08 子守唄
甲高く、何の感情も乗っていない無機質な目覚ましの音がやけにうるさく聞こえた。
昨夜からずっと手足は冷たいまま。目を瞑った状態でいなければならなかった八時間から解放される。
上体を起こしたらぐらりと視界が揺れる。なんとかベッドに逆戻りしないようにと堪えたが、正直これは予想以上だ。
人は、徹夜をすると調子が悪くなるという。「人」をモデルに造られているAIoidである私もそうなることは知っていた。だが、ここまでだなんて知らなかった。知る予定も知りたくもなかった。
私とそっくりなあの少女は何者なのか。……あの少女にそっくりな私は何者なのか。
博士が私に重ねるあの少女は何者なのか。……博士があの少女を見ている私は何者なのか。
別に何でもいい。私には関係ない。私はただのAIoid。それ以上でもそれ以下でもない。
そう考えられたならどれだけ良いのだろうか。そうやって考えては、そんなことは考えられないと考える。
止まらない思考。制御できない思考。位置も大きさも形も、何もかもがわからない原因をどうにかしてしまいたい。
このままではいけない。ただそれだけはわかったから紺色のカーテンと白いレースカーテンを開けてみる。低い朝の光が目を焼いた。
昨日とは違う秋晴れの空、今日こそ雨が降っていればいいのに。そう考えたってどうにかなるわけではない。
突然、ノックの音が響いた。
「……どうぞ」
いつも通りに出したはずの声は、いつもよりも数トーン低かった。「お邪魔するよー」と入ってきた旭さんは私の顔を見て、一瞬だけ眉を下げて微笑んだ。
「おはよう愛ちゃん。調子はどう?」
そう言ったときには、昨日の昼までと変わらない人の良い笑みを浮かべていた。
変に気遣わないで接してくれることに私はこっそり息を吐く。ありがとうの言葉を届ける余裕はなかった。
旭さんがキャスター付きの椅子に座り、タブレットのスイッチを入れたのを確認してから私は口を開いた。
「おはようございます。あまり……というか、全く眠れませんでした」
「そっか……。俺にできることがあれば何でも言ってね? 愛ちゃんの力になれたら嬉しいから」
上手く隠しているだけで旭さんまで私にあの少女を重ねているかもしれない。そう考えてしまった私がいたことを、何より私自身が信じられなかった。
だけど、もし本当にそうだったら……? それに気づいてしまったとき、私はどうするのだろう。どうなってしまうのだろう。
真正面にいる旭さんの言葉を真正面から理解してはいけない。
その言葉を受け取ったあと、もし旭さんのその黒い瞳の奥にあの少女がいたら……私はきっと壊れてしまう。
「何でも、って。もしも私が実現不可能なことを言ったらどうするんですか?」
皮肉、もしくは揚げ足取り。気づけばそんなことを口走っていた。
目を見開いた旭さんはそのまま固まってしまう。完全に間違えてしまった。最適解どころの話ではない。
冷たさ以外何もない手にぎゅっと力を込めて、私は、下を向いたまま旭さんの反応を待つ。
「愛ちゃん、よかったら俺を見てくれない?」
真っ直ぐと言葉が紡がれる。このまま膝に置いた自分の手を眺め続けることもできる。旭さんはそれでも許してくれるだろう。
だけど、それは違うと思った。私はおそるおそる顔を上げる。
そこには何の屈託もない笑みを浮かべる旭さんがいた。
「叶えるよ、全力で。たとえ実現不可能なことだったとしても、全力で」
迷いも揺れも何もない、いつもの旭さんの黒い瞳だ。
「まあ、実現に向けて動いたとしても叶わないことは絶対にあるけど。でもね愛ちゃん、俺は君の願いを叶えたいから。だから、絶対に叶えると信じて、全力で叶えようとする」
真正面から絡む視線に、私は何も言えなくなった。「どうしてそこまでしてくれるんですか」という言葉は、喉の奥につっかえて出てきてはくれなかった。
* ・ * ・ *
「どうかな、眠れそう?」
夜の体調チェックとヒアリングのあと、旭さんはあくまでいつも通りに聞いてくる。
本人は気にしてないふうにしてくれていたが、朝のときもプログラム中も散々心配と迷惑をかけてしまったと思う。だからこそ今夜こそは眠りたい。今夜こそは、眠らなければ。眠って明日の朝元気に起きて、「おはようございます」と笑わなければ。
博士に対しても、避けるなんてことはせずにいつも通りでいなければならない。そうしないと旭さんが安心できないだろうから。
昼間、旭さんは私の意思を聞いて博士と顔を合わせないようにしてくれた。だけどこのままでは迷惑をかけ続けることになってしまう。それはいけない。避けなければならない。
だから、希望的観測も含めて私は嘘をつく。
「なんとか眠れそうです」
「……そっか。じゃあ、おやすみ愛ちゃん」
「はい。おやすみなさい、旭さん」
座っていたキャスター付きの椅子を机の下に入れて旭さんは部屋から出ていった。私はベッドに寝転び、深い青色のカバーがついた羽毛布団を被る。
上手く笑えていただろうか。上手く誤魔化せていただろうか。
きっと笑えてはいなかったし、誤魔化せてもいなかった。それでも旭さんは気づかないふりをしてくれたのだろう。
