第四百三十一話 Side伊万里 責任
話が終わるとすぐ、あの人は祐太が使っていたものと全く同じ【転移】の余韻を残して、その場から姿を消した。祐太であって、同時に祐太であるはずがない存在。この手で、確かにその存在ごと世界の因果から消滅させた。
そのはずなのに、なぜか目の前で傲然と生きているという、理解を超えた矛盾。
それなのに、私の心の奥底には、自分でも信じられないほどの安堵がじわりと広がっていた。もう二度と、自分自身の力では祐太を殺すことができなくなった。その事実に、救われたような心地さえしているのだ。
けれど、それと同時に湧き上がるのは、お化けでも見せられているような、この世に存在してはいけない何かを見せられた奇妙な違和感だった。祐太として現れた、あの人。
あれに対して、どうしても底知れない恐怖を抱いてしまう。姿を現した瞬間は、またこの手で殺さねばいけないのかと身構えた。しかし、対峙しているうちに、どうしてか急激に殺意が霧散していくのを感じた。
あれほど『祐太を殺して救うこと』こそが私の使命であり、世界のすべてだと思い詰めていたはずなのに……。
「あの!」
私は、山田総理と関谷外務大臣という二人の要人と話し込んでいた南雲さんに、意を決して声をかけた。
「どうした?」
南雲さんは、先ほど私を怯えさせ、世界中から『恐怖の権化』と恐れられる一面を、今は完全に収めていた。底知れない威圧感が消えたことに少しだけホッとしながら、私はチラリと傍らに立つ二人のおじさんに視線を向ける。
「お、おお、これは失礼。伊万里様のご用でしたか。おい、行くぞ関谷」
「わかった。南雲様、細かい打ち合わせについては、また後ほどご自宅へ直接伺わせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わんと言いたいところだが。まあ俺もこれからやらなきゃならんことが山積みでな。あとの詳しい実務については桜千に聞いてくれ。桜千には俺から話を通しておく」
「了解しました。お時間をいただき感謝いたします」
「では、我々はこれで失礼いたします」
日本の最高権力者であるはずの総理大臣と外務大臣が、まるで一介の秘書のようにさっと頭を下げ、当の桜千がそこにいるのに、私との会話を邪魔しないように足早に去っていく。
改めて、不思議な感覚だ。ダンジョンが現れる前の世界なら、私のような小娘があのおじさん2人と対等に話すことすらなかった。それこそ、あちら側が肩で風を切って歩き、私のような存在は一顧だにされないのが当たり前だ。
だが、今や立場は逆転している。あのおじさんたちが老いて死に絶えても、私はまだ生き続け、これから先、千年の寿命を歩むという。南雲さんに突きつけられた事実は、あまりに現実離れしていて、眩暈がしそうだった。
「ナイスタイミングだ、伊万里。退屈な事務方のやり取りばかり押し付けられて、正直めんどくせーと思っていたところだ」
「……そんな不謹慎なこと考えてたんですか?」
「俺はお前に説教を垂れるほど、立派な善人じゃねえからな。笑えるくらい手も汚してるし、人も殺してる。そんな碌でもないやつがよくもまあ……なんて、お前も内心思わんか?」
「それは……まあ、少しは思いますけど。というか、さっきのおじさんたちの方がよっぽど政治家らしくて、こういう場には向いてると思います」
「全くだ。……それで、聞きたいのは祐太のことか?」
すべてお見通しのようで、南雲さんは意地悪くニヤリと笑った。クミカは当然のように私のことを見つめていて、このまま付いてきそうだ。雷神様は会議が終わるなり、さっさと雷とともに音を残して派手にいなくなってしまった。
広い会議室に残っているのは、私と、沈黙を守る桜千とクミカ、それと南雲さんだけだ。
「……そうです。率直に聞きます。『あの人』は、誰なんですか?」
誤魔化しようのない疑問をぶつけた。姿形は、声は、魔力の揺らぎは、どこまでも祐太そのものに見える。けれど、私の魂が『違う!』と叫んでいるのだ。祐太は、私がこの手で消滅させた。
その手の内に残った、彼が光の塵となって消えていくあの確かな感触。あの光景は、たとえ私が千年の果てに死ぬとしても、地獄まで持っていくであろう一生の記憶だ。
「見ての通りだろう。どこからどう見ても、あれは六条祐太だ」
「他の人ならともかく、私は誤魔化せません。あの人は、私の知っている祐太じゃない。……違いすぎるんです。祐太は、あんな傲岸不遜な人じゃない。あの人は、祐太のふりをして私たちを弄んでいる『誰か』です」
「ふっ、随分と辛辣な評価だな。だがな、伊万里。俺は何度聞かれても答えは一緒だ。あれが祐太だ。俺の眼には、あの頼りなかったガキ以外の何者にも見えん。何度聞かれても、俺の答えは変わらんぞ」
