第四百三十二話 百万一六年目の人
六条祐太の個室として設えられた静かな空間で、俺は一人、安楽椅子に深く身体を預けて思考の海に沈んでいた。一つだけ今までのことで結論が出た。
――ダメだ。
このままではかなりダメだ。オリジナルの『俺』の感情リミッターを残したままでは、どうしても万事において無感動、無関心になってしまう。なぜか?
100万年という、星の寿命すら意識させるような永劫の時間を、俺……『100万年前の俺』はたった一人で生き抜いてきたのだ。その過程で、人間らしい細やかな情動など、とうの昔に摩耗し、砂となっている。
そもそも、通常の人間のような繊細な精神のままでは、生きてなどいられなかったのだ。これをもとに、今この世界で懸命に生きている人間たちと接するのは、あまりに危うい。致命的に『まずい』気がする。
正直このままでは目の前で全裸の美女がいても無反応かもしれない。それならまだ良いほうで、ひょっとすると目の前で仲間が死んでも無反応かもしれない。それは、情報としてインストールされた今の俺の感覚から剥離しすぎている。
「……仕方がないな」
それは、諦めの言葉ではなかった。このまま『100万年前の俺』の冷徹な知性を主導権に据え続ければ、いずれ俺は、合理性という名の化け物に飲み込まれ、肝心の判断能力『心』を伴う決断すら失ってしまう。
感情を摩耗させてからは、ただ『感情があった頃の自分ならこうするはずだ』という、色褪せた過去の俺が仕込んでくれたプログラムをなぞって生きてきたに過ぎないのだから。
消滅してしまった『現代の祐太』の記憶を統合するまでは、俺は文字通り、目の前の命をゴミのように掃いて捨てることに何の躊躇いも覚えない、精巧な機械のような存在でしかなかった。それがどれほど空虚で恐ろしいことか。
消えた祐太の遺したデータが、警鐘を鳴らし続けている。
「俺の強さを大幅に削ることになるが……。石像のように凍りついたままの精神でいるよりはマシだ。それがお前の判断だな? うん、了解したよ。では、主導権をお前に譲ろう。何かあれば呼べ。……ただし、今の俺には、お前を愛おしむような感情もかなり薄い。あくまで人間らしく見えるのは、かつての俺が決めたプログラムに沿って動いていたからに過ぎない。そのことだけは、忘れるなよ」
暗い意識の底で、俺は誰に呟いているのか。一人二役を演じているような現状が、自分でもおかしくなった。
……いや、おかしい。
『おかしい』と感じること自体、楽しいという感情の欠片が芽吹いている証拠だ。そうか、完全に交代したな。100万年前の俺が悪いわけじゃない。けれど、あいつの意識が表層にいると、あまりにも周囲の出来事への反応が鈍すぎた。
先ほどの会議でも、十億の命がかかっているというのに『戦争』だの『効率』だのを、紅茶の銘柄を選ぶような軽さで口にしていたしな。
あいつは、平和的な解決が面倒になれば『相手側の国を、一人残らず消してしまえば最短で済む』などとナチュラルに考えてしまう。効率を突き詰めすぎた、神の視点だ。それが今のこの世界では毒でしかない。
自分でもそれは、俺のデータがなくても分かっていたはずだ。
「生き返ったというか、なんというか……」
実に複雑な気分である。100万年前の、はるか年上のお兄ちゃんとでも呼ぶべき超然とした存在。それがあっさり、俺という『個人のデータ』に主権を譲り渡し、自分の心を奥底へと入れ替えてしまったのだ。
もちろん、弊害はある。俺のパーソナリティを優先させれば、100万年前の俺の真価をまともに発揮することはできない。正直、戦力としてはかなり弱くなる。
具体的に言えば、酒呑童子とマークさんが融合していた頃の実力を再現するのが精々だろう。それ以上の、理を捻じ曲げるような出力は、奥底に眠る『あいつ』を呼び起こさない限り不可能だ。
でも、あいつを呼び出すのは正直、俺だって怖い。あいつは、あまりにも底が知れなくて恐ろしいのだ。
「はあ……まあいい、分かったよ。しばらくはこのモードで行こう」
俺という存在が本当に生き返ったわけじゃない。あくまでかつての『六条祐太』という人格データを、最強の器の上に再現したに過ぎないのだ。俺の命は一度、明確に死んでいる。
それは、たとえ女神ルルティエラであっても、元に戻すことはできない禁忌の領域だ。何しろ消滅して魂の欠片すらもうどこにもないんだからな。
「とはいえ、あんな無機質な顔で子供の前に立たれちゃ、親父としてかなわないからな」
