第20話 神の権限より、俺の返事を聞け
白い壁が、背中の布を焼いた。
リゼは病棟の扉へ半身を残し、誰かへ元の装置につなぎ直してと叫んでいる。
俺は扉の枠へ右足をかけ、左肩で板を受け直した。ここを塞げば、まだ中にいる一人を運び出せなくなる。
「まだだ、デルタ!」
ローズの声がした。
窓の向こうで、赤い髪が低く沈む。
「石ではない。つなぐ金具が欠けておる! リゼ、汝の袋に細い線はないか!」
「ある。そこの端、押さえて。私が巻く」
祭壇の下で、ベルナードが身をよじった。手首をつないだ帯はほどけず、杖も外の通路に転がったままだった。
「お前が止めれば、治療も失われるぞ!」
ベルナードを捕まえても、石から壁へ送られる力は止まっていない。その同じ石が、最後の患者を支えている。
まだ切れない。俺は返事をするぶんの息を、次の呼吸へ回した。
師匠が奥で、患者の息を数えている。数が続く間、こっちも扉を残しておく必要があった。
「その指を動かすな、我が押さえている!」
「動かしてるのは、あなたの肘!」
短く言い合う声のあと、小さな鐘が鳴った。
車輪が敷居の内側を通り、最後の寝台が奥の角へ消える。
「移せた。全員、別の石で動いてる!」
リゼが病棟側の柱へ退き、こちらへ手を上げた。ローズが入口に残る職員を下がらせ、師匠も奥から片手を上げる。
扉の前には、もう誰もいなかった。
俺は左肩を引いた。
壁が敷居へ傾く。その下を抜け、祭壇へ踏み込んだ。今度は、後ろへ戻るために足を止める必要がなかった。
『蓄魔石』から分配管へ、白い力が流れている。壁も病棟の灯りも、その一本から出ていた。
二人が、治療のほうを別の石へ移してくれた。
「『断絶』」
刃を、石と分配管のつながりへ通した。
敷居を焦がしていた壁が消え、祭壇も廊下も暗くなる。
病棟の奥には、小さな灯りが八つ残っていた。
ベルナードは外の杖を見た。
四つの石は、もう光っていなかった。
「それは、神より授かった権限だぞ!」
「病棟へ戻せと頼んだ。それが、あんたの返事だった」
俺は入口の衛兵を呼んだ。
彼らが男の腕を確保してから、祭壇へつないだ帯をほどく。立ち上がったベルナードは、名前と役職を怒鳴り続けた。
衛兵は杖を渡さず、その指から管理札を外した。
書記のペンは、油灯が運ばれてくるまで止まり、明かりがつくとまた動き始めた。
◆
治療の椅子は、思ったより狭かった。剣を壁へ立てかけると、師匠に鞘のほうを人へ向けないよう直された。A級の札も、その場では服を留める邪魔にしかならなかった。
俺は札を外し、リゼへ渡した。白い布へ血がつく。何をすればいいか師匠へ聞くと、動くなと返ってきた。
……何もしないのが仕事、という場面が、今日はずいぶん多いな。
だが、立ち上がると針が動くと言われたので、座っておいた。
肩を縫われている間、ローズは黙っていた。
黙ったまま、俺の前で包帯の箱を持っている。
師匠が最後の糸を切ると、箱が卓へ少し強く置かれた。
「いつから、それを怪我と数えぬようになった」
俺は、肩を見た。
「数えてはいた」
「顔を見たとき、ないと言いそうな顔であったぞ」
「それは、まだ言ってない」
「言う前に、我が止めたのだ!」
師匠が、口を押さえて横を向いた。
俺は笑われるようなことを言ったつもりはなかったが、ローズが睨むので黙った。
リゼが、破れた上着を膝へ畳んでいた。
「その手で茶を入れるのは、今日はやめて。あなたの分まで私が持つから」
「ああ。持つと、少し痛い」
二人の肩が、揃って下がった。
その返事でいいらしかった。
治療を受けていた患者の家族が、部屋の入口へ来た。
深く頭を下げられ、俺は座ったまま困った。治療をつなぎ直したのはリゼとローズで、患者を支えたのは師匠たちだと伝えた。
女は、では皆さんにと言って、包みを卓へ置いた。
まだ温かい焼き菓子だった。
「これは受け取っておこう」
ローズが即答した。
俺の顔を見てから、包みを自分のほうへ引く。
「全部食うつもりではない。負傷者の供物は、我が監督する」
「食べる前に、数えておいてくれ」
