第8話 伯爵さま、逃げ道はもうない
丘の上には、まだ五十人も残っていた。
……泊まった宿へ十二人を送って、それでもこれだけいるのか。ずいぶん人を雇っているらしい。その給金を、先に商会の鑑定士へ払えばよかったのに。
弩を持つ者が塀の上に立ち、門の前には長槍と大盾。昨夜の十二人が帰らなかった理由を、もう知っている配置だった。
二階の煙突から、黒い煙が流れている。あの下で何を燃やしているにせよ、門の前で言い合っている時間はなかった。
ガルドは衛兵隊長と前へ出た。
「住民への襲撃と魔獣の放棄について、事情を聞く。運搬人四人を出せ。帳簿の保全にも立ち会わせろ」
門の上から、男が答えた。
「伯爵閣下は、お会いにならない」
白い鎧を着た、大柄な騎士だった。
両手剣を塀の内側へ向けて下ろし、俺を見ていた。
「そいつだけ置いていけ。偽勇者の身柄と引き換えなら、考えてやるそうだ」
ガルドが、低く息を吐いた。
「白刃のヴォルクか。王都の武闘会で、決勝まで行った男だ」
「それなら、話は早い」
俺は前へ出た。
ローズが一度だけ上着の袖を引き、離した。
「我らがここへ来た目的を忘れるな。武勲だけを土産に帰るつもりはないぞ」
「人を出す。帳簿を残す。そのあとで、勘定だ」
リゼが、眼鏡を押し上げた。
「そっちは任せて。門が開けば、屋敷で働いてる人から場所を聞けるわ」
二人は、俺の後ろへ隠れなかった。
ガルドと衛兵のそばへ移り、入る準備を始めていた。
◆
矢が放たれた。
俺は、槍の届く距離まで一息で走った。低い盾の端をつかみ、塀の上から来る矢へ向ける。
木に鏃が食い込んだ。
盾の持ち主を脇へ避け、柄を握る腕へ剣の峰を当てる。盾列の中へ入ると、長槍は振り回せなくなった。
「離れろ! 列を――」
門の錠前を斬った。
扉を内側へ押す。後ろで待っていた兵が散り、入口に隙間ができた。
「今だ!」
ガルドの声で、衛兵が動いた。
抵抗する者だけを押さえ、武器を捨てた者は端へ寄せている。俺は中庭へ進み、門をくぐる衛兵へ弩を向けていた射手の足場を、一つずつ取った。
空の矢筒が、石の上へ落ちた。
その音の向こうで、白い鎧が階段を降りてきた。
「なるほど。竜も倒せるわけだ」
ヴォルクは笑っていた。
相手が自分より弱いと思っている笑いではなかった。久しぶりに、強い相手を見つけた顔だった。
「その力で、貴族に飼われるほうが楽だぞ。金も女も、好きに選べる」
「金は、昨日稼いだ。仲間も、いま後ろにいる」
騎士の視線が、玄関へ進もうとする二人へ向いた。俺はその間へ立ち、剣先を下げたまま続けた。
「お前の主人に、選んでもらうものはない」
「あの首輪つきと、帳面持ちか」
俺は剣を持ち直した。
「名前は、ローズとリゼだ。呼ぶなら、そっちで覚えろ」
ヴォルクの剣が動いた。
長い刃が、低い位置から跳ね上がる。俺は半歩退いて外した。だが、戻りの刃がもう胸の高さへ来ていた。
速い。
重さを腕だけで止めず、踏み込みと身体の回転で次へつないでいる。
俺は剣を合わせた。
火花が散った。
足元の石が、二人の重さで鳴った。
「受けたな」
騎士が歯を見せた。
押し切るつもりで、両腕へ力が入る。
俺は刃の角度を変え、相手の剣を外へ流した。
空いた胸へ、柄を打ち込む。
ヴォルクが三歩下がった。
白い胸当てに、四角い跡がついていた。
ヴォルクは、胸を見ずに俺を見た。
玄関を塞ぐ角度へ、足を置き直す。なるほど、勝つより、ここで止める仕事なのか。
二階から煙が漏れた。付き合う時間は、もうなかった。
「地下の四人を出す。そこを空けろ」
騎士が剣を振り上げた。
俺は内側へ踏み込み、鍔に近いところへ刃を合わせる。足から肩まで力を通すと、太い剣身が根元で折れた。
残った柄へ鞘を当て、足を払った。
白い鎧が、膝をつく。俺は折れた剣を遠くへ蹴った。
「もう一度、聞く。中にいる人はどこだ」
騎士は答えなかった。
だが、後ろにいた兵の一人が武器を下ろし、屋敷の横手を指さした。
◆
玄関から、使用人が走り出てきた。
鍵を握った女が、衛兵に何度も頭を下げている。ローズとリゼがそのそばへ行き、短く話を聞いた。
「地下の入口は厨房の奥。私たちはそちらへ行く」
リゼが俺に言った。
「衛兵二人も一緒よ。無理なら引き返す」
「頼む」
俺がうなずくと、ローズもこちらを見た。
