第9話 金貨九十枚。元魔王は、まだ値段に不満がある
翌朝、伯爵は自分の椅子へ座れなくなった。
代わりに座っているのは、この地方を巡回していた監察官だ。ガルドが商会の件で呼び、途中で報告を何度も追加したらしい。
俺たちは壁際で、帳面が開かれるのを見ていた。
「部下の判断だ。私は、細かい現場までは――」
「押印は閣下のものですね」
伯爵は言葉を止めた。
新しい頁が出る。別の印。別の運搬人の証言。
俺へ金を渡そうとしていたときより、ずいぶん口数が減っていた。
ローズ宛ての回収依頼も、本人へ示された。
首輪を封緘状態のまま王都へ送る。中身に触れず、破損を避ける。
彼女がどこへ行きたいかを書く欄は、やはりなかった。
「この『中身』とは、我のことか」
「首輪の内部を指す書き方ね。何を入れているかは、書いてないけど」
リゼが言うと、ローズは黒い輪へ触れた。
伯爵に尋ねても、依頼元の顔は知らないという。商会の記録と、指定先の照会を続けることになった。
俺は、その場で首輪を割ろうとしなくてよかったと思った。
何かを入れた輪と、何も入っていない輪では、切ったあとに起きることが違う。
……それにしても、首へつける前に説明しないのか。
ローズは、それを何年も知らずに持たされていたらしい。
◆
伯爵の権限は止められ、関係する財産は押さえられた。
本人は王都へ移送し、裁きを受ける。屋敷の家紋には布がかかり、金庫の鍵は監察官へ渡った。
「私を誰だと思っている!」
男が叫ぶと、ローズは足を止めた。
答えるのかと思ったが、口を開いたのは書記だった。
「氏名と爵位は確認しています。どうぞ馬車へ」
伯爵は黙った。
そうか、名前を知らないから聞いたわけではなかったのか。俺が返事をしても、たぶん同じことになっていた。
隣でリゼが、少しだけ口元を緩めた。
馬車の前には、被害を受けた人たちがいた。
十一人を閉じ込めた倉庫。四人を閉じ込めた地下。街道へ捨てられた獣。
それぞれ別の書類と証言が、同じ名へ集まっている。
伯爵は俺を見つけ、最後に言った。
「お前のことは忘れんぞ」
「呼ばれたら、俺も来る。まだ聞くことが残ってる」
馬車の戸が閉まった。
ローズが、少し遅れてこちらを見た。
「汝は、ああいう返事だけは得意であるな」
「何か、間違えたか」
「いや。あの顔なら、しばらく忘れられまい」
◆
ギルドで、金貨九十枚を受け取った。
魔獣の緊急討伐と町の防衛で六十枚。捜査と救出への功労金が三十枚。
被害者へ払う金とは別だと、ガルドは先に説明した。
「一人、三十枚だな」
俺が分け始めると、ローズが真剣な顔で袋へ手を入れた。
重さを確かめ、三枚だけ外へ出す。
「これだけあれば、我の価格も訂正できよう」
「もう売らないぞ」
「売り直せとは言っておらぬ! あの競売台で笑った連中へ、相応の数字を示したいだけだ!」
リゼは、金貨をもう一度数えた。
俺たちが言い合っているあいだも、数は増減していなかった。
「値段はいいから、袋の口を閉じて。落としたら探すの大変よ」
ローズは従った。
今のところ、彼女を動かすには命令より金貨の話が早いらしい。手帳には、まだ書かないでおいた。
もう一つ渡されたのは、A級の札だった。
竜を倒し、町を守った実績で昇格を認めるという。
「勇者だったことの証明にも、なるか」
「それは別の照合が要る。こっちは、この町で見たお前の仕事で出す札だ」
ガルドは古い札を引き取り、新しいものを俺の前へ置いた。
ローズが横から覗く。
「次は我の分だな」
「本人の登録は、王都でもできます」
職員が答えた。
ローズは俺の札を見て、上の余白を指した。職員が困ったので、俺は先にしまった。
◆
昼は、保護所へ寄った。
普通の首輪は、十一人とも外し終えていた。カイルが俺の名を呼び、今度は走る前に器を机へ置いた。
水をこぼさずに済み、本人も少し得意そうだった。
リゼは別の卓で、自分が署名した書類を並べた。
問いに答え、謝り、また別の名を確かめる。すぐ許す者ばかりではない。彼女は最後まで座り、今後の連絡先をギルドへ残した。
出てきたときには、眼鏡を外していた。
「すぐ王都へ行ける?」
ローズが聞くと、リゼは一度だけ首を振った。
「少し、座りたい」
俺たちは露店の椅子を三つ借りた。
ローズは温かい飲み物を買い、一つをリゼの前へ置く。値段を尋ねられる前に、我の分を買ったついでだと付け足した。
俺の前にも、一つ来た。
どうやら、ついでの範囲は広いらしい。
帰り道、ローズが足を止めた。
店の窓で、小さな犬が寝ていた。片耳が折れ、前足へ鼻を埋めている。
「欲しいのか」
「我が民に、不足はない」
「そうか」
俺が歩き始めると、後ろの足音がついてこなかった。
振り返ると、犬が目を開けていた。ローズは窓へ少し屈み、俺を見て姿勢を戻す。
「……こやつ、警戒心が足りぬ。侵入者の前で寝るとは」
「店の中だから、大丈夫だろう」
リゼが、先へ行って待とうと言った。
その理由は、あとで教えてくれるらしい。
◆
出発は、翌朝と決まった。
道が開き、乗合馬車も動き始める。俺たちは先に食料を買い、王都で家を探す窓口も教えてもらった。
リゼは机が欲しいと言った。ローズは窓のある部屋がいいという。
俺には、まだ思いつくものが少なかった。
「とりあえず、椅子が三つあればいい」
「部屋より先に椅子か」
「今日、借りたときに揃っていたから」
ローズは少し考え、窓の話の下へ、椅子を三つと書き足した。
「寝台は、別々よ。私、夜中まで道具を広げることがあるから」
「我の部屋の隣で、槌は使うなよ」
「あなたの寝る時間はいつなの」
「我が眠くなったときだ」
……それは、先に知らせてもらわないと困るな。
俺は庭のある家を探そうと提案した。リゼが、確かに離れた作業場も欲しいと言ったので、探す条件がまた一つ増えた。
門では、監察官の部下が待っていた。
ハンナの所在を、王都で確認したという。先に送った照会へ返事があり、本人も会う用意をしているらしい。
「向こうの馬車へ乗る必要はありません。生存しているあなたの事情は、回収依頼とは別です」
俺は新しい札を服へ入れた。
ローズが左へ立ち、リゼが俺の荷を馬車へ載せる。
「では、伝えてくれ。着いたら、こちらの居場所を知らせる」
手帳の質問を、もう一度確かめた。
理由を聞く。首輪についても答えてもらう。
「会いたいなら、今度は依頼主のほうから来い」




