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4-4:目覚めた先に3

 お月様のように丸く開いた狭間の中、ぽっかりと浮かんだのは不機嫌そうな顔をしたシュトルヒと、切れ味良さそうな包丁の切っ先が数本。

 その隣ではミラリナが微笑みながら、青い液体まみれの包丁を獲物に振り落としていた。ドグシャアッという音の後に、何かがこと切れる声が切なく周囲に鳴り響く。

 寝起きに見るにはあまりにもあんまりな光景に、先ほどのまでの照れやもろもろが吹き飛んで、背筋に冷たいものが流れた。

 気分が一瞬で下降しそうな光景から平静を保つために、残骸となった姿をそっと視界から外す。

 ここは調理場で、そういう物を扱うのは当然のことだと解っている。

 けれど美人がそんな物騒なモノを扱うと、もの凄く昼ドラっぽいのでやめて欲しいといいますか。真っ白なエプロンにべっとり付いた青い体液がより効果を増して、2時間サスペンスドラマのワンシーンみたいなことになっているといいますか。

 ……寝起きに見るには、実に遺憾な光景です。


「お目覚めになられたのですね、モモコさん。一時はどうなることかと」

「あ、えと。はい。その節は多大なご迷惑をお掛けしまして」

「いいえいいえ。それよりもお体の方は?」

「腕も体も問題なく。全身はまだ確認してないですけど、一応元気ですよ」

「それはようございました」


 包丁の切っ先を視界から排除しつつ。気を取り直して笑顔を返せば、ミラリナは頬に手を添えてふわりと微笑んだ。

 彼女の一見クールそうな切れ長の目元が笑みを型どると、途端に癒し系になる。

 嫌な事がするりと抜けていくような、そんな優しい笑顔につられてヘラッと笑うと、今度はシュトルヒがずいっと体を寄せてきた。

 なんだろう? またいつもの様に嫌味を言うつもりだろうか。


「フーン」

「あの、何か?」

「別に」


 いやいや、今の、全然別にという顔じゃなかったぞ。

 その含んだような顔付きは一体なんなのか、余計に気になるじゃありませんか。

 しかしシュトルヒはもうこちらに興味がないのか、まったく視線を寄越さずに目の前の作業へと取り掛かり始めていた。

 ぎりぎり魚類に分類されるであろう、足の生えた魚系の食材を淡々と処理し、銀色のトレーへ部位ごとに振り分けていく。

 意外にも丁寧な手つきなので、先程のミラリナの包丁さばきの方が大雑把に見えてくる。


「ああ、そうそう。言いたいことが一つあったよ」

「なんでしょうか」

「感動のご再会っつうの? できればあっちでやってくれる。見てるだけで薄らサムイっていうか、白々しいからさ」


 取り戻しかけた和やかな空気を、スパッと切り裂く鋭い一言。

 これにはミラリナはもちろん熊五郎までも苦笑し、私も微妙な顔を向けるしかなかった。

 ……このお犬様は本当に、どこまでも、お犬様だな……。

 私がこの姿になっても関心を示したのは最初だけで、あとはいつもの通りだ。

 まあ、姿が変わったからといって、いきなり厚意的になられても逆に怖い気もするけど。

 そう考えると、シュトルヒらしいといえば、らしいのかもしれない。


「っていうかさ、言われる前に察して貰えると、こちらとしても助かるんだけどね」

「……タイッヘン、申し訳ございませんでした! 以後は重々気をつけます」

「謝罪するにしても、もっと語彙を増やして欲しいもんだよね。いつも同じだと聞く気失せるよ」


 嫌味な口調にムッとしそうになって、すんでの所で気持ちを抑える。

 いまこの場で口答えしたら、シュトルヒはここぞとばかりに私を口撃するだろう。

 寝起き+空きっ腹だというのに、そんなハードなやり取りは避けたい。

 それに今は熊五郎もいることだし、また会話の最中にお腹が鳴っても困るしな……。


「意地の悪い言い方はよして下さいませ。それでなくともモモコさんは病み上がりなのですよ」