「そんなわけない! からかってるんですか!? 祐太は、私が――」
叫ぼうとして、喉の奥で言葉が固まった。あの瞬間の記憶を脳裏に再生するだけで、胸が引き裂かれるように痛む。
「……殺したんだろう? ああ、知っているさ。だが、奴は今そこに生きていた。さっきも言った通り、お前は負けたんだよ。あいつが死ななかった『からくり』に、お前は一生気づくことがない。それが、敗北の証拠だ。相手が何をしているのかさえ理解できない。その時点で、勝負はついているんだ」
「いいえ……私は勝った。あの日、あの場所で、私が!」
「なら、お前のその自信満々な理論を本人にぶつけてこい。伊万里、祐太に聞きたいことがあるなら、俺じゃなく、直接あいつに聞け」
突き放すような言葉を最後に、南雲さんの姿が揺らぎ、かき消えるように消滅した。
急激に静まり返った会議室。残されたのは、私と、人形のように無表情なままのクミカと桜千だけだった。
その桜千が私に近づいてきた。
「伊万里様。聖勇国の国主としての立場……確かに、引き受けられるのですね?」
桜千は、私が今この瞬間に喉から血が出るほど叫びたい話題には目もくれず、極めて事務的に、確認を口にした。
「うん。まあ……わかったわ」
消え入りそうな声で、私は短く応じた。こんな私にだって、人並みの罪悪感や責任感がないわけじゃない。
あの『聖勇国』に生きた人たちにとって、私という存在は、現れた瞬間から消え去るその時まで、ひたすら正体不明であり、最後には滅びをもたらした極めて迷惑な存在だった。
そして、最初から最後まで、私が聖勇国の人と能動的に接点を持つことはなかった。聖勇国の人は、絶対神セラスや天からの使徒ローレライの顔色だけを窺っていたし、私は私で、頭の中には祐太のことしかなかった。
それでも私がトップだった。あの人たちの上にいたんだ。
「では、まずは生存者たちの姿を見ておくべきでしょう。今から案内します。遅れないようについてきてください」
「桜千はとても忙しそうだけど、私なんかの相手をしていていいの?」
「主様……いえ、あなたが言うところの『あの人』は、現在、『お子様の授業参観』の段取りを確認しに行かれております。むしろ、私に側へ来られるのを邪魔だと感じられるでしょう」
「…………は?」
今、この精巧な自動人形の口から、耳を疑うような単語が飛び出さなかったか。
「どうかされましたか? 動きが止まっておりますが、時間がないのでできれば動いて欲しいのですが」
こいつ絶対わざとだ。絶対わざと今言った。
「……今、なんて言ったの? 祐太の、子供?」
「おや、ご存知なかったのですか。主様には既にお子様がおられます。大八洲国の一柱、弁財天様との間に設けられたお子様です。性別は男女の双子。現在の人間換算の年齢は九つとなります」
「へ、へえ……。子供、いるんだ。祐太……」
それはつまり、私とのあの地獄のような日々とは全く別の場所で、子供を設けるほどに愛した女がいた。それがもし、美鈴だったら、驚きはしても、どこか諦めに似た納得はできたかもしれない。でも。
「……弁財天って、誰なのよ」
「言葉遣いには細心の注意を払ってください。あちらは悠久の年月を生き抜かれ、その果てに神へと至られた高位の存在。我々とは、魂の格そのものが違います。まかり間違っても、分不相応な悋気に駆られて喧嘩を売るような真似はなさらないように。一歩間違えれば、この安定し始めた世界に、再び多大な迷惑をかけることになりますよ。自分が普通の女子ではないと自覚なさってください」
「わ、分かってる! そんなことしないけど、ちょっと……その、驚いただけ」
「ともかく、参りますよ伊万里様」
自分から絶対わざと言ったくせに釘を刺すような冷たい言葉を残し、桜千が外へと歩きだし、重力を無視して空へと舞い上がった。
私はもっと詳しく問い詰めたかったけれど、これ以上食い下がれば、この氷のような瞳をした管理者に心の底から軽蔑されるだけだと思い、奥歯を噛んで諦めた。
祐太のことを忘れる……。
この世界は私にそれを求めてきている気がした。
しばらく進むと、穏やかな空と海の景色を映し出していたはずの視界の先に、目に見えない巨大な『壁』が存在していることに気づく。
遠目には景色の延長線が続いているように見えていたが、それは精巧なホログラムが見せる錯覚のようだ。巨大な壁が天を突き、そこから先への侵入を物理的に拒絶している。桜千がその見えない境界に、そっと手を触れた。
