第27話 助けを呼ぶ声は、返事をしなかった
霧の中では、声が近く聞こえた。
助けてくれ、という呼びかけが、左の通路から届く。俺が灯りを向けると、同じ声が右からも響いた。
誰かが、同じ間隔で息を吸っていた。
「動くな」
俺は、三人へ言った。
灯りを下げ、足元を見る。左の床には砂が積もり、右の床には新しい靴跡がある。だが、どちらの声も、同じ場所で喉を鳴らした。
……今の咳まで、同じなのか。
俺は足を止めた。二人が偶然同じように喋ったにしては、息を継ぐ場所まで揃いすぎている。
「入口の返事と、同じ石なの?」
イリスが小声で聞いた。
リゼは、壁へ手をつかず、灯りだけを近づけた。
「似てる。継ぎ目に、音を出すものがある。先に、どっちも聞いて」
小さな青い石が見えた。
同じものは、入口の声を出した場所にもあった。助けてくれ、のあとに短い咳が入る。右も左も、同じところで同じ長さだった。
俺は壁を三度叩いた。声は返事をせず、最初から同じ文を繰り返す。
リゼが採取用の厚布を当てると、片方だけが小さくなった。
「止められるか」
「覆えば、聞こえにくくできる。全部壊して歩くより、そのほうが戻るときも場所がわかるわ」
俺たちは布を巻き、壁の下へ白い印を残した。
音は、少し遠くなった。
◆
次に聞こえたのは、祈りの声だった。
勇者の務め。剣を置くこと。疑いを捨て、与えられた安息を受け入れること。
足が止まった。霧の下へ、白い床の記憶が重なる。
声は、俺の名前を呼ばなかった。
ただ、勇者へ語り続けていた。ここへ誰が来ても、同じことを言うように。
剣を置け、という順番まで、覚えている夜に似ていた。俺は柄から手を離さず、聞こえた文をリゼへ復唱した。
彼女は音石の位置と一緒に書き留めた。昔の勇者へ流した案内が残っているなら、あとで比べられる。
ローズが、隣へ来た。
「汝には、戻ったら薪を買う用事がある」
俺は彼女を見た。
「急に、何だ」
「帰りに忘れそうなので、今のうちに告げておく。持つなとは言ったが、買うなとは言っておらぬ」
リゼが、俺の持つ縄を軽く引いた。
「棚の裏へ、小さな隙間があったの。帰ったら見てもらいたい。道具が落ちる前に」
俺は、二人の顔を見た。
廊下の声は、まだ安息について語っていた。俺たちが何を答えても、同じ文へ戻る声だった。
薪は二本で足りるかと聞くと、ローズは束で二つだと訂正した。俺の返事を聞いて、言葉を変えた。
壁の声は、俺が何を言っても変わらない。
足元を見る。白い床ではなく、霧に濡れた石だ。ここには俺を待つ人がいて、外には帰る家がある。
「わかった。先に、八人だな」
ローズが、当然だとうなずいた。
俺は灯りを持ち直し、通路へ進んだ。
◆
霧は、床の穴から吹き上がっていた。
冷たい水気に、細かな白い粉が混じっていた。イリスは全員へ布を渡したが、これで何でも防げるわけではないと先に告げた。咳や目の痛みが出たら、入口へ戻る。
壁の送気口には古い乾燥剤の印があり、霧は割れた冷却管の近くほど濃かった。火を近づけて試すことはせず、灯りは持参した小石だけを使った。
俺たちは立ち止まる回数を減らし、交代で通路の先を確かめた。
曲がり角では、進んだ距離より、戻ったとき何が見えるかを残した。リゼが白い印を低い位置へつけ、ローズが少し離れて見えるか確かめる。
入口までの距離を、縄の結び目でも数えた。戻るとき、声が聞こえる方向へ曲がらずに済む。
俺は後ろの足音を聞き、縄が強く引かれる前に歩幅を合わせた。先頭だけが速く進んでも、全員で戻る道は作れなかった。
石の継ぎ目が、途中から変わった。
古い礼拝堂の石積みの下に、黒く磨いた床が続いている。柱も細くなり、壁の飾りは祈る人の姿から、横たわる人の形へ変わった。
ローズが、眉をひそめた。
「墓の飾りにしては、道具が多いな」
壁の像には、剣ではなく、小さな刃物や金属の輪が彫られていた。
エッダの工房で見たものに、少し似ていた。
俺は、先のほうへ灯りを向けた。
金属を叩く音が、またした。
今度は、一度鳴ったあとで、間隔が変わった。
俺は柄で壁を二度叩いた。
向こうから、二度返った。
「こっちだ」
俺は右の扉へ近づいた。
リゼが床を確かめ、落ちた天井石の位置へ印をつける。扉を押し破れば、その上の石が内側へ落ちる配置だった。