祐希丸と玉姫に対して、何の光も宿っていない虚無の瞳を向ける『100万年前の俺』の姿が容易に想像できる。そんなことをされたら、それこそ。
「……確実に、子供が泣くぞ」
そんな世俗的な心配をしながら、俺は重い腰を上げて部屋を出た。
「……先に、祐希丸と玉姫に会いに行こうかな」
廊下を歩きながら、ふとそんな考えがよぎる。【転移】で一瞬で飛んでもいいのだが、それをやると情緒がなさすぎる。効率第一、情緒欠乏。それもまた、100万年前の俺が抱えていた欠点の一つだ。
いろいろな景色を見せ、語りかけ、俺自身の凍りついた感情も少しずつ溶かしていかなければ。
そんなことを考えながら屋敷の広大な回廊を歩いていると、前方にシャルティーの姿が見えた。彼女は忙しなく立ち働き、この広大な屋敷の管理に奔走してくれているようだった。
実質的に、この屋敷で奉仕すべき主は俺一人だけなのだが、何せ敷地の面積が異常に広い。そして桜千は『人の活躍の場を完全に奪ってはいけない』という配慮から、完全自動型の清掃システムをわざと採用していない。
だから、シャルティーや切江が一生懸命に動かなければ、この屋敷は放っておくだけで、庭から舞い込む桜の花びらに埋もれてしまうことになる。
「シャルティー!」
なんとなく、意識して明るく声をかけてみた。精神構造が100万歳の爺さんから、16歳の少年へと戻ったのだ。少しぐらい浮ついた俺がいてもバチは当たらないだろう。というか、正直に言えば、おっぱいが触りたい。
思えばここ最近、シリアスな殺し合いや世界の存亡ばかりで、エロいことなんて何一つしてこなかった。健全な男子として、これは由々しき事態である。
「ご主人様……?」
呼びかけると、シャルティーが足を止め、不思議そうにこちらを振り返った。
「どうかしたか?」
「あ、いえ……先ほどまで、なんだか計り知れない別人がおられるような、背筋が凍る感覚がしておりましたが。てっきりサファイア級になられて変わってしまったのかと……今は、間違いなくご主人様ですね?」
「はは、何を言ってるんだよ」
苦笑いで誤魔化すが、彼女の感覚は鋭い。肌を重ねる関係だから余計だろう。
ちなみに、俺という存在が一度完全に消滅し、その存在を喪失したという事実を知っているのは、マークさんと酒呑童子、美鈴、伊万里、そして南雲さんとクミカの六人だけだ。他の面々は、俺が死んだという事実すら知らない。
同時に、今のこの体が『100万年前の俺』であるという真実を完全に理解しているのは、南雲さんとクミカだけだ。美鈴とマークさんは、俺が何らかの奇跡的な秘術で生き返ったのだと信じ込んでいる。
そして伊万里は、俺が生き返ったという事実を頭では理解できず、今はただ、幽霊を見るような目で俺を怖がっている。
他の人間には、今後も真実を語るつもりはない。混乱を招くだけだし、今の俺がたとえ100万年前の俺であったとしても、俺であることに変わりはないのだから。
「そうですわね。私ったら、変なことを口走りましたわ。でも……なんだかようやく、いつものご主人様にお会いできた気がして、心の底からほっといたしましたわ」
シャルティーが安堵の吐息を漏らす。やはり、感情をなくした俺が放つ違和感は相当なものだったのだろう。俺自身が『まずい』と感じた以上に、仕える彼女たちの恐怖は凄まじかったに違いない。
……償いというわけではないが、俺は自然な動作でシャルティーの豊かな胸に手を添えた。
「うふっ……。最近はちっともなさらなかったのに、今日はどうされたのですか?」
遠慮なく、その感触を掌で確かめるように揉んでみる。
やはり、柔らかくて、温かくて、最高に気持ちいい。
下を見るとちゃんと大きくなっていた。やはり今の俺は『元の六条祐太』にかなり近い状態にあるということだ。俺はシャルティーのおっぱいを揉みしだきながら、図らずも自分の人間性の回復を確信していた。
「いや、まあ……大変なのはとりあえず全部無事に終わったしさ。ちょっとハメを外そうかな、なんて思ってさ」
俺はわざとらしく軽い口調で言った。シャルティーは一瞬、きょとんとした表情を浮かべたが、すぐにその潤んだ瞳に期待の色をにじませ、頬を赤らめた。
「まあ。……じゃあ、今夜は、その……?」
シャルティーの吐息が熱を帯び、絡めた指に力がこもる。だが、俺は揉んでいた手をそっと離し、苦笑いを浮かべて首を振った。
「いや、そうじゃないんだ。……ごめん」
