第21話 エド、角度
名前が出て変わったことが一つある。神様が俺に命令するようになった。
≫雷神ドゥル:エド、寄れ。剣姫の顔が小さい
≫迷子の神:エド、角度。右の横穴が見えん
≫戦神ガルヴァ:エド。今日は中層の下へ行け
五年の間、命令はジークから来ていた。今は神様から来る。
断るのは同じで、石は動かさず、寄らず、中層の下へは行かない。
≫知恵の女神アウラ:エドは答えないわよ。声が届かないんだから
≫雷神ドゥル:分かってる。言いたいだけだ
≫迷子の神:三柱のときから言ってる。慣れてる
慣れているのは俺も同じだ。慣れすぎている。三柱の頃から「角度」と書かれて、一度も戻したことがない。
名前で呼ばれて命令されて無視するだけのことが、少し可笑しかった。四千柱の板で誰も俺に何も言わなかったのは、言う相手がいると思っていなかったからだ。今は五千三百柱がいない相手に向かって書いている。
石の横では、オルドが三日目の帳面を開いている。
「今日も押さないでください」
「転ばなければ」
「転びません」
「床は転ばせますよ」
白い服の男は床を見てから俺の短剣の柄に目を戻した。
「何を書いているんですか」
「あなたが何もしなかったこと」
「それを三日」
「三日分」
何もしなかった記録が三日分、神殿の棚に俺の名前で並ぶ。悪くない記録だと思った。
◇
中層十三階は安全な階だ。ティナは横穴の並びを全部自分で見つけて五匹斬り、俺は一度も口を開かなかった。開かなくていい日が、三週間で来た。
神眼は五千四百で、上がらないが下がらない。名前が出てからの三日、数字は「エド」の祭りの余熱で持っている。熱は冷めるので冷める前に次の何かが要る。
その次の何かを俺は用意しないと決めている。
≫冥府の神ネル:五匹死んだ。剣姫が五匹斬った
≫豊穣の女神メルティア:エドさん。届け方を考えております。もう少しお待ちになって
今日の一度だった。
三日前に「考えます」と書いて、届け方を三日考えている。神様が三日考えることがどれほどのことなのか、俺には分からない。
そして見慣れた名前が、見慣れない書き方をした。
≫井戸の神:剣姫。下の水が冷たい
≫井戸の神:井戸の底が見えない。こんなことは初めてだ
井戸の神は三柱のときからいるのんびりした神様で、「よかった」と「無事か」しか書かない。その神様が二行続けて書いた。
水が受け持ちの神が「見えない」と書いたのだ。
≫知恵の女神アウラ:井戸の神。見えないって、どこが
≫井戸の神:下。この迷宮のずっと下。水が冷たくて、その先が見えない
≫戦神ガルヴァ:深層の水か。大蜥蜴が上がってきたのもそのせいか
十四階の冷たい流れは、セレスが杖を止めたあの水だ。
加護が届かない場所と、神殿が知っていて言わない場所と、井戸の神が「見えない」と書いた先が、同じものを指しているのかどうか、俺にはまだ分からなかった。
オルドの帳面を書く手が止まっていた。この男は神託欄が読めないが、俺の顔を見て何かが流れたのは分かったらしい。
「何か?」
「井戸の神が、下の水が見えないと」
「……そうですか」
それは信じていない「そうですか」ではなく、知っている「そうですか」だった。
◇
地上に戻って、ティナは窓口で奨励金の十枚を受け取った。
窓口の横には「中層十五階以深、注意。石の映りの不良の報告あり」とギルドの印の押された新しい紙が貼ってあった。彼女はそれを一度読んでからバルトの帳場へ行った。
奨励金の十枚は、これで五日目だ。
「五十枚。元金に」
「……五十」
バルトの眉が二度目に上がった。彼は帳面に書く前に一度閉じて、開けてから書いた。
「二百三十六が百八十六。今期の六十は、前の四枚と合わせて五十四。あと六枚ですな」
「あります」
ティナは財布を出して、銅貨を数え始めた。素材を売った分をひと月近く貯めていた、六百枚だ。数え終わるまで、バルトも俺も待った。
「六枚。……今期分、六十枚。完済です」
「冬至はまだひと月以上先ですが」
「完済です」
バルトの眉が三度目に上がって、帳面には百八十と書かれた。
バルトは帳面を見下ろしてから帽子を取って、頭を下げる前に言った。
「配信、毎朝拝見しております。お嬢さんの剣はまだ担保です。……中層の下に妙な噂がありますので」
「噂?」
「水が冷たい。大蜥蜴が上がる。十五階より下で石の映りが悪いと。担保が迷宮で死ぬのはこちらも困ります」
この男の「困る」は二回目で意味が変わった。一回目は剣を取る話だったが、二回目は剣を持った人間に死ぬなという話だった。
「お父上も、四十柱のときにわたしの前で同じ顔をなさいました」
「……父を?」
「お客様でしたので」
それ以上は言わない。帳面の男は、帳面に書いていないことを言わない。ティナは帳面を見たまま、しばらく顔を上げなかった。
借金とはそういうものだ。帳面の男の目が変わるほうが、数字より先に来る。
◇
夜のギルドの酒場で、ティナは大水晶の隅を見ていた。
真ん中には剣姫の枠があって、隅には今日も神眼三柱の誰かがいる。足元しか映っていないのは、石を腰にくくりつけて走っているからだ。
「あれはわたしです」
「あなたは真ん中です」
「三週間前のわたしです。……エドさん、あの人にも撮影係がいたら」
「いません。撮影係はいくらでもいるので」
石を持って後ろを歩くだけの撮影係なら、いくらでもいる。
俺がいなければ彼女も今あの隅にいたということは言わない。言わなくても、たぶん知っている。
ティナは少し黙ってから、二度目の「むう」を言った。
酒場の戸が乱暴に開いた。石を抱えて息を切らしたロロが、俺を探して見つけた。
「先輩! 十六階の先で石が黒くなるって! 三組戻ってません!」
石は映すものがなくても黒くはならない。暗い階でも暗い岩が映る。黒くなるのは神様が見ていないときだけだ。
見ていないのではない。見えない。井戸の底が見えない。
酒場の隅で白い服が立ち上がったのは、オルドだった。帳面を閉じて、走るでもなく戸口へ向かった。走らない足の速さが、この男が驚いていないことを言っていた。




