第24話 最強の腕力で、患者を支える
「傷へ触れないで。翼の根元を、今の角度で保って」
イリスは、俺へそう言った。
金属の鉤を、無理に抜こうとはしなかった。細い器具を傷の隙間へ入れ、どちらへ返しが開いているかを探る。
『雷翼鳥』の呼吸が、また速くなった。
俺は背を少し丸め、胸の動きを妨げないようにした。
「俺は、どこを動かしていい」
「脚なら、半歩。胸を支えたまま、右の翼が床へ落ちないように」
指示どおりに動くと、左腕へかかる重さが少し減った。
イリスは、同じことを二度確かめた。一度目は俺の腕の位置、二度目は鳥の胸が十分に広がっているかだった。
足を変えようとして、イリスの器具が傷の中にあるのを見た。俺には半歩でも、あの先は同じだけ動く。
黙って踏み替えるのをやめ、先に声をかけた。
右肩を捻らない位置へ、足を少し開いた。腕だけで一羽ぶんを持つのでなく、鳥が自分の脚へ載せられない重さを、背と腰で受けていた。
ブライトが、入口へ下がろうとした。
リゼが呼び止めた。
「使った薬を見せて。診療の担当が、種類も量も確かめられないのは困るわ」
「俺の道具だ。勝手に――」
「依頼主の騎獣院へ、確認してもらう。ここで私へ渡すのが嫌なら、職員を呼ぶまで待って」
男は、扉の向こうを見た。
作業員が二人、入口に残っていた。雷を逃がす設備を直した男も、そこにいた。
ブライトは、鞭を持つ手を下げた。
俺は、そのやり取りから目を戻した。
今は、動かしてはいけない翼があった。
「その筒も、薬包と一緒に確認してもらってくれ」
俺が告げると、リゼはうなずいた。ブライトは道具入れを外しかけたまま、職員が来るまで動かせなくなった。
◆
最初の鉤が、外れた。
イリスは布へ置き、灯りの下へ動かした。細い返しが三つ、矢の軸から逆向きに開いている。傷の中で閉じさせてから、少しずつ抜いたらしかった。
俺は息を吐いた。
「終わったか」
「もう一本ある。羽根で隠れてた」
鳥の嘴が、俺の頭へ下がった。
今度は髪をつつかず、硬い側面が軽く触れた。重さを載せたいのかと思って、そのままにした。
ローズが、その顔を見上げた。
「名はあるのか」
イリスが答えた。
「アルバ。呼ぶと、普段ならこっちを見る」
「アルバか。よい名だな。我を見よ、アルバ」
鳥は、俺の頭へ嘴を載せたままだった。ローズが一歩横へずれ、もう一度呼ぶ。
「……いまは、そちらを見ておるのであろう。落ち着いたら改めて名乗ってやる」
いや、俺もまだ名乗ったわけではないんだが。そこは、言わないでおいた。
俺は、首の白い羽根を見た。
「アルバ。もう少しだ」
名前を呼んでも、何か特別なことが起きたわけではなかった。
だが、嘴がわずかに動いた。俺の肩の包帯へ触れかけ、そこで止まる。
ローズが、顔を横から覗き込んだ。
「汝も痛むか。こちらの男も、昨日、少々しくじった。傷へ遠慮のない者ではないぞ」
「説明に余計なことが入ってないか」
「我の監督記録は正確である」
イリスが、手を止めずに少し笑った。
「そのまま話していて。怖がっているときより、呼吸が揃ってきた」
イリスの器具が動くたび、俺は先に呼吸を数えた。人のときより胸の動きが大きく、どこまで力が入っているのか、慣れないうちは見分けにくい。
ローズが横から、今は脚が緩んだと教えてくれた。彼女は顔ではなく、床をつかむ爪を見ていた。
俺にも見えるよう、次に緩んだとき指で示してくれる。その変化を一度覚えると、支え直すタイミングがわかった。
爪が床を離れる前に、俺が沈む。イリスの手元へ、揺れが届かなくなった。
俺は、次に何を話すべきか考えた。
竜を投げた話は、鳥にも聞かせないほうがよさそうだ。
怖がらせるなという仕事の、どこかに引っかかる気がする。
だから、今朝パンを焦がした話をした。
ローズが、そこは忘れてよいと言った。
◆
二本目の鉤は、途中で折れていた。
イリスは一度手を引き、傷へ別の薬を入れた。羽根の下へ、苦い匂いが広がる。
アルバの脚へ力が入った。
俺は、その身体を持ち上げず、床へ押さえつけず、傾くぶんだけ支えた。
人間が持てる重さではないものを、長く、動かさずに受け止める。
雷より静かな仕事だった。
「指が、痺れてない?」
イリスが尋ねた。
俺は、左手の感覚を確かめた。