「信用せよ!」
そう言われたので、数だけは先に聞いてから預けた。ローズは、それでもまだ何か言いたそうだった。
リゼが、今度は隠さず笑った。
◆
聖堂の大きな灯りは、戻らなかった。
廊下へ油灯が並び、職員が商工会から届いた予備の石を運び込んでいた。古い供給へ戻すのではなく、当面は一台ずつ、残る力を確かめて使うという。
師匠は包帯を巻き終えると、すぐ病棟へ戻った。
職員への報告はリゼに任せ、俺は袖へ通せない腕を支え直した。
アルドが廊下にいた。何か言おうとする男へ、監察局の係員が次の呼び出しを伝えた。
俺は二人を見送り、ローズたちのいる入口へ向かった。
渡された菓子の包みが軽かった。尋ねると、ローズは皆で分けたと答えた。
「俺の分は」
「最も大きいものを残した。我の監督に落ち度はない」
中には三つ、菓子が並んでいた。一つを渡そうとすると、指先で押し戻される。
「我の分は、すでに受け取った。公平を二度やるでない」
俺は包みを閉じた。
リゼが畳んだ上着を持ってきた。穴の開いたところへ、糸を通せる布がまだ残っているか、ローズが指で確かめる。
「帰ったら、茶を入れてから食べる」
「今日は私が入れるって、さっき言ったでしょう」
リゼに言われ、俺は持ち上げかけた手を下ろした。
ハンナが、仲介所の封筒を持ってきた。
「遺体回収の依頼は、正式に取り消す。各地への通知も出す」
「控えは、家へ届けてくれ」
「首輪の命令の原本も預けた。保管から外した理由は、あの人が拒んだまま」
ハンナは、取り繕うようには笑わなかった。
ローズが、紙を持つ彼女の手を見た。
「その返事も、原本と一緒に置いておけ」
ハンナがうなずき、仲介所へ向かう馬車を呼んだ。
俺はローズとリゼに並び、馬車とは反対の道へ歩き出した。
◆
その夜、エッダの工房へ寄った。
師匠も一緒だった。患者の状態を確かめてからでなければ離れられず、予定より遅くなったが、工房の灯りは残っていた。
エッダは俺の肩の包帯を見て、ため息をついた。
「昨日、壊さずに仕事ができたと褒めたところだったんだけどね」
「今日は、俺のほうが少し壊れた」
「修理の受付が違うだろう。そっちは先生へ回しな」
師匠が、任されていると答えた。
ローズは二人が知り合いのように話すのを見て、話が早いのは助かると言った。
首輪を入れた箱が、作業台へ出された。
検査は、封を開くものではなかった。
筒の表面にある小さな接点へ、聴音用の器具を当てる。『蓄魔石』の力を増やさず、こちらからの呼びかけだけを弱く送る。
手順は、工房へ来るまでに聞いていた。ローズが箱を卓の中央へ寄せると、エッダが工具を取った。
「呼ぶのは、我でよいか」
ローズが尋ねた。
俺は、もちろんと答えた。
彼女は椅子を引き、黒い輪の前へ座った。首元にはもう何もない。それでも、長く身につけていたものへ語りかける声は、少し硬かった。
「我は、ローズマリー。長く、この器を首につけられていた。汝が声を返せるなら、聞かせよ。勝手に封を破るつもりはない」
何も起きなかった。
工房の時計が、何度か音を立てた。
エッダは針の位置を見て、これ以上は出力を上げないと言った。師匠もうなずく。
今日はここまでだろうと、俺は湯の器を持ち直した。
小さな金属音がした。
針が、一度だけ動いた。
俺たちは、誰も工具へ触れていなかった。
「……聞こえる」
声がした。
ローズの指が、卓の縁で止まった。
俺も、動けなかった。工房に置かれた器具の向こうから、ひどくよく知る声が響いていた。
「外にいるのは、誰だ」
俺は、器を置いた。
リゼが俺の口を見て、筒を見た。師匠は工具のほうへ手を出しかけ、出力が変わっていないのを確かめて止まった。
誰も、俺の名前を代わりに答えなかった。
「デルタだ」
俺は言った。今日、記録へそう書いてもらった名だった。家の書類にも、三人で受けた仕事にも、同じ名がある。
筒の向こうで、息を吸うような音がした。
「……俺も、デルタだ」
袖の縫い目へ、ローズの指が触れた。俺はその手を見たが、何を聞けばいいのかは、一つも出てこなかった。