「ハイハイ、わかりましたよ。そんな風に庇うんだったら、アンタもこのお子ちゃまの相手でもしてくれば」

「お、お子ちゃま呼ばわりですか……」

「もう、シュトルヒったら……。それに本当に抜けてしまっても宜しいのですか? まだ準備の方が」

「コイツがこんな場所に顔出した時点で察しなよ。それにここは料理する場所。で、会話する場所はあっち」


 と言いながら、シュトルヒはウンザリした顔で、包丁の切っ先を共同食堂の方に向けた。

 お行儀は悪いけれど、言っていることは道理だ。お腹の状態も切羽詰まってきたところだし、熊五郎にこの不思議な窓を移動させてもらおう。

 そうしてふと隣をみれば、熊五郎がなにやら口元を抑えて小首を傾げていた。

 何か気掛かりなことでもあるのだろうか。


「すまないな、シュトルヒ君」

「ハァ?」

「色々な意味で君の邪魔をしてしまったようだ。心から謝ろう」

「……含みのある言い方が気に掛かりますが。そう思われていらっしゃるのなら、この場から早々にお引取り願えませんかね。ああ、それからボクには到底理解出来ない高尚な魔術を駆使して、こうした特殊空間を構築されるのも、今後はご遠慮いただきたいものです。ここの衛生面にも関わりますので」


 シュトルヒは熊五郎をちらとも見ず、代わりにバイキンでも見るような目をこちらに寄越し、あまつさえ鼻で笑う。

 衛生面への影響って、もしかしなくとも私のことを指しているんだろうか。

 言い返したいけれど、熊五郎の言葉からすれば長いことお風呂入ってないはずだから、そういう扱いになっても仕方がないのかもしれない。

 しかし私も、一応は女子なので。うん、若干傷つくわー……。


「これは直に空間を繋げてはいない。食品を汚染するとか、そういった影響は出ないぞ」

「ご配慮くださり、深謝いたしております。それではもうご要件はお済みでしょうか。お済みですよね?」

「いや、まだあるぞ。桃子のために、何品か見繕って欲しいんだが」

「それはそれはお優しいことで。……しかし私もここを管理するものとしての責任がございます。城で自由に使える食量というのは限られておりますからね。前もって申し付けていただければ、市で買い付けるなりして、それなりの物をご用意できたのですが」


 「残念ですねぇ」と口で言いながら、シュトルヒはまったく残念でもない顔でゆるゆると首を横に振った。

 「用意する気なんざサラサラないね」と顔にしっかり書いてある。

 腹立つわー。そのオスマシ顔、凄く腹立つわー。

 しかしそんなシュトルヒを見ても、熊五郎はまったく憤る様子も見せず朗らかに笑っていた。

 いや、常に笑っている顔だけれど、気のせいか妙に威圧感があるような。


「足りないならば、必要量配給しよう」

「いえいえ。仮にも貴方のような立場ある御方に、そのような配慮をしていただくわけには」

「この一件については、まったく心配してくれなくていい。まさか北領が急な客人も饗せない窮状と知ってはな。他に知れれば、女王の沽券にも関わる。それにカルフォビナ随一である料理長の、肩書きと信用を貶めるわけにもいかないだろう」

「……どういう意味ですか」

「意味も何も。君は賢いから言わずとも察せると思ったんだが」


 シュトルヒの前で、チリっと火花のようなものが散ったような?

 それからもシュトルヒの嫌味を受け流しているというか、のらりくらりとはぐらかし、熊五郎は会話を楽しんでいるようだった。

 シュトルヒの背中から、徐々にトゲトゲしい気配が滲み出ても、応酬を止めはしない。

 口調は柔らかいけれど、じりじりと責めるような言葉に限界が来たのだろう。

 しばらくして諦めたのか、シュトルヒはものスッゴク嫌そうな顔で承諾した。


「畏まりました。材料が着き次第、早急にご用意致します」

「そうしてくれると助かる。桃子、苦手な物はあるか?」

「……いや。その、うん。出されたものならなんでも、ありがたく頂きます」

 