「まだ、わかる」
「わからなくなったら言って。あんたの怪我も、今日の仕事に数えてる」
俺は、わかったと答えた。
左の小指を一度曲げ、戻した。翼に隠れて見えないので、動くと声でも伝える。
イリスは俺の返事を聞いてから、最後の器具を傷へ入れた。
イリスの器具が、もう一度動いた。
金属の端が、羽根の間から出てくる。
アルバの胸が大きく上下した。
俺は膝を深く曲げ、重さが落ちる先へ身体を入れた。
「抜けた」
女が言った。
小さな金属片が、布へ置かれた。
手のひらに二つ並ぶ程度のものが、あの巨体を、餌も食べられないほど苦しめていた。
「あと、傷を洗う。閉じる前に、残った薬も流さないと」
まだ、終わりではなかった。
俺は、左手の位置を少し変えた。
「続けてくれ」
イリスが、短くうなずいた。
◆
昼を過ぎるころ、アルバは自分の脚で立てるようになった。
羽根の下には薬を染み込ませた当て布が入り、伸びすぎないよう、柔らかな帯で翼を支えている。
最後まで残していた後ろの鎖も、外れた。動きの限られた翼を守るため、職員が床へ滑りにくい敷物を広げた。
「このあと、療養棟へ移す。こちらにも『導雷床』があるから、必ずつないでおいて。餌は普段のものへ、薬は私が管理する」
イリスは、戻ってきた騎獣院の責任者へ告げた。
男は鉤と薬包を見て、顔を曇らせた。
責任者は男の道具入れから、未使用の鉤を取り出した。回収したものと返しの位置が同じだった。
ブライトが、急に大きな声を出した。
「俺が暴走を抑えていたんだ! あのまま人を襲えば、誰の責任になる!」
「痛む翼へ鉤を残したことと、薬の量を隠したことを、順番に聞かせてほしい」
責任者は、男を隣室へ案内した。
作業員二人も、一緒に行った。リゼは確認した記録を渡し、自分の推測は書き込まなかった。
俺は、手を洗おうとして、指を握るのに時間がかかった。
「痺れた」
そう言うと、イリスがすぐこちらを向いた。
「今?」
「ああ。動かすと少し遅れる」
「わかった。治療が要るほどか、座って見せて」
ローズが椅子を引いた。
俺は素直に座った。叱られると思ったが、彼女は、今度は言えたなとだけ答えた。
イリスが指を順に動かし、血が戻るのを確かめる。無理に揉む必要はないと言われたので、そのまま待った。
「強い手ね。でも、使うなら休ませることも覚えて」
女が、俺の手を離した。
ローズが横から、休ませるほうは我も覚えると言った。
……監督が、増えたな。
ローズだけでも声がよく通るのに、薬師まで同じ側へついたらしい。俺は、指を動かす前に、今は動かしていいのか確認した。
◆
移送する先は、運動場の隣の療養棟だった。人と道具を先に退け、翼を広げずに通れる道を選ぶ。イリスが餌の皿を持って前へ立ち、俺はアルバの傷のない側をゆっくり歩いた。
途中で止まれば、こちらも止まる。羽根が壁へ触れそうなところだけ、柔らかな布を当てた。引っ張って進ませる必要はなかった。
療養棟の扉を通り、イリスが敷物の位置へ導く。職員が到着を確かめてから、俺たちは道具を片づけた。
帰る前に、アルバが入口まで歩いてきた。
作業員たちが少し身構えたが、イリスは道を空けただけだった。
白い頭が下がり、俺の胸へ触れた。
今度は、はっきり体重がかかった。
「まだ、支えるのか」
俺が呟くと、イリスが笑った。
「もう、あんたがいなくても立てる。お礼じゃないかな」
俺は左手で、首の横へ触れた。
柔らかな羽根だった。雷も、嘴も、今は静かだった。
その羽根の間に、古い紐の跡があった。
リゼが目を細め、首の後ろへ残る小さな札を見つけた。
「これ、騎獣院の登録札じゃないわね」
イリスが、ああ、と声を落とした。
「北境の調査から、これをつけて戻ってきたの。一緒に行った人たちの一部は、まだ帰ってない」
「この鉤も、北境でついたのか」
「いいえ。帰還時の診察では、なかった。翌日、ブライトが飛行訓練をしてから右の翼を下げた。あの人は、私が近づくと暴れるから診療を待てと言い続けてた」
イリスは札の紐を切らず、職員に写しを頼んだ。鳥が傷つけられた場所と、人が帰れていない場所は、分けて調べる必要があった。
札には、傷の多い古い文字があった。
勇者霊廟。
その下に、帰還した調査員が刻んだらしい、新しい印が並んでいた。




