第22話 巻き戻しても黒い
翌朝、上層の入口にギルドの印の張り紙が出ていた。
張り紙には「中層十六階以深、立入を禁ず」とあって、その下に三つの組の名前が並んでいる。知らない名前が二つと、一度だけ合同で見たことのある名前が一つだった。
張り紙の前に集まった配信者は、誰も迷宮に入らない。入口に立って張り紙を読んでは、互いの顔を見ている。
ティナが名前の一つを指でなぞって、小さく「ミラさん」と言った。三柱の頃に隣で石を腰にくくりつけていた神眼八柱の配信者だ。一度だけティナに水筒を貸してくれたことがあるという。
「先輩」
昨夜から寝ていない顔のロロが来た。
「見たのか」
「見ました。十五階で。白銀の翼は十五階まで降りてたんです。数字を戻すために。そしたら前を行ってた組が十六階の階段を降りて少しして──」
ロロは石を抱え直した。
「向こうの組の石が黒くなったんです。合同じゃないから板は見られませんでしたけど、記録室の録りには石の映像が残ってました。今朝見せてもらって。通路の途中に線があるみたいにそこから先が黒い。岩が暗いんじゃなくて黒い」
「ジークは」
「降りようとしました。でも階段の上に立ったら加護が……薄くなった気がして。ジークさんが自分で言ったんです。戻るって。初めて聞きました。あの人が戻るって言うの」
加護が薄くなるという話は聞いたことがない。
加護持ちは自分の加護を感じられる。それが薄くなる場所というのは、加護の届かない場所だ。オルドの言った場所が十六階の階段の下にある。
◇
ティナは三週間ぶりに初配信の上層三階、ゴブリンの階へ戻って配信を始めた。
十六階は縄の向こうで手の出しようがなく、手が出せないならできることは石に向かって言うことだけだと、彼女は分かっていた。
「今日は上層です。……十六階の三組が戻りますように」
石に向かってそう言ってから、剣を抜いた。
神眼は五千四百から始まって今日は増えないのに、神託欄の流れはいつもより速い。
≫雷神ドゥル:巻き戻せ。十六階の黒いのを巻き戻せ
≫知恵の女神アウラ:巻き戻しても黒いわ。何度やっても
≫雷神ドゥル:巻き戻しても黒い?
≫知恵の女神アウラ:わたしたちの目が届いていないの。あそこには
目が届いていないと、神様が自分で書いた。
四千柱の板をずっと持っていたが、神々が「見えない」と書くのは一度も見たことがなかった。「見えん」ならある。画角が悪いときだ。それは撮影係のせいで、神様のせいではない。
今日の「見えない」は違う。石が映さず神が見られない、誰のせいでもない「見えない」だった。
≫戦神ガルヴァ:そんな場所があるのか。迷宮に
≫井戸の神:底だ。わたしが言った底だ。水の先が見えないと言った
≫迷子の神:三柱のときから見てたけど黒いのは初めて見た
≫豊穣の女神メルティア:……
メルティアは点を三つだけ書いて、今日の一度を使った。この女神が言葉を持たないことがあるのだと、初めて知った。
そして一柱だけが、黒い場所の中を見ている。
≫冥府の神ネル:三組の人間は、まだ死んでいない
神託欄が止まって、それから全員がネルの一行を読み直した。
≫知恵の女神アウラ:ネル。あなたは見えるの
≫冥府の神ネル:見えない。数えている。冥府に来ていない
≫雷神ドゥル:つまり生きてる
≫冥府の神ネル:まだ
まだ。冥府の神は場所を見ずに、死んだものを数える。盲い目の場所でも死ねば冥府に来るのだから、来ていないなら生きている。
それが今、神眼五千四百柱のただ一つの知らせだった。
三柱の頃は、この神が一番怖かった。今は一番ありがたい。数える神は数えるだけで、嘘も慰めもない。
ティナは剣を下ろして石を見た。
「ネル様。……ありがとうございます」
配信者の声は神に届くが、冥府の神は何も書かなかった。この神は礼には答えない。
◇
地上に戻ると、ギルドの一階にオルドがいた。
今朝俺の石の横にいなかったのはここにいたからで、白い服の男が三人、酒場の真ん中で神殿の布告を広げている。
「加護の届かぬ層を神殿は盲層と呼びます。記録にある限り百年前に一度。開いて閉じた。閉じるまでに入った者の半数が戻らなかった」
百年前といえば、豊穣の女神が最後に加護を投げた頃だ。
オルドが、俺を見ないようにしているのが分かった。
「神殿は調査を依頼します。加護の最も厚い者に。盲層の境がどこにあり、どこまで続くのかを」
加護の最も厚い者というのは、神殿の筋では白銀の翼だ。神眼三千四百は剣姫の五千四百より少ないが、五年積んだ恒久加護は三週間で積めるものではない。
酒場の奥でジークが立ち上がった。その顔は昨日階段の上で「戻る」と言った男の顔ではなく、神殿の前で神殿に選ばれた男の顔だった。
布告を読み終えてから、オルドはちらりと俺を見た。神殿にもう一人候補がいることを、この男は知っているのに言わない。たぶん俺と同じ理由だ。
「白銀の翼が行く」
黒い外套のまま、セレスが俺の横で言った。
「わたしは行かないわ」
「ジークに言ったんですか」
「言ったわ。加護の届かない場所に加護で戦う魔術師が行って何になるのって。聞かなかった。あの人は今神殿に選ばれたことしか見えてない」
ロロが石を抱えて立っていた。撮影係は選ばずに、行く組に付いていく。
俺はロロの前に立った。
「黒い石でも、戻ればまた映る。捨てないこと」
「はい」
「黒くなったら映すことは考えなくていい。石より自分の足を見る」
「……はい」
「寄れと言われても」
「寄りません」
ロロは泣きそうな顔で笑った。この子が笑うのを見るのは、これで二度目だ。
ジークは酒場を横切って俺の前を通り過ぎながら、一言だけ落とした。
「無口の撮影係。見てろ」
見ている。あの男が伏兵に噛まれないのを、画角の外からずっと見ていた。
明日からは、その画角の外もない。