 この殺伐とした空気の中で、これ以上の文句を付けられようものか……。

 文句を付けられるとしたら、女王のように立場が上の人か、心臓の毛の生えた人くらいです。


「そうか? シュトルヒ君は職務に対して誠実な料理長だ。些細な要望にもしっかりと対応してくれるぞ」


 妙に爽やかな口調で言う熊五郎が怖いから、さっさと窓を閉じて欲しかったのに……言わないとダメですか、そうですか。

 気がつけばトゲトゲどころか、ドロドロしたオーラを放っているシュトルヒ。

 そんな状況をどうにかしたくて、慌てて思いついた料理を告げると、熊五郎もやっといつもの雰囲気に戻ってくれた。


「それからミラリナ嬢。久しぶりに桃子と会ったんだ。積もる話もあるだろう。俺はこれから少し席を外すから、ゆっくり話をするといい」

「え!? もう行っちゃうの?」


 ほんとに思わず、反射的に熊五郎に手を伸ばす。

 掴んだ瞬間ハッと気がついて手を離せば、熊五郎は少し困った顔をしていて、私を安心させるようにポンポンと手を叩いた。


「さっきの会話を聞いてなかったのか? 食料をこちらに回して来るって」

「あ! ああ、そーでしたね。すみません……」

「それにこれ以上、それを放ったらかしにしても可哀想だろう」


 それ……って、言いながら私のお腹見るのやめてください。

 からかうような口調に恥ずかしくなって、毛布でお腹を包むように隠すと、熊五郎は口元を抑えて静かに笑い始めた。

  か、完全に笑いのネタにされている。それにさっきの、勢い余って、子供みたいに手を伸ばしたのが相当こっ恥ずかしい。


「そういうわけで、桃子を頼むよ。ミラリナ嬢」

「畏まりました」

「え、でも、ミラリナさん、お仕事は……」


 というか先程から視界に入れないように努めてきた、スプラッタな獲物の末路は?


「シュトルヒから快諾いただきましたもの。問題ありませんわ。それに陛下から、モモコさんのお支度についても賜っておりますので」


 にこにこ顔のミラリナと、にこにこ顔の熊五郎。この二人に挟まれて否やと言えるはずもない。

 シュトルヒのように追い詰められたら、私の場合、確実に逃げ場が無くなるしな……。

 それにミラリナは、「陛下から」と言っていた。私が眠った後に起こったこと、女王やネブラスカのこと。熊五郎から聞きそびれたことを、もしかしたらミラリナから聞けるかもしれない。