「汝はあの男の退路を断て。偽りを紡ぐ舌に付き合って、逃がすでないぞ」
彼女は女から鍵を受け取り、屋敷へ入っていった。
俺は、正面の階段を上がった。
二階の執務室では、紙の焦げる匂いがしていた。
恰幅のいい男が、暖炉の前で振り返った。胸には金の飾り。指には、大きな印章のついた指輪。
ヴァルゼン伯爵だった。
「勝手に入るな!」
男が椅子の横の紐を引こうとした。
俺は剣の鞘でその手を止め、背後の窓を開けた。煙が外へ流れる。
暖炉の前には、書類箱が一つ置かれていた。中身を捨てようとしていたらしく、蓋が半分開いている。
俺は箱を持ち上げ、扉のそばへ移した。
主人から借りた上着は燃やすなと言われたが、こいつは自分の帳面を燃やすのか。金持ちの片づけ方は、どうも難しい。
「それは私の財産だぞ」
「燃やすと、減るだろう」
「そういう話ではない!」
「燃やすつもりだったんだろう」
「お前に何がわかる! あの商会も、魔獣も、私がこの町を回すために――」
男の足元へ、昨夜の押収令と獣檻の受領票を順に置いた。
伯爵の口が止まった。
「返してほしいものを、自分で頼みに来いと言った。人に剣を持たせて来るなとは、伝わらなかったのか」
伯爵は扉のほうを見た。
その向こうから、ガルドと衛兵隊長が入ってきた。
「伯爵閣下。屋敷の武装を解除させています。運搬人も、今、確認します」
階下から、人の声が上がった。
窓越しに中庭が見えた。ローズが、痩せた男へ肩を貸していた。リゼが人数を数え、四人そろったところで、衛兵へうなずいた。
俺が見ているのに気づくと、ローズが手を上げた。
俺も、手を上げ返した。
運搬人の一人が、二階の窓へ顔を向けた。
縛られていた跡が、手首に赤く残っている。男は伯爵の顔を見つけると、何かを叫びかけ、唇を噛んだ。
ローズが男のそばへ立った。代わりに怒鳴るのではなく、倒れないよう肘を支えた。
男はその手を借り、衛兵のところへ歩いていった。
男がここで言い逃れを続ける間にも、言葉を持って出てくる人が増えていた。
俺は窓から離れ、もう一度、男の前へ立った。
◆
「条件を、話そう」
伯爵の声が変わった。
怒鳴るのをやめ、椅子へ座ろうとする。衛兵に止められると、今度は俺だけを見た。
「欲しいものを言え。地位でも、商会でも、用意してやる」
俺は、いったん階下を見た。
四人が出た。書類も、まだ箱へ残っている。頼まれた二つは済んでいた。
「まず、この窓から逃げないでくれ。次に、衛兵の質問へ答えてくれ」
「お前自身の望みを聞いている!」
あれ、今のでは違うのか。
リゼが箱を調べに来た。背後から、彼女の鞄へ手を伸ばした伯爵の指が止まる。
「鑑定士だな。私が雇えば、その何倍も――」
「先に、いま雇っている人の給金を払って。未払いが四か月。厨房と厩舎、別々の帳面なのに、どちらにも同じ遅れがある」
リゼは頁を二つ開き、男の前へ並べた。
ローズが、救出した者を衛兵へ預けて上がってくる。
「我にも札をつけたかったそうだな。では、今度は汝の順番だ。この者に、よく値を見てもらえ」
伯爵は、金の話をやめた。
ようやく別の話ができるかと思ったら、今度は身分の話を始めた。
伯爵は、自分の印章指輪を握り締めた。
「私は領主だぞ。縄をかけて済む相手ではない」
ガルドが、表から届いたばかりの封書を開いた。
赤い封蝋の上に、王家の紋章があった。
「商会の件で呼んだ巡回の監察官が、明朝ここへ入る。閣下のお立場も、その方に説明してもらおう」
伯爵の指から、印章が落ちた。拾おうとした手を、衛兵が押さえる。
さっきまでは、命じれば誰かが動いていた。今は、指輪を拾わせようとしても動かない。
……ああ、ようやく話が通じる場所になったらしい。俺は扉の前から、質問を聞ける距離へ戻った。
「質問には、答えてくれ。まだ聞き終わってない」
窓の外では、門から王家の旗を持つ先触れが入ってくるところだった。リゼが証拠の箱を確かめ、帳面を一冊ずつ数えている。その指は、もう震えていなかった。
その手が、箱の底にあった薄い封筒で止まった。
「デルタ。これ……」
彼女は封筒を衛兵へ見せてから、俺に向けた。
表には、見慣れた名前が書かれていた。
『回収対象 ローズマリー』
伯爵が手を伸ばしかけた。俺はその前へ立った。
「その名前を、誰から聞いた」