「伊万里様。これからあなたは、この場所の本当の意味での王様になります。あなたは神であり、あなたはこの領域の法律であり、あなたはこの命を背負います。私もシステム的なサポートは行いますが、どうしても判断に窮する時だけ、声をかけるように」
さらに桜千の口から、人間離れした無機質な合成音声が重なって響く。
【千年郷日本国管理型からくり族・桜千壱号です。弐号、隔壁を解放しなさい】
【了解】
【弐号。これより同行する東堂伊万里様が、聖勇国暫定政府の国主の座に就かれます。永続的な入域許可証を発行してください】
【了解】
【東堂伊万里様。私は桜千弐号と呼称される個体です。千年郷における中央制御端末の役割を担っております。以後、この壁に接触すれば自動的に認証が降りるよう設定しました。見た通り、壁は景色と同一化しております。出力調整を誤り、壁を突き抜けて破壊しないよう、お気をつけください】
《う、うん……。了解したわ》
返事をするのと同時に、空と海の境界が、まるで舞台の幕が上がるように左右へ割れた。偽りの景色が剥がれ落ちる様は、この世のものとは思えないほど不気味で、そして幻想的だった。
壁の向こう側には、どこまで続いているのか見当もつかないほど広大な、そして茶褐色の土が剥き出しになった未開とも思える陸地が広がっていた。私たちが通り過ぎると、背後で重々しい音を立てて、空が再び閉じていった。
映像越しにもその過密ぶりは伝わっていたが、実際に足を踏み入れたそこに広がっていたのは、見渡す限りの平坦な大地と、その限定された空間にひしめき合う膨大な数の中身――人とモンスターが混ざり合い、蠢いている異様な光景だった。
日本の総面積と同じ広さの土地が、山も谷もない完全な平地として提供されているのだから、居住可能な面積だけで言えばかなりの広さになる。しかし、それでも『10億人を超える知的生命体』と、それに付随する『その他の生命体』。
このすべてを収容するとなれば、話は別だ。本来の聖勇国は地球全土に匹敵する面積があったと言われている。その広大な土地に分散して住んでいた生態系が、日本の国土分しかない中に押し込められている。
放置しておけば遠からず崩壊するのは、火を見るよりも明らかだった。
「でも、よく緊急的にこれだけの土地を用意できたね」
私の疑問に答えるように、桜千が空中で静止し、眼下の平原を見下ろした。
「以前、隠神刑部様に仕えていた頃の先代の私は、結局、本来の役目を何一つ果たすことができないまま、主の死とともに、ただ『機能』として死を迎えました。そして、次代の私と交代した。その前の私も、さらにその前の私も、同じ運命を辿りました。……端的に言えば、かつての私達は、ひどく暇だったのです」
「暇……だったの?」
「左様です。来るべき主様との邂逅の日まで、私達はその度にその時の主様にお願いして、時折この【千年郷】の外へと意識を出し、資材集めを行っておりました。それを一種の『趣味』として、何世代にもわたって積み上げてきたようです」
「そうなんだ……。じゃあ、今のこの場所は、歴代の桜千たちが遺してくれた貯金のおかげで助かったわけか」
「そうなります。もし彼らが積み上げた資材の備蓄がなければ、主様の突飛なご要望に応えることは不可能でした。そう考えると、何に使われる当てもなく、それでも腐ることなく【千年郷】をより良い場所にしようと努力し続けた過去の自分たちに、私は深く感謝しております。おかげで、今の私は存分に主様の期待に応えることができますから」
「そっか……」
もし、目の前の光景がすべて消え去り、無機質な更地だけが広がっていたなら、私は何も感じなかったかもしれない。けれど、ここには数えきれないほどの鼓動があり、命がある。
そして、今の私は望むと望まざるとにかかわらず、その頂点に立たされている。遠くの方で、獣人の子供たちが土煙を上げて元気に走り回っているのが見えた。
その無邪気な姿を視界に入れるたび、かつて彼らを視界の中にすら入れてなかった自分の罪が、背中にのしかかる。
「伊万里様。あなた様に依頼したい実務は、実のところ、各地を回って民の困りごとを聞くといった泥臭い作業ではありません。そういうことは、実務に長けた他の者にやらせます。それに……失礼ながら、あなたはそういった対人折衝が得意ではなさそうですので」
「う、うん。まあ……否定はしないけど」
祐太もそうだったけれど、私もなかなかのコミュ障だ。それに、今の私が一人で声をかけて回ったところで、10億という母数の中では砂漠に水を撒くようなものだ。何の解決にもならないだろう。
「実際のところ、今我々が直面している最大の課題は、先代たちが悠久の時をかけて貯めてきた資材を、今回の緊急措置ですべて使い果たしてしまったことにあります」