 それに、さっきから気になってはいたのだ。

 熊五郎にご飯だけじゃなく、服とか下着まで催促するのはどうかと思うし。

 あの空間から女性物の下着とか出されたら、……いろんな意味で複雑な気持ちになりそうなので。


「で、では今回だけ、ご厚意に甘えさせてもらいます。ミラリナさん、よろしくお願いします」

「はい、お任せ下さいませ」

「それからシュトルヒさんもすみません。あの、作業のほう」

「今更気使われても意味ないっつの。こっちは適当に間に合わせるから、ミラリナもさっさと行きなよ」


 ミラリナはシュトルヒの言葉にわずかに苦笑しながらも、その場で綺麗な礼を取ると、颯爽と調理場を出て行った。

 去り際に爽やかに微笑まれて、その表情にまたも癒される。

 いまだ狛犬みたいに険しい表情をしているシュトルヒがいるだけに。


「シュトルヒ君。材料の手配が済んだら、一度そちらにお伺いしようと思うんだが、都合の良い時間帯はあるか?」

「ハァッ!? まだ何か御用がお有りで?」

「なに、君にとっても悪い話ではない。時間もそれほど取らせない。いや、取らせないよう、協力して欲しいものだ」

「ちょっ、ボクはそんな暇」

「もちろん今日が駄目なら明日でも明後日でも、何回でもこちらから出向……」

「……畏まりました。手配の後にでも」

「とても忙しいだろうに、快く引き受けてくれて嬉しい。君には心から感謝する」


 なんだかものすごく疲れたような顔をしたシュトルヒを尻目に、熊五郎はとてつもなく爽やかな口調でスパンッと狭間を閉じた。

 ……熊五郎って基本的に優しいんだろうけど、なんかこう。

 なんというか、こう……。


「シュトルヒ君は口は悪いが、敏い上にとても気が利くな」

「そ、そうなの?」

「ああ、完璧であろうと、努力する姿勢が好ましい。ただある一点においては、少々不器用そうではあるが」


 あの嫌味の塊のようなシュトルヒを、そういう風に見たことも思ったことはない。

 不器用、ってどこらへんがそう思うんだろうか……。

何に対しての不器用さ? 私に向けて打ってくる包丁さばきは、そりゃもうどこのナイフ投げ職人ですか?というほどの精度だし、間髪入れずに小言まで飛んでくる。

 って、よく考えたら、これは私に対してだけか。


「桃子。ミラリナ嬢が来るまででも、少し横になっていたらどうだ」

「え? もう本当に平気だよ。それに支度が済んだら、陛下やネブラスカ様達にご挨拶に行かないと」


 女王やネブラスカだけでなく、ランカスタ夫妻、今回の件でお世話になった人達とちゃんと会ってお礼や謝罪をしておきたい。

 ついでに一ヶ月放置していた体を動かす練習もしようと思ったのに、熊五郎は困り顔で首を横に振った。


「そういう気持ちは大事だが、元気になってからだって遅くはないだろう」

「もうなってるよ。ほら腕も足もさ……」

「体の事じゃなくて、心の方だ」


 そうして前に怒られた時みたいに、額をペチッと叩かれた。

 懐かしいような、久しぶりの感触に驚いている間に、ベットの上に押し戻され、今度は子供みたいにぐりぐり頭を撫でられる。


「君がそんなに気を回さなくとも、周りの人は待っていてくれるよ」

「でも……」

「でもじゃない。あまり無理をするなと言ってるんだ」

「無理はしてないけど」

「気を張っているのが目に見えて解るうちは駄目」


 どうしてそんなこと、解るんだろう。

 『毎日楽しそうだね』とか『悩みなさそうでいいね』とか、そう言われる事の方が多いのになぁ。

 顔に出ているのだろうかと思って頬を引っ張るも、やはり自分ではわからない。

 その間も熊五郎は、眉をハの字にさせながら毛布の端を手繰り寄せていた。

 そうして納得いかないまま、再びベットの中に押し込められる。そんな状況に少し、胸の辺りがモヤモヤした。

 熊五郎って微妙に過保護なんだろうか? 

出会った時からだけど就職先を斡旋してくれたり、私が困ったときにはちゃんと助けてくれる。

 頼りっきりになるのはいけない事だと解っているのに、こうして優しくされると正直困ってしまう。


 ────余計に離れがたくなるというか、先ほどまでの決意が鈍るというか。


 そんな微妙な気持ちも知らず、世話を焼く熊五郎がなんとなく憎らしく思える。このままぐだぐだと甘え続け、これ以上ダメな女になったらどう責任をとってくれるのだろう。

 そんな愚痴、言うつもりもないけれど。

 あまりにも緊張感のない顔で毛布を掛けようとしたお腹を発見して、思わずツンツン突っついた。


「こら、何イタズラしてる」

「なんとなく」


 心配してくれているのが解るだけに、突っぱねることもできない。

 そうしてしばらく熊五郎のお腹を突っついて気を紛らわせいるうちにミラリナが到着して、とりあえず目の前からそのモヤモヤを置いやったのだった。




 桃子と熊のぬいぐるみが人知れずじゃれ合っている頃、カルフォビナ城の下層にある石碑の間では、城の主である蒼い竜がゆったりと石の台座に凭れていた。

 息をするたびに光が反射し、透き通ったように変化する身体。その荘厳さと竜自身の持つ気高さに、側仕えの者はほうっと感嘆の息を漏らす。

 だがこの城の主である竜の女王はそんな視線すら一切気に留めず、数枚の書類を熱心に眺めている。

 その遥か前方、石床の上では、周囲と対比して哀れな様相を見せた人物が座していた。

 可哀想なほどに顔面蒼白となった男は、視線をふらふらと彷徨わせ、己を支えるのもやっとという体である。

 差して優秀でもなく、顔が非常に整っているというのでもなく、また本人に特出した能力があるわけでもない。総合的に見ても『平凡』という言葉がピッタリと当てはまるような男だった。

