第25話 見えないと思うので言います
三日目の朝、線は十二歩のところにあった。
オルドの石灰の印は四つになっていて、縄の杭から線までは、もう五歩しかない。
「配信、始めます。……今日は長いです」
ティナの石が熱くなって、神眼は七千二百だった。
石は腰ではなく彼女の胸に革紐で留めてある。三柱のときの石の着け方を、彼女は自分で直したのだ。俺は今日、石を持たない。
≫雷神ドゥル:来た
≫戦神ガルヴァ:剣姫。エドは
≫迷子の神:映らないから分からん。いるんだろう
≫豊穣の女神メルティア:いますよ。お気をつけて
俺は、石の横ではなく縄の前にいた。短剣を腰に松明を手にしている。
隊列は俺、ティナ、セレス、オルドの順で縄をくぐった。
◇
線の前で一度止まった。
目の前で見ると黒は壁ではなかった。奥行きがあるのに何も見えず、松明を前に出すと炎は線の向こうで燃えているのに照らすものがない。
「百年前の帳面に、一行だけあります」
後ろでオルドが言った。
「『線の向こうに入った者は、こちらから見える』。それだけです」
百年でそれだけの一行だ。
俺は足を出して踏み越えた。
何も変わらなかった。
黒の中に入るとそこは松明に照らされた暗い通路で、岩があって床に水が張っている。外から見た奥行きのある黒は、内側ではただの中層十六階だった。
振り向くと線の向こうに三人の顔が見えた。こちらからは見えるのだ。
「何も変わりません」
そう言った。人間には声は届く。
五年神様に見られていなかった男が、神様に見られない場所に入っただけのことだった。
ティナが足を出して、越えた。
その瞬間に彼女の膝が落ちた。
「──っ」
俺は腕を取ったが軽いはずの体が今日は重かった。いや、重いのは体ではない。
「重い……剣がこんなに」
ひと月近く彼女の剣は加護の中にあった。三柱の頃から、百柱、五千柱と増えていった神々の加護が少しずつ積まれて、剣を軽くし足を速くしていた。それが線の向こうで全部消えたのだ。
彼女は初めて加護のない自分の剣を持った。
胸の石を見下ろすと黒く、板を見ても黒くて、神託欄も神眼の数字も何もない。石は胸にある。腰に着けて走った三柱の夜から、ひと月で彼女はここまで来た。
「……見えないです。板も石も」
「見えません。ここでは」
「聞こえてますか。神様に」
「分かりません。あなたの声は普段なら石に乗ります。石が黒くても乗るのかどうか」
誰も知らないし百年前の帳面にもたぶん書いていない。
ティナは胸の革紐に留めた黒い石を両手で包むように持って、顔を上げると、いつもの顔でいつものように言った。
「見えないと思うので、わたしが言います」
聞こえているかどうかも分からない相手に向かって、黒い石に言った。
「今、十六階の線を越えました。中は暗いけど普通の通路です。水が張ってます。エドさんが前にいます。わたしは剣が重くて一回転びました。……でも立ちました。立ってます」
石は黒いままで、返事はなく神託欄も出ない。
それでも彼女は言った。三柱のときから見ているかどうか分からない相手に「見ててくださいね」と言ってきた人が、相手が見えなくなった今日も同じことをしている。
それが配信者だ。俺は四千柱の板を持っていたが、それを一度も見たことがなかった。
セレスが越えたが、膝はつかずに杖に体重を預けて大きく息を吐いた。
「……なるほど。これが加護のない体ね。二十四年で初めて」
「氷は」
「試すまでもないわ。指の先まで何もない」
「怖くないんですか」
「怖いわよ。あなたは?」
「ここは、俺にはいつもと同じです」
「……そうでしょうね。それがちょっと腹が立つ」
オルドは越えても何も言わずに、帳面を開いて書いた。この男は線の向こうでも帳面を開く。
線の向こうに黒い石を胸に着けた剣士と、鉄を巻いた杖の魔術師と、白い服の男が立っている。
それから、今日は石を持っていない映らない撮影係が。
◇
十六階の通路は足首まで水に沈んでいた。
冷たい。井戸の神の言った、底から上がってきた水だ。
「百年前も、水は」
「書いていません」
オルドが短く答えた。百年前になかったものが、今はある。
神の目が届かないだけで、火は火で、岩は岩で、水は水で、魔物は魔物だった。
横穴から、右、左、正面と岩蜥蜴が三匹いつもの出方で来た。線の向こうでも魔物はいつもどおりに来る。
俺は松明をセレスに渡して、短剣を抜いた。
隠さない。そう決めて一晩寝たら、決めたことは体のほうが先に覚えていた。
画角がないので石を傾ける必要も背中の陰に入る必要もない。首から上の画角も、天井も、湯気もない。
右の一匹目、顎の下。左の二匹目は跳んできたところを下から。正面の三匹目が俺を見た。魔物には俺が見える。見えたまま首を落とした。
三つを、四秒で。隠さないとこんなに早い。
水音が消えて通路が静かになった。
振り向くとティナが目を開けて見ていた。セレスも見ていて、オルドの帳面に書く手は止まっている。
三人とも何も言わなかったが、先に口を開いたのはティナで、黒い石に向かってだった。
「……エドさんが今、三匹倒しました。右と左と正面で。四つ数える間に。見えないと思うので言います。エドさんは速いです」
聞こえているかどうか分からないまま、彼女は言い続けた。
「わたし、三柱のときからずっとエドさんの後ろにいました。今日初めて前から見ました。……すごかったです。それだけです」
セレスが小さく言った。
「初めて見たわ。全部。二年二か月後ろにいたのに」
「見せていません」
「見せなさいよ」
理屈になっていない。
オルドは帳面に書いてから、初めて口を開いた。
「……神殿は、あなたを把握していませんでした」
「今は」
「今も」
前方の闇の奥で何かが水を蹴る音がした。
俺たち四人の足音でも、先にいるはずの白銀の五人のものでもなかった。