俺は横の板を外し、人の顔が見える隙間を作った。
中から、泥のついた指が伸びた。
灯りに目を細める男がいた。
「……本当に、人か」
俺は、名を名乗った。
「ギルドの救援だ。何人いる」
男の唇が震えた。
「ここは、二人。隊長たちは奥。六人いる。扉の向こうを、何かが歩いていて……」
イリスが、俺の横へ膝をついた。
喋るのを急がせず、水を少しだけ渡す。もう一人は、脚を動かせず横になっていた。
俺は、これから上の石を持ち上げると告げた。
「扉から、できるだけ離れてくれ。こっちが呼ぶまで、近づくな」
男は、何度もうなずいた。
ローズが灯りを受け取り、俺の足元を照らした。
◆
石は、想像より深く噛んでいた。
引けば天井の残りを巻き込む。俺は両手を差し入れ、持ち上げる方向を少しずつ変えた。肩の傷は閉じていたが、無理な角度へは回さなかった。
リゼが楔を入れ、ローズが隙間の広さを見ていた。
人を出せるところまで上げたところで、俺は止まった。
「今だ」
イリスが、歩ける男を先に出した。
もう一人は、木の板へ載せて滑らせる。床を擦るたび顔をしかめたので、途中で止め、固定する位置を変えてから動かした。
速く運べることと、痛ませず運べることは違う。
『雷翼鳥』を支えた左腕が、今度は天井の石を支えていた。
二人が離れたあと、俺は石を元の位置へゆっくり下ろした。
崩れる音はしなかった。
男が、何度も頭を下げた。
「動けるなら、この図を見てくれ。隊長たちはどこだ」
男は、水を飲んでから地図へ指を置いた。
咳を聞き、俺は顔を上げた。通路で繰り返していた声と同じだった。
「壁の石へ、助けを呼んだか」
「ああ。呼び出しの印があったから、そこへ叫んだ。ほかの通路からも同じ声が返って、止め方もわからなくて」
生きている者の声を、石が繰り返していた。呼び声のあった場所に、今も本人がいるとは限らなかった。リゼは地図へ、音石の位置も足した。
指先が震え、同じ角を二度指した。俺は、どちらでもいいとは言わず、曲がったあとに何が見えたかを尋ねた。
壁の獅子、床の低い段差、割れた灯り。男が一つずつ思い出すたび、リゼが地図へ足した。
「全部、覚えてなくて悪い」
男が言った。
「ここまでわかれば、行ける。あとは、こっちでも見る。お前の名前も聞かせてくれ」
「ヨハン。あっちは、ミーナだ」
俺が答えると、指が紙の上へ置かれた。握り締めていなくても、地図から場所が消えないとわかったようだった。
広い部屋、その手前の通路。通り抜けようとしたとき、大きな獣が動いたので、二つに分かれたという。
奥の六人は、石の扉を閉めて中へ残った。
「食料はある。けど、薬が切れた。隊長も、腕をやられてる」
イリスが顔を上げた。
俺は、残る薬の箱を見た。持ってきてよかったと、今ならはっきり言えた。
◆
休める部屋を、一つ確保した。
正門の内側にある部屋だった。固定した扉から外気が入り、霧が薄い。イリスが二人の状態を見て、入口の現地隊へ声をかけた。
彼女は応急の処置をして、横になったミーナを先に担架へ載せた。ヨハンも付き添って詰所へ下りる。イリスは現地隊へ水と薬を引き継ぎ、俺たちのいる部屋へ戻ってくることになった。
奥で診るための荷を置き、俺たちは三人で先へ向かった。
ヨハンは出発する前、曲がり角の先にある壁の模様を指した。赤い斜線が、獣の通る範囲の印らしい。
「それと、奥の扉は内開きだ。中の六人は、獣が戻るたび押さえてる。開けるなら、隊長に声をかけてからにしてくれ」
俺は礼を言い、声を出す筒の受け口を閉じた。戦いながら返事を求めるつもりはなかった。
壁の下に、古い爪の跡があった。
一つずつの溝が、人の指より太い。新しい傷も混じっている。何かが長く同じ場所を歩き、最近また壁へ爪を立てたらしかった。
ローズがしゃがみ、床の毛を拾った。
黒い毛に、硬い鱗の欠片が混じっていた。
「一匹の獣のものか、これ」
俺が聞くと、彼女はすぐには答えなかった。
「この毛と鱗は、我の知る限り、同じ獣のものではない。そちらへ灯りを寄せよ」
廊下の向こうで、低い音がした。
床から伝わる、重い呼吸だった。
リゼが、灯りへ覆いをかけた。
暗くなった通路の先に、赤いものが二つ見えた。
目だとわかったとき、その横で、もう二つが開いた。




