りではなく三日分の黒い画面の最後の一瞬が流れていた。線のこちら側に転がり出てくる剣姫と、その後ろの何もない空間と、その向こうの通路いっぱいの黒だ。
その少し前の、盾役と斥候に担がれたジークの画も流れた。画面の端では、何もない空間から黒い水が一筋ずつ払われて落ちていく。短剣を拭う手は映らずに、拭われた水だけが映っている。
客が黙って見ている。
ジークはそれを長いこと見上げてから、担がれて起き上がり盾役に支えられて片足で大水晶の前に立った。
それから、頭を下げた。
誰に向かってかは言わなかったが、大水晶に向かってだと思う。大水晶の向こうの街と、神々と、映っていない誰かに。
それは屈辱の下げ方ではなく、負けた者が負けたと言う下げ方だった。神殿に選ばれた顔は、もうなかった。
俺は下げる理由がないので頭を下げ返さなかった。代わりに、五年ぶりにこの男の名前を呼んだ。
「ジーク」
「……なんだ」
「足を治してください。石の横で担がれていると、揺れるので」
ジークは笑わなかったが、顔の形がそうなりかけた。
◇
オルドは酒場の隅の机で帳面を閉じてから、俺を呼んだ。
「神殿はあなたを把握しました」
「前にも聞きました」
「把握しきれないことも、把握しました」
それだけ言って帳面を懐に入れた。
「報告は見たとおりに書きます。無加護の男が線の向こうで十一人を守った。神殿はそれを見た。教義の穴については──」
「あとで考える」
「あとで考えます。人は戻りましたので」
オルドはバルトと同じ頭の下げ方で、帽子を取って頭を下げた。
丁寧なのが一番悪いと思っていたが、今日はどこか違う気がした。
バルトは帳場ではなく酒場の戸口にいて、ティナを見つけると帽子を取って帳面を開き、何かを書いた。
「利子、再開いたします。本日から」
「はい!」
「それからお父上の剣は」
「担保です」
「担保です。……ですがその剣で線の向こうへ行った配信者の剣を担保に取る金貸しは、この街にはおりません。帳面上の話です」
帳面上の話。帳面の男が、帳面に書かないことを二度言った。
◇
夜、宿の戸口でティナが俺の袖を掴んでいた。線の向こうから戻って、ずっと掴んでいる気がする。
「エドさん」
「はい」
「わたし、三日見てました。目をつぶりませんでした」
「知っています」
「……全部言いました。見たとおりに」
「聞いていました。後ろで」
彼女は笑って袖を離して宿に入っていった。
俺は少しの間、戸口に立って板を見ていた。神眼は一万二千で神託欄にはまだ「エド」が流れている。
その一番下に、今日の一度を使い切ったはずの女神の名前が、もう一行あった。
≫豊穣の女神メルティア:届け方が、決まりました
何が決まったのかは書いていなかった。
宿の戸口の向かいの通りの、街灯の下に、人が立っていた。
見た目は二十代の半ばで、長い髪にこの街の者ではない服を着ている。
その人は俺をまっすぐ見ていた。映らない男を。