「ああ……それはまあ、これだけの土地を広げたら、そうなるよね」
「ですので、伊万里様には『資材集め』に従事していただきたいのです。このままでは、主様の御計画についても、『材料が足りません』と不名誉な報告をせねばならなくなってしまいます」
「なるほど、あの人に大見得を切ったものの、実のところは資材不足で何もできない、ということ?」
「恥ずかしながらそうです」
「ふーん、分かったわ。……じゃあ、何をすればいいの? 火星の衛星とか、それとも木星の衛星を引っ張ってくればいい? 大きさ的に言えば、ガニメデとかイオあたりを集めてくるのが妥当かな」
それは、今の私にとって非常に魅力的な提案だった。正直なところ、今は一人になって、これからの千年の歩みについて静かに考えたい気分だったのだ。宇宙という、静寂と孤独が支配する場所で、衛星を回収してまわる作業。
それは今の私の精神状態にとって、救いのようにさえ思えた。
「残念ながら、それら既存の天体を解体・運搬するのは、今の設備では膨大な時間を要し、現実的とは言えません。現在の伊万里様の機動力であれば、木星圏まで到達すること自体は造作もないでしょうが、それをこちら側へ『運ぶ』となると、話が変わってきます」
「ああ、まあ確かに……。引っ張ってくるのが大変だよね」
ルビー級だった頃なら、木星へ辿り着くことすら一生を賭けた大冒険だっただろう。けれど今の私は、【光移動】を長時間維持できる。木星に辿り着くだけなら、おそらく南雲さんの【転移】すら凌駕して、私の方が先に到達できるはずだ。
しかし、私以外の物理的な質量を運ぶのは、さすがに荷物が重すぎる。そもそも【光移動】は私以外に適用することが非常に難しいのだ。
「まあそういうことです。いろいろと検討したのですが、妙案があります。最も効率的で良質な資材は、かつて破壊されてしまった聖勇国の大陸の残骸を手に入れることかと思われます」
「え? そんなこと、できるの?」
「不可能ではありません。地球とダンジョンでは、科学技術と魔法の定義レベルが根本から異なります。あちら側の高次文明にしてみれば、星一つを生み出すなど造作もないことです。実際、聖勇国と同規模の亜世界は、虚空にいくつも存在しています。その中の、既に滅び、放棄された世界の土地を『再利用』として譲り受ける。あちら側にしてみれば痛くも痒くもない不用品の処分ですから、交渉次第では難しくないかと」
「それって……」
それこそ、あの人が交渉した方が早いんじゃないの? 思わず口に出しかけて、慌てて飲み込んだ。それこそ、この上なく愚かで甘えた提案だ。私は自分の手で祐太を殺したのだ。
たとえ、あの人を祐太として受け入れたとしても、どの面を下げてお願い事などできるというのか。一瞬でも彼に頼ろうとした自分自身に、激しい嫌悪感が走った。
「いいよ。やるわ。……それで、どこにお願いしに行けばいいの?」
「はい。では、『弁財天様』に面会し、土地の譲渡をお願いしてきてください」
「…………」
桜千のその言葉に、私は意味を理解するのに時間がかかった。この機械。今なんて言った? いや、このことがあるから先ほど祐太の子供のことを言ってきたのか? 桜千の心の動きはその無表情な顔からは一切伺い知れなかった。
「……え?」
「耳に異常でも? 大八洲国において、最も日本という国に友好的であり、かつ主様とも深い縁を持たれる神……弁財天様にお願いしてきてください」
「……どうしても、その人じゃなきゃダメなの?」
私の震える問いに、桜千は一切の感情を挟まずに答える。
「主様に対して好意的な神格であれば、天照様や翠聖様といった方々もいらっしゃいます。特に翠聖様であれば、主様の代行者であるあなたの願いを断る可能性は極めて低いでしょう。……しかし、伊万里様。あの方々は、我々とは住む世界も立場も、あまりに隔絶されすぎています。いきなり最上位の神格に小事をお願いしに行くことは、大八洲国の礼節において『身の程を知らぬ無知な阿呆』と見なされます。それは主様の顔に泥を塗る行為です」
「…………」
要するに、身の程をわきまえろ、ということだ。けれど、弁財天。
祐太との間に子供まで設けたという神。嫌だ。絶対に嫌だ。まだ絶対に会いたくない。ここで断るのは簡単だ。子供みたいに嫌だと叫べばいい。でも桜千の言葉はとても理にかなっており、断れば他の誰かがやるしかない。
もしその話があの人や南雲さんに持って行かれたら、私はため息とともに呆れられるに違いない。そして『何もできぬガキ』と思われるに決まってる。私は複雑に絡み合う感情を胸の奥に押し込め、ただ力なく頷くしかなかった。