正直に言えば、『それ』に対する誘惑は、16歳の精神構造に戻った今の俺にとって強い。だが、ハメを外すにしても、踏むべき順序というものがある。それに『全部終わった』と口では言いつつも、どうしても、あと一つ。
とてつもなく高く、険しい山を越えなければ、俺の心に真の平穏は訪れない。
俺は、たった一つ。その執念だけで、果てしない永劫の時間を生き抜いてきた。それは、どれほど感情が摩耗し、人間性を失いかけても、決して消えることのなかった焔だ。『これだけは、必ず果たせ』という魂の最深部に刻まれた命令。
そのすべてに決着をつけ、ケリをつけてからでなければ、やはり心の底から享楽に耽る気にはなれなかった。それに、共に戦った仲間たちが死んでいるのだ。
彼らの墓前に報告もせず、弔いの言葉もかけないまま、自分だけが甘い蜜を吸うことなど、今の俺の倫理観が許さなかった。
「……そう、ではないのですか?」
シャルティーが、露骨に肩を落として残念そうな顔をする。そのあまりにも分かりやすい反応が可笑しくて、俺は微笑みながら彼女の金髪を優しく撫でた。
「ちょっと、出かけてくるよ」
「はあ……。あの、主様? 今日は……その、夜には戻られますか?」
「ああ、帰ってくるよ。約束だ」
「よかった……! では、わたくし、腕によりをかけて最高のお食事をお作りしてお待ちしておりますわ!」
「ああ、ありがとう。楽しみにしてるよ」
滅多に家に居つくことがない、主としては何とも尽くし甲斐のない男だ。それでも変わらぬ忠誠と愛情を注いでくれる彼女に心からの感謝を捧げ、俺は屋敷の玄関を出た。
一歩外へ踏み出すと同時に、背中から深紅の翼を大きく広げる。
「さて。子供もかなり大事なんだが……あいつがいるとすれば、あそこだよな」
空へと舞い上がりながら、俺の思考は一人の男に向けられていた。
米崎秀樹。
どうにも、あいつの性格からして、あの最期はあっさりしすぎている。策を弄し、盤面を支配することに執着したあの男が、あんなに簡単に、予備のプランも持たずに死ぬはずがない。
普通のルビー級探索者でさえ、窮地を脱する隠しアイテムや、蘇生手段の一つや二つは持っているのがこの世界の常識だ。
あの用意周到の権化のような米崎に、それがないとは到底思えない。あいつの先読みの精度は、もはや異常の域に達していた。実際、今回の戦いにおいても、あいつが遺した『予測データ』には、死んでからですら随分と助けられた。
果たして本当に、ただの死体となって消えたのか? はっきりさせておく必要がある。
「でなきゃ墓も作ってやれない」
米崎について誰よりも詳しく、あいつの秘密を共有していたのは、あいつ自身が創り出した『からくり族』の中でも特別な個体、ヒノエだ。
情報によれば、米崎の死亡とほぼ同時、あるいはかなり早い段階で、ヒノエは聖勇国から脱出している。それも、何者かの明確な指示を受けたかのような鮮やかな手際で。
その事実こそが、あいつがまだどこかでニヤニヤと笑いながら生きているのではないか、という期待を抱かせる。ただ、ヒノエが聖勇国から消えた後の足取りは途絶えており、今のところ誰も彼女と接触できていないようだった。
みんな自分の目の前の混乱を収拾することに手一杯で、米崎の安否を確かめる余裕などなかったのだ。だが、俺はあいつのことが、どうしても気にかかる。なんだかんだ言って、俺はあの不遜で食えない男を、結構気に入っている。
正直に言えば生きていてほしいし、またあの嫌味ったらしい理屈を聞きたいと思っている。それを言うなら、ジャックと千代さんだってそうだ。まさか、あの二人が死んでしまうとは思わなかった。
……二人に関しては、魂の消滅まで確認されたという絶望的な情報が入っているが、それでも心のどこかで『どうにかして生きていてくれないか』という願いを捨てきれずにいた。
「だめだな。……感情のデータを交換した途端、随分と弱音を吐くじゃないか、俺」
独り言をこぼし、自嘲気味にため息をつく。
「それぞれに覚悟して死んだんだよな……」
データではない俺がそうだったのだ。ともかく、もし米崎が泥臭く生き延びているとするなら、ヒノエはその場所を知っているはずだ。そして、彼女が身を潜める場所として最も可能性が高いのは……。
「当然、桃源郷の六条屋敷だよな」
あそこしかない。あいつはあの屋敷を、あたかも自分の私有物であるかのように我が物顔で改造し、研究拠点にしていた。一応謝ってたけど全然反省した様子はなかった。まあ俺も腹立ちよりも面白さの方が勝っていたのだ。
