第16話 首輪を作ったのは、俺の師匠だった
エレノアール。
図面の署名を隠しても、字は変わらなかった。最後の一画を少し跳ねる癖。手帳の表紙の裏と、同じ手だった。
俺に剣を教え、食事の残し方にまで口を出した女だ。
……首輪を作る仕事まで、していたのか。
「どんな師匠なの」
リゼに聞かれ、俺は少し考えた。
わかりやすい出来事なら、いくつか覚えている。
「背を向けると、棒が飛んできた」
「説明は、もう十分よ」
「避けると、次は足元だった」
「汝、いま普通に避ける顔で説明しておるな」
ローズが図面を取った。
窓の風で首元の髪が揺れる。もう金属はないが、襟が触れると一度だけ指を入れた。
「会うぞ。製作した者なら、図面よりわかることがあるだろう」
そのとおりだった。俺は明日の支度をした。
手帳を上着へ戻すと、ローズが表紙を覗く。
「それにも、棒を投げられたときの心得があるのか」
「避けろ、と」
「教える側の暴挙を、紙一枚で片づけるな」
まだ一度も師匠へ会っていないのに、話す前から文句が二つ増えたらしい。
◆
翌朝、ギルドの窓口で名前を出すと、女が頷いた。
「前任の聖女、エレノアール様ですね」
俺は聞き返しかけた。
聖女。師匠。どちらも同じ人なのか。
ローズが、俺の袖を引いた。
「己の墓を見たときより、変な顔をするでない」
「棒を投げる側だと思ってた」
「治す相手を増やす仕事も、兼ねていたのね」
リゼが小さく言った。
俺も、少しだけそれを考えた。だが、怪我をすれば縫われたし、熱を出すと苦いものを飲まされた。思い返せば、治すほうの世話も随分受けている。
どちらも、あまり自分から頼みたい仕事ではなかった。
施療院には、朝から人が並んでいた。
俺たちは面会の窓口へ回り、名を書いた。ローズは待合の椅子へ二度座り直し、結局、窓側へ移った。
俺が背へ当てる布を探すと、先に手を振られる。
「我の尻より、自分の顔を落ち着けよ。剣を合わせに来たのではなかろう」
言われて、俺は少し足の幅を戻した。
身体のほうが、先に稽古へ来たつもりになっていたらしい。
◆
出てきた師匠は、白衣の袖をまくっていた。
杖も飾りもない。腰の道具入れと、指へ残る薬の匂いが、俺の知っているものと同じだった。
足が、一度だけ止まる。
「……帰ったか」
「ああ。墓に入ったままよりは、いいだろう」
「座っていてもよかったのに」
「立ったほうが、避けやすい」
俺の足元を見て、師匠の口元が少し緩んだ。ローズも、そのやり取りでだいたい察したようだ。
図面を差し出すと、師匠の視線が紙からローズの首へ移り、笑いが消えた。話の続きは、中庭に面した小部屋ですることになった。
「この器を監督したのは、私だ」
師匠は、筒の部分だけを指した。
外側の罰の回路と、奴隷用の命令の仕掛けは、自分が納めたものにはないという。
「では、何を入れるための器だった」
「魂を一時的に保つためだ。空の状態で納めた。誰に使われたかは、私には知らされていない」
ハンナが魂を封じ、別の課へ渡したと伝えると、師匠は図面の縁へ指を置いた。
「型が同じでも、これがその筒だとは、まだ決められない。封印番号の照合が要る」
「中から、返事はできるのか」
今度はローズが聞いた。
師匠は彼女を見た。封が保たれ、中のものに応答する力があれば、呼びかける接点はあるという。
「ならば、調べよ。我の首から外れたところで、誰かを入れたままなら気味が悪い」
「工房へ手順を持っていく。検査で力を増やしすぎないよう、先に外を確かめる」
師匠は呼びかける接点へ印をつけ、図面をリゼへ渡した。
指の置かれた接点と、封を保つ線は離れていた。
「返事を聞くために、保存しているものを全部、外へ出すのではない」
俺が接点を見直すと、師匠はうなずいた。通じる道を一本作ることと、中の者を移すことは、違う仕事らしかった。
灯りより弱い力で試す。師匠は図面の接点を丸で囲み、工房へ持っていく手順を書き足した。
廊下で、子どもの泣く声がした。
師匠は一度だけ顔を上げ、係員の話を聞きに出た。薬の包みの色を確かめ、抱かれた子の腕を見て、別の器を取ってもらう。
声が少し静かになってから、部屋へ戻ってきた。
「待たせたな」
師匠は戻るなり、焼き菓子を三つ置いた。俺は受け取り、端へある割れ目を先に探した。
稽古のあとにも出された、やけに固い菓子だった。味より先に、割り方を覚えている。
ローズは前歯を当て、すぐに離した。
「歯も鍛えるつもりか」
「保存が利く」
「尋ねたことに答えておらぬぞ」
師匠は茶を足した。俺が菓子を二つに割ると、ローズは何事もなかったように、小さいほうを取った。
リゼが笑いをこらえ、茶の器を少し遠ざける。
ローズは師匠へ目を戻し、今度は出入口を指した。
「棒を投げる仕事と、いまの仕事は、同じ日にやっていたのか」
「必要なら」
師匠は、特に迷わず答えた。
……なるほど、どちらかに転職したわけではないのか。リゼは紙へ何かを書きかけ、本人を見ると、やめた。
話の途切れ目に、師匠の目が俺の足元へ落ちた。脚を揃えると、ようやく顔へ戻ってくる。こんな場所でも、稽古の癖は抜けないらしい。
今日の師匠は、棒を持っていなかった。
それでも、勝手に手を出す場面ではないのは、よくわかった。
◆
菓子を飲み込んでから、俺は五年前の運用記録を出した。
俺の到着時刻と、空白の退出欄。
師匠のペンが、卓の上へ置かれた。
「アルドに会った」
俺が言うと、師匠は目を閉じなかった。
「俺を殺したと認めた。剣も徽章も返した。口を塞ぐための増設部品が、ここから見つかった」
「……そうか」
「そうか、だけか」
窓の外で、子どもの声がした。
診察を終えたらしい小さな影が、中庭を走っていた。母親が追いつき、抱き上げる。
俺はそこから目を戻した。
「あんたは、知っていたのか。俺が殺されたことを」
「知った。殺されたあとで」
「何を見て」
師匠の手が、一度だけ動いた。
俺の脈を取ろうとしたのだと、途中でわかった。その手は、こちらへ届く前に引かれた。
「お前の遺体を見た」
俺は椅子の上で足を置き直した。死んだところは覚えている。その身体を運び出した者の話は、初めて聞いた。
「どこで」
「聖務局の、検体の保管場所で。胸を剣に貫かれ、死亡が確認された身体があった。お前だった」
リゼのペンが、紙へ触れたまま止まった。
ローズが、俺の袖へ手を添えた。
師匠は、二人に話を渡さず、俺を見ていた。
「私がそこから運び出した」
「なんで、運んだ」
「切り分けて調べる予定が入っていた。そうなる前に、取り戻したかった」
「ハンナは、検体として戻すつもりだったと言った」
「戻させたくなかった」
師匠の指が、膝の上で一度曲がった。
「あんたが持っていたのか。五年間」
師匠はうなずいた。
俺は自分の胸へ手を当てた。服の下に、剣の傷はない。どれだけなぞっても、抜けた刃の冷たさ以外には触れられなかった。
「だったら、今ここにある身体は、何だ」
師匠の目が、その手へ落ちた。
それから、俺の顔へ戻った。
「私が修復した、お前の身体だ」