 というより男自身、これまで目立った功績を残したこともなく、城内にあっても一般市民と同じように平穏に暮らしていたせいもあるだろう。

 なにせ男の職業は庭師。女王と日常において相対すること自体少ない職種だ。

 花木と戯れていることの方が多い男が、何故この場に召還されたのか。多くの臣下が訝しげな目線を送る中、女王は有無を言わさず、石碑の間から人払いを済ませた。


「そのように畏まることはない。ここにはわらわと数名の護衛しかおらん。ゆるりとしていろ」

「はい……」

「では、ぬしがこの一ヶ月調査しておった件について、詳細を聞こうかの」

「か、畏まりました」


 柔らかい女王の話し方、また優しげな表情を仰ぎ見て、男は疲労の色が濃い顔をほっと安堵に緩ませる。

 だが緊張もあってか、彼の一族の特徴でもある頭の触角が、忙しなくぴょこぴょこと動いていた。


「ご、ご説明の前に、一つ映像資料をご用意いたしました。提示させて頂いても宜しいでしょうか?」

「うむ。かまわぬ」


 女王が二つ返事で頷くと、男は緊張を抜くように一息付いて、懐に抱えていた珠を慎重に取り出した。

 琥珀に似た色の球体。鈍く光るそれを男が叩くと、周囲に黄色い光が放たれ、磨きこまれた石床に映像が映し出されていく。

 そうして提示されたのは、右翼大陸の全体図だった。

 だがそれは本来の物とは違い、北領の堺から東領付近に掛けて、紫に塗りつぶされている。

 次に映像が切り替わり、各地域に分付・生息する動植物の状態が提示されていく。こちらはカルフォビナではさして珍しくもない雪原や、農村地域の映像だ。

 北の野を駆ける家畜や、何気ない日常を送る住人達の姿が克明に描き出されていく。

 穏やかでいて素朴な景色。なんの問題もなさそうな映像だったが、最北から南下していくにつれ、女王の穏やかな顔が渋面に変わる。


「境界に面するいくつかの地域で、このように変質した魔獣が見受けられました。資料にあるのはタンクルルとレジフォッグなのですが、まるで別の種のように姿形を変化させています」

「新種、ではないのじゃろうな」

「はい。魔獣に詳しい専門家からお聞きしたところ、通常ならばこのような変化はあり得ないとのこと。また、これらの草食魔獣の主食となるものは、ラバの実や花弁なのですが、これにもまた著しい変化が見られます」

「……しかしこれほどとは」


 通常は二つであるはずのタンクルルの目。

 リスのように愛くるしい瞳がいまや八つに分かれ、口元は中心から縦に真っ二つに裂けていた。まるでユリの花のように四つに開く口元が痛々しい。

 そしてレジフォッグと呼ばれた紅いカエルも同様、本来歯すら無いその口元には己の顎を突き刺すほど鋭利な、狼に似た歯が並び、六本で収められているはずの手足には、樹の枝のように細かな無数の足が生えている。

 行動も本来の習性から逸脱し、魔獣・亜人に関わらず、攻撃色である赤い目を光らせて襲いかかっていた。

 映像の中には己の仲間まで攻撃し、錯乱したように殺し合いを始めているものもある。

 そしてタンクルルの主食となるラバの実。マンゴーに似たそれにも統一性がなく、ひどく湾曲したものから、変形変色したもの、通常の二倍ほど脹れ上がったものなど様々だ。


「魔獣の遺骸を数体持ち帰り、医師団に分析を依頼したところ、魔獣の胃の内容物から変異した土壌と同じ、紫の組織が発見されました。この組織が何なのかはいまだ調査中です。……これから先は憶測ですが、変化した土壌から発生した果実を食べたことにより、魔獣の体内に蓄積され変異が起こったのではないか、と」

「この残状が食物一つで引き起こされるのか」


 正視することすら不快と言える映像の数々。

 それを表すかのように、資料が移り変わるたび、女王の瞳は研ぎ澄まされた刃のように鋭くなっていく。


「この変化からして地質の状態は、その……」

「東領全域に及ぶやも知れぬと?」

「その。……実は、許可証を提示したのですが、東領の関所で止められてしまいまして、内部まで調査することは叶いませんでした」

「先王が失脚してから、まだ王が定まっておらんからの。そこまで順序良くはいかぬだろうよ。あちらの調査については、先に送り込んだ間者に任せてみる」

「力及ばず、申し訳ございません。ですがおそらく、ご推察の通りかと」

「ふむ」


 調査の結果を鑑みて、女王は皮肉に歪みそうになる口元を扇子で覆い隠した。

 思った以上の結果が出た。それも最悪の結果である。

 桃子が倒れた宴の夜からすでに一ヶ月。

 あの場で死亡した者たちへの合同葬儀や宴の始末も済み、周囲の者もひとまずは落ち着きを見せ始めていた。

 だがそれも外面だけのこと。全てが元通りとなるわけもない。

 今回の事で東領民への不信感が煽られたことは確かで、当然というべきか、暗に領内にある東領民を排除せよと陳情がされることも少なくはなかった。

 これ以上、民衆の不安を煽るような要素を増やしたくはないのだが。

 女王はそうしてしばらく思案していたが、やがてため息を付きながら黒い扇子を閉じる。


「しかし、短期間によくぞここまで調べ上げてくれたの。ぬしはわらわが思うていた以上に優秀だったようじゃ」

「き、恐縮にございます。ですが、その、素人推量もありますので」

「何を言う。これまでぬしが入念に調査しておったからこそ、価値のある進言じゃ。多少の誤差はあれ、その報告に偽りなどありはしまいよ」

「へ、陛下……」

「調査中、離れていた妻子にも随分と寂しい思いをさせたじゃろう。これは特別に計らわねばならぬの。改めて礼を言うぞ」


 女王からのねぎらいの言葉に、男は目元を潤ませ、その場で深く平服した。一ヶ月前女王から一任され、秘密裏に始まった調査。そしてこれまでの苦労を思い返したのだろう。ついには目頭を抑えて何度も礼を取る。