だから、あいつが『避難先』として真っ先に選ぶのは、あそこである可能性が高い。
俺は翼を羽ばたかせ、さらに高度を上げた。以前の俺なら一瞬の【転移】で済ませていた距離だが、今はあえて風を感じながら飛んでいる。地上を見下ろせば、地上を歩く人々の姿が、蟻のように小さく、けれど確かに蠢いている。
「この人たちと比べて、別に俺が特別変わったわけじゃないんだよな……」
自分は、果たして特別な『誰か』になれたのだろうか。自意識の中では、俺は今でも、たまたま運命の巡り合わせてこうなった普通の一人に過ぎない。種族としての人間かと言われれば、もはや首を傾げざるを得ない。
だが、それでも他人より圧倒的に優れているなどという考えは、不思議と湧いてこなかった。きっと友達と呼んでいいのか同級生だった黒木と俺はそんなに変わらない。とすら思う。
「サファイア級になっても、感じるのはこの程度か……」
レベル1000という神の領域を超えれば、もっと世界が違って見えると思っていた。だが、予想以上にいつも通りだ。……まあ、データとしての俺の人格だからかもしれない。
もし100万年前のあいつが主導権を握ったままなら、もっと無機質で神聖な、冷たい景色を見ていたのかもしれないが。そんなことをとりとめもなく考えているうちに、ブロンズエリアの巨大な転送ゲートが見えてきた。
【千年郷】の第七区に位置するこの場所は、周囲が広大な公園として整備されている。ゲートの周囲を緑で囲むのは、利用者の精神衛生を考慮した設計なのだろう。
そのさらに外周には、活気あふれる商業施設や、品揃えの豊富なダンジョンショップが軒を連ねている。どうやらダンジョンショップも今は結構な件数があり、店舗ごとに特色や独自の仕入れルートがあるのだという。
そういえば、あの『ダンジョンのお姉さん』は今頃どうしているだろう。そんな懐かしい顔を思い出していると、桜千から【意思疎通】が入った。
《主様、目的地付近の群衆に対し、人払いの処置は必要でしょうか?》
《いや、いいよ。みんな忙しいんだ。突然『どけろどけろ』なんて高圧的に言われたら、誰だって嫌だろう?》
《了解いたしました。……ちなみに、今夜はお帰りになられますか?》
《シャルティーにも同じことを聞かれたぞ。ああ、帰るよ》
《失礼いたしました。では、お戻りをお待ちしております》
俺は一度出かけると、またいつ帰ってくるか分からない放浪癖のある男だと思われていそうだ。……否定はできないが。でも、まだしばらくは、そんな大掛かりな旅に出るつもりはない。
もう少し先になれば、また『行かなきゃいけない場所』がある。自分でも、本当は落ち着きたいのだ。けれど、こればかりは俺の魂に刻まれた執念のようなものだから、仕方のないことだった。
どうしても、俺にしか、できないこと……。
地上へと静かに降り立つと、周囲の視線が一斉にこちらへ集まるのが肌で分かった。大八洲国へと直接繋がるこのゲートは、利用者が多い交通の要所だ。俺もその雑踏に紛れる一人として、ゲートへと歩を進める。
「あ、あいつ。懐かしいな……」
行き交う人々の中に、見覚えのある面々を見つけた。古見パーティーのメンバーだ。ミカエラとまだ敵対していた頃、あの爆発騒動の渦中で出会った退学組の連中だ。
ここにいるということは、彼らもレベル100の壁を越えたのだろうか。優秀じゃないか。……すごいな。頑張ったんだな。少しだけ懐かしくなり、応援もしてあげたくなり、声をかけてみたくなった。
「よう。古見、元気にしてるか?」
俺は何気なく、先頭を歩く男の肩をポンと叩いた。
「ん? 誰だ……あ、あんた?」
これからダンジョンに潜るというのに、相変わらず髪を完璧にセットし、白い歯をキラつかせた、鼻持ちならないがどこか憎めない男だ。古見が振り返り、俺と目が合った瞬間、弾かれたように数メートル後ろへと飛び退いた。
「お、お、おま……な、何だ貴様は!? いや、あなたは一体……!?」
今の俺は、燃えるような赤い髪と瞳をしている。一般的な人間離れしたその容姿は、この探索者の基準で言えば、間違いなく高位の【転生者】か、あるいは人間に擬態した化け物に見えるだろう。
彼の警戒心は、探索者としては極めて正しい反応だった。ルビー級、あるいはそれ以上の『おっかない連中』など、普通の冒険者はまず相手にしたくないものだ。





