第2話 神眼三柱の剣姫
泣いていると言っても、声を上げていたわけではない。
女は酒場の入口の脇の壁にもたれて膝の上の映し石を睨みながら、目から勝手に出てくるものを袖で拭いていた。革鎧の肩のところが裂けている。昼間の録りで転んだときのものだろう。
俺は通り過ぎようとした。本当に通り過ぎるつもりだった。
「あの」
呼び止められて、足が止まった。
「撮影係の方ですよね。白銀の翼の」
「……元、ですが」
「元?」
女は目を丸くして、それから鼻をすすって立ち上がった。背は俺の肩くらいで、赤茶の髪を短く切り揃えている。泣いた跡はあるが顔つきそのものは明るく、泣き顔が似合わない種類の顔だった。
「二階で見てました。石を持ってる人は顔を覚えるようにしてるんです。いつか雇いたいから」
「それはどうも」
「辞めたんですか。白銀の翼を」
「今さっき」
「じゃあ空いてますよね!」
話が早いというより、早すぎる。
「わたしはティナ・ローウェルといいます。配信者です。剣士で、その、剣姫って名乗ってて」
剣姫。
名乗りは自由で、ギルドは名乗りに税をかけない。四千柱の神々がこの名乗りを見たらどう書くか、俺には大体想像がついたが、口には出さなかった。
「神眼は」
「三柱です」
胸を張って言うことではないと思うが、彼女は胸を張った。
「今朝まで三人組だったんです。でも二人とももっと神眼の多いところに移るって。撮影係も連れていかれました。石だけ残して」
「それで腰に石をくくりつけて走ったわけですか」
「見てたんですか!」
「隅の画面で。足元しか映っていませんでしたが」
ティナはしばらく黙って、それから小さく「ですよね」と言った。
「あの、それで。わたしの撮影係になってもらえませんか」
「日当は」
「銅貨二十枚」
銀貨にして五分の一、白銀の翼の十五分の一だ。
俺は彼女の革鎧の裂け目と、その下の肌着の色が見えかけているのを見ないようにしながら、腰の剣に目をやった。鞘は古いが柄の巻きは丁寧で、装備の中でその剣だけが釣り合っていない。
「その剣は」
「父のです。父も配信者でした。神眼はいちばん多いときで四十柱」
彼女は誇らしげに言ったが、四十柱で誇らしげに言える人間を俺は初めて見た。
「剣だけ残して、あとは借金を残して死にました。だから辞めるわけにはいかなくて。配信者の登録を手放したら、この剣を売るしかなくなるので」
「お断りします」
「ですよね……」
「ただし、提案があります」
ティナが顔を上げた。
「日当は銅貨二十枚で結構。その代わり、配信を終えたときの神眼が百柱を超えていたら、その日は銀貨一枚を足してください。百柱を超えた日は毎日一枚。それ以上は要りません」
「ひゃく……」
彼女は指を折って数えようとして、途中でやめた。
「それってわたしにすごく有利じゃないですか? 百柱なんて夢みたいな数ですよ。三柱ですよ、三柱」
「ええ。だから有利です」
有利かどうかは、やってみれば分かる。
俺は五年、四千柱の配信の石を持っていた。四千柱の神々が何を見たがって何に飽きるかを、この都市の誰よりも知っている。伏兵を片づけることよりも、本当はそちらのほうが俺の商売道具だった。
神眼は腕では増えない。
腕のある配信者なら迷宮都市に何百人もいて、神眼が増えるのは、神様が見たいものが画面に映っているときだけだ。白銀の翼の四千は半分がジークの腕で、もう半分は俺が五年かけて作った画角の分で、俺はそれを持って出てきた。
「もうひとつ。画角は俺が決めます。寄れと言わないこと。映すものと映さないものは俺が選ぶ」
「はい! あ、でも」
ティナが言いにくそうに俺の顔を見た。
「ひとつ聞いていいですか。白銀の翼ってあんなにすごいのに、どうして辞めたんですか」
「撮影係なんて誰でも同じだと言われまして」
「ひどい!」
初対面の男のために、本気で怒っている。
それが少し可笑しくて、俺はつい言わなくてもいいことを言った。
「それから、俺は映りません」
「え?」
「無加護なんです。姿も声も映し石に乗らない。神様から見れば、あなたの配信に撮影係はいないことになります」
言ってから、しまったと思った。
無加護だと聞いた相手の反応は決まっている。一歩下がるか、神殿の方角を見るか、聞かなかったことにするかだ。白銀の翼の連中は三つ目だった。
ティナは、どれでもなかった。
「それって最高じゃないですか」
「……は?」
「だって撮影係が映り込む心配がないってことでしょう? 前の人はよく自分の肘が映ってたんです。神託欄に『肘』って書かれて。三柱しかいないのに三柱とも『肘』って」
三柱とも肘。
俺は笑いそうになるのをこらえようとして、こらえきれなかった。
「……明日の朝、上層の入口で。装備はそれで行きますか」
「これしかないです」
「肩の裂け目は縫っておいてください。映せないので」
「え、どうして」
「ギルドの品位規定です。配信者の肌を映すと配信停止になる」
ティナは自分の肩を見て、それから裂け目を手で押さえて顔を赤くした。
「見えてました?」
「見ていません」
嘘ではなく、見ないようにしていた。それは撮影係の仕事の一部で、俺は仕事に関しては正直なほうだ。
「明日の目標は五柱です! 五柱いったらお夕飯おごります!」
「百柱で銀貨一枚の約束のほうが、夕飯より高くつきますよ」
「あ」
気づくのが遅いが、気づいたあとで笑ったので、この契約は成立だと思うことにした。
◇
宿に戻って、俺は寝台に横になった。
日当、銅貨二十枚。神眼が百柱を超えたら銀貨一枚。
銅貨二十枚では宿代にも足りないので、貯えを崩すのはひと月までと決めた。ひと月で百柱に届かなければ、俺の見立てが間違っていたということだ。
明日の神眼が三柱なら、俺の稼ぎは十五分の一になる。四千柱の配信を五年持った男の、再出発としてはずいぶん安い。
それでも悪くない気がしていた。理由は分かっている。神眼三柱の配信者が、無加護の撮影係に向かって「最高」と言ったからだ。この都市でそんなことを言う人間がいるとは思っていなかった。
三柱。
その三柱が明日からどこの神様で、何を見ているのか。
このときの俺は、まだ考えてもいなかった。