 女王はその姿を見留めて慈愛に満ちた面差しを向けると、柔らかな口調で言った。


「それでの。ぬしの観察眼を見込んで、わらわから頼みがあるのえ」

「は、はい! 私で宜しければ、なんなりとお申し付け下さいませ!」

「その心意気は頼もしいがの。ぬしに過労で倒れられては、妻子のみならず、親御にも恨まれてしまう。そうならぬ前に、必要な処置を取らねばならぬ」

「処置、でございますか?」

「うむ。今後の調査はぬしの一族総出で当たってもらいたいのえ。ぬしが気になった箇所から、カルフォビナ一帯の地質、形状の記録、及びその経過をこと細かく報告してほしい。地層の奥深く、どこまで侵食しているかをな。────ネブラスカ」

「はい、陛下」


 女王を愛してやまない一番の下僕であり、この領土の警備隊長でもあるペンギンは、頭の頂上についた金色のまき毛をファサッと揺らしながら女王に優雅な仕草で礼を取る。

 そしてペンギンらしからぬ素早い動作で男の前まで歩み寄ると、黒い燕尾服の懐からカルフォビナの印が施された銀の認識票を差し渡した。


「あの、これは一体」

「此度カルフォビナに新しく設置された地質調査部隊・隊長に、正式に貴殿を任命したいと陛下が仰せだ」

「え、ええッ!? わ、私のような者がですか!!? そ、そんな隊長なんて大それた」

「そう謙遜なされるな。貴殿の仕事への熱意と、その能力を買ったからこそ、陛下はこの任へと召し上げたのだぞ」

「ですが、このような大役」

「この任務は容易くはなかろう。精神的にもかなりの負担が多い。だがぬしならかならずやり遂げる、そうわらわが見込んだのえ。────どうじゃ。カルフォビナに貢献し、その名を後世まで刻む絶好の機会でもある。己の力を試してみぬか?」


 蒼い眼をきらめかせ、これまでとは雰囲気を一変させた女王に、男は畏怖の念を抱きすぐさま平伏した。しかし突然のことに混乱しているのか、しばらくその場で押し黙る。

 女王からの異例の抜擢に驚くと同時に、これまでの激務を思い出したのだろう。前回は境界付近のみの調査であったが、今後は一族総出で行う。

 分担すれば、捌けないことはない。

しかしいま見せたような光景を晒すのはあまりにも……、と。

 男はあまりにも思いつめたのか、石床にふらりと頭を打ち付けそうになり、ネブラスカに助け起こされていた。


「も、ももも申し訳、ご、ございまま!」

「困惑する気持ちは解る。だがこれは住人全員の存亡に関わるやもしれぬ大事なのだ。どうだ、この命を受けられるか?」


 元は庭師程度の役目しかなかった男。

 己がどれだけの事を成したのか、またこれから成し得るのか。そして自分の目であの残状を見たからこそ、揺らいでいた目を正し、男はまっすぐに女王を見据えた。


「御前だというのにお見苦しいところを見せてしまい、申し訳ございません。女王陛下。────このフィエロ、謹んで拝命つかまつります」


 彼の一族だけのことではない。

 ことはカルフォビナのみならず、大陸全体に関わる事だ、と。

 蟻族の男・フィエロは腹を決めると、ネブラスカから恭しく認識票を賜り、決意に満ちた顔で室を出て行ったのである。

 女王はそれを笑顔で見送ったものの、扉が閉まった途端、疲れたように目頭を抑えた。


「陛下、少し休まれては」

「いや。これから客が来る。それにこの調査結果では寝入ることなど出来ぬわ」

「確かに、そうでございますな」


 ネブラスカはフィエロから提出された珠を眺めながら、先ほど提示された地図を思い出していた。そして気落ちしたように、その黒い手先で己の胸のあたりを撫でさする。

 以前桃子が見合いの際にマリエッタから聞いてきた情報は、実は一年程前から報告されていた事例であった。

 桃子を治している間にその陳情を思い出し、女王は庭で暇そうにしている亜人・フィエロを見つけ、気まぐれに調べさせたのだが。

 まさかそれが、クロムフォードが暴挙に至った原因に関係しているなど誰も思うまい。

 変質した土壌から発生した植物、変形し異常をきたした魔獣。その植物を食べたのは当然ながら、魔獣だけではないだろう。

 前回の宴の席でも他領と比べて少なかった東領民の出席人数や、自暴自棄ともいえるクロムフォードの行動。

 そしてあの、何者を食い尽くすかのような、黒い合成魔獣。

 実際にクロムフォードから原因を聞き及んだわけではないが、おそらくこの推測は当たっているだろうとも。


「変質した動植物を食べ、普通に暮らしていたはずの領民達が徐々に正気を失っていくのか。領を統括する者にとっては恐怖でしかないの。……アレが狂うたのも解るような気がするわ」

「陛下、そのような事を仰らないで下さい。それに調査を終えてはいないのです。推測の域を脱しません」

「だがあり得ぬでもなかろう。一部でも可能性がある限り、芽の内に原因を摘まねばならぬ。まだ芽であれば良いがの」

「確証も無いのに、あの地区に住む全員を退避させるのですか? それに事情が明らかになれば領民の混乱を招くことにも」

「わかっておる」

 

 女王は忌々しげに手を振って言葉を遮り、静かに瞑目する。

 先の宴の夜以降、南領ヴォルド王にも再三に渡って通告を出したが、まったく音沙汰が無い。そればかりか北領の使者を追い返し、南領民全体がなにかをひた隠すように沈黙を守っていた。


 ────だがもしも、あちらでも同様の問題が起こっているとすれば。


 事は三領亘っての問題に発展するかも知れない。

 早急に調査を進めたいが、まず調査させる場所は北の全域。

 東領の王すらいまだ定まっていない状況下では、他領にまで干渉する時間など到底ない。

 そこまで考え、女王はふっと目元を光らせた。


「避難場所については心当たりがないでもない。それよりもネブラスカ。上層階に暇そうな一族がおったじゃろう。あれらも調査隊に組み込め。蟻族の下に敷き、やらぬと申した場合は『カルフォビナ領において、何一つ貢献出来なかった恥さらし』として後世にまで書き記すと脅せ」

「それでは末裔がいささか不憫にございましょう」

「甘い汁を吸うだけとなった穀潰し共のことなど知ったことか。これまでのツケを払う良い機会じゃろうて」


 領の大事であるにも関わらず、傍観者として眺めることなど許さない。

 先祖を敬い、義を重んじるカルフォビナで、恩を仇で返すなどご法度だ。

 極寒の地・カルフォビナでは昔から作物がよく育たず、外部からの輸入によって生活を賄っていた。寒ければ身を寄せ合って暖を取り、食べるものがなければ皆で分け与える。

そうして古くから、ここの住人には助けあう精神が深く根付いている。

良識を持つ民ならば、今回の決定を聞かせたとしても、自ずから率先してその土地に向かうだろう。

 問題はその裏であぐらを掻いて楽をする、狡賢い者達だ。


「此度の決定にしのご言う輩がおったら、その一族の中でもっとも地位の高い上位二十名を捕らえ、一番過酷な地に向かわせろ。そやつらの妻子も名目を立てて城外にある管理施設へ幽閉しろ。周囲への見せしめにもなるじゃろう」


 それに取り立てて能力があるとは思えなかった蟻族に、特別任命が与えられた。

 蟻族は中層とはいえ、下層階にごく近い種族である。

 今回の決定は、今後下層の種族であっても取り立てられるという希望であり、いつでもその立場を突き崩せるという上層階の亜人への意思表示でもあった。

 矜持ばかり高い上層階の領民を揺さぶるにはちと物足りないが、多少は効果が見込めるだろう。

 図らずもクロムフォードが仕掛けた事が、安穏と暮らしている者らへの戒めとなっている今だからこそ……。


「畏まりました。しかし人質を取るなどいたしませんぞ」

「それであれらが言う事を聞くか?」

「命令には絶対に従わせます。が、そうした発言をするのは、程々にと申しているのです。領民から反感を買い過ぎれば、あわやという事態にもなりえません」

「ふん。わらわに降り注ぐ火の粉を払うのが、ぬしの仕事じゃろうが」

「火の粉も集まれば、全てを焼きつくす業火にも成り代わります。払いきれるだけの火に納めて欲しいと、お願い申しているのです」

「随分と気弱なことじゃの」


 からかうような口調で言う女王に、ネブラスカはことさら渋面を示す。

 それはこれまでの自信たっぷりな表情とは違うもので、女王は思わぬ反応にわずかに目を眇めた。


「どう言い繕うと、先の戦で私は遅れを取りました。いま人心を乱せば不信感を煽られ、再びあのような事が起きぬとも限りません。それを抑止するためにも、陛下にご協力頂きたいのです」


 いつもの粘着質な言い方ではなく、ネブラスカの言葉は真摯だった。

 合成魔獣との戦闘で手を焼いたこと、また女王の体を傷付けられたことに自責の念を感じているのだろう。

 女王とてあの当時のことを想い出せば、腸が煮えくり返るほどの苛立ちを覚えたが、臣下であるネブラスカに恨み言を長々と吐き捨てるほどに愚かでも暇でもない。

 だからこそネブラスカは責任を感じ、再び魔獣の体を纏って出廷したのであった────が、女王はそこを見逃してやるほどに甘くはなかった。


「なんじゃぬしは、過ぎたことをいつまでも愚痴愚痴と……。領民の命を守るのが王たるわらわの責務。その戦で負傷したのは、わらわの落ち度じゃ」

「しかしですな!」

「それにぬしが恥じるべきは、あの場を離れ、領民の命とわらわの命を天秤に掛けたことじゃろうが」

「……ぐッ!!」

「後悔を盾にして己に酔うのはやめよ。そんな暇があるのなら、民のためにその身を動かせ!」


 痛烈な叱責に、ネブラスカの体がわずかに萎む。だがすぐに体をブルブルと震わせると、胸に手をあて、開いた片手をピッと立たせた。

 以前桃子が見た演説ポーズである。


「私は、私はとても愚かでした……ッ!」

「安心しろ。いま現在も進行して愚かじゃ」

「陛下のお気持ちを察することが出来ず、私は己のことばかりを悔いておりました! 陛下の憂いを注ぎ、陛下の御心の安寧を保ち、身を粉にして働くことこそが私の責務であるというのにッ!!!」

「湾曲するな。ぬしの仕事はわらわだけでなく領民を守ることをだな……」

「いますぐあの害畜共の尻を百叩きにし、一番過酷な地に向かわせ、馬車馬のようにこき使わせましょうぞッ!!」

「反感を買うなと、ぬしが申したばかりじゃろうが」

「私自身が買うのであれば、まったく問題ありませんなッ!」

「巡り巡ってわらわに来るのであれば問題じゃろうが。この阿呆めが」


 ネブラスカの言に女王は更にツッコミを入れようとして、しかし断念した。

 女王もここ一月の間の激務で疲れが出たのか、ネブラスカの目の前であくびを見せてしまう。

 扇子で覆い隠したがときすでに遅し、ネブラスカはしっかりと女王の挙動を見据えている。いや、彼が女王の些細な変化を見逃すはずもないのだが。


「陛下、やはり室を用意させましょう。応対だけならば私一人でも」

「ふん、寄る年波には勝てぬの。最近眠くて敵わん」

「何を仰いますやら、私にとって陛下はいつでも若き日のまま。美しい姿のままにございますぞ!」

「過去の事ばかり見おって、少しは先の事も考えよ。若く容姿を保ったとしても、死に顔は皆、老いさらばえて醜いものじゃ。わらわとて同じ末路を辿るのえ」

「何を仰いますか……! たとえそうだとしても、私の愛はまったく変わりませんぞ!! むしろ年々濃く厚くッ!!」

「……ぬしはのう。死に際まで、しぶとくありのままなのじゃろうなぁ……」


 呆れ口調で女王は苦笑する。眠気が最高潮にまで達し、精神的にもかなり高揚しているのだろう。

 普段は滅多に見せない柔らかな表情に、ネブラスカはポッと頬を赤らめながらも、女王を休ませるため侍女を呼び立てた。

 しかし侍女と入れ替わるようにして、仕えの者が客の来訪を告げる。


「陛下、魔王領の方がお見えです。如何なされますか」

「うむ。すぐにここに通せ」


 臣下の声に女王はすぐさま意識を切り替えると、客人を室に迎えた。

 そうして石碑の間に入ってきたのは一人の男。

 金色の眼と同じ色の髪を持つ男は、女王を前に尻込みもせず、その長身を折り優雅な仕草で礼を取る。


「お初にお目にかかります、サフィーア女王陛下。魔王領所属宰相補佐・バーガンディにございます。以後お見知りおきを」


 そして周囲の重苦しい雰囲気を蹴散らすように、男は陽気な顔で微笑んでいた。

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