ダメだ。これっぽっちも眠れそうにない。それでもこのまま電気を付けているわけにはいかない。私は枕元にあるリモコンの消灯ボタンを押した。
視界が闇に包まれる。遮光カーテンの外よりも暗い、造られた暗闇……私と同じ造られたもの。
このままではまた眠れなくなると羽毛布団を頭から被った。
衣擦れの音が、呼吸音が、心臓の音が……私が一人であることを突きつけてくるようで、耐え切れなくなってすぐに顔を出した。ひんやりとした空気を数回深く吸い込んで早くなった鼓動を落ち着かせる。
目を瞑ってみたけどやはり眠気はやってこない。
時間の感覚がおかしくなる長い夜が始まるくらいなら、いっそのこと私をシャットダウンさせてほしい。そうしたらきっと、これ以上考えなくて良くなる。
『おはよう愛ちゃん』
突然、そうやって笑う旭さんの姿を思い出した。
いつだって私と向き合ってくれて、いつだって側にいてくれた旭さん。目を逸らされたことがあっただろうか。私を通してほかの誰かを、あの少女を見ていたときがあっただろうか。……いや、ない。ないと私は思うから。
私がシャットダウンさせてほしいと考えてしまったことを知ったら、旭さんはどんな反応をするだろうか。
確実な答えはわからないはずなのに、悲しそうにくしゃりと顔を歪める旭さんを想像した。どうしてか、その想像の中の表情が最初の記憶にある博士と重なる。
布団の中で握った自分の手は先ほどと変わらず冷たくて、変な汗をかいていた。
旭さんと博士と再び顔を合わせたら、再び言葉を交わしたら……何かがわかるだろうか。何かが変わるだろうか。何かを変えることができるだろうか。
そう考えた上で、結局今の私は何もしないことを選ぶ。布団を被り直してぎゅっと目を閉じる。
コンコンコンとノックの音が響いたのは、そうし始めてからどれくらい経ったときだろうか。ふらつきながらも体を起こし、「どうぞ」と声を投げ返す。
引き戸の隙間から廊下の光と共に顔を覗かせたのは、おやすみの挨拶をしたはずの旭さんだった。
「遅くにごめん、お邪魔するね」
「何かありましたか……?」
旭さんは白衣ではなく黒いスウェットを着ている。完全に仕事外の姿だ。この時間にやってくるなんて今まで一度もなかったはずだ。
枕元に置いていたリモコンを操作して、暖色系かつ暗めの明かりをつける。「ありがとう」と優しく笑った旭さんはどこまでもいつも通り。むしろ、普段よりリラックスしているようだった。
「愛ちゃん、本当に眠れそう?」
そう言いながら、机の下から椅子を引っ張り、ベッドに腰掛けている私の側までやってくる。
スクエア型のメガネ越しに真っ直ぐと向けられる黒い瞳から私は少し視線を逸らした。
もう一度嘘をつくことはできる。そうしたら旭さんは「ごめんね」と微笑んで去っていくのだろうか。目を合わせないままに、また「おやすみ」と言って。
……それは、違うと思った。真正面から向き合ってくれる旭さんから逃げたくない。
何の根拠もないその考えが、前にも後ろにも進めずただその場に立ち止まっているだけの私の背中を押した。
「眠れない、です」
たったのひとこと、無音の音が聞こえてきそうな私の部屋に小さく響くたったのひとこと。それを呟いただけなのに私の心臓は鼓動を早める。ドクンドクン、と耳元で聞こえる音に、気づけば私は自分の手元まで視線を下げていた。
顔を上げなければ、旭さんを真っ直ぐと見なければ。そうしなければいけないのは十分すぎるほどにわかっていた。
とうとう握りしめた自分の手すら見たくなくなってぎゅっと目を瞑ってしまう。ぽんと頭に暖かい手が乗ったのはそんなときだった。
「教えてくれてありがとう」
思わず目を見開いた。よしよしと撫でられて、あんなにも早かった鼓動がすぐに落ち着く。
「ほらほら横になって。そうするだけでも休むことにはなるからね」
気づいたときにはばっちりと旭さんと視線を合わせていて、言われるがままに寝転がる。そうしたらふわりと布団を被された。
ただそれだけのことなのに体中に入っていた余計な力が抜けるのを感じた。
旭さんは私の枕元に置いていたリモコンを操作して、豆電球の暗さを作る。そして突然「そうだ」と呟いた。
「どうしました……?」
そう尋ねると、よくぞ聞いてくれましたとばかりに笑顔が返ってくる。
「ひとつ名案を思いついちゃった。愛ちゃん、お兄さんが子守唄でも歌ってみようか?」
「子守唄……」
造られてからまだ半年と少し。だけど私は十五歳と設定されている。子どもとも大人とも言いがたい境界の年代だ。
子守唄はその名の通り子どもに効果があるのだろう。私にも効果があるかは正直わからない。それでも旭さんの歌う子守唄を聞いたならもしかすると眠れるかもしれない。可能性はゼロではないのだ。
それに何より、この薄暗さでもわかるくらいにメガネの向こうの黒い瞳が輝いている。どこか楽しそうで、私にも効果があると確信していそうな旭さんの真っ直ぐとした視線。
「お願いしてもいいですか……?」
にこりと笑った旭さんは「もちろんだよ」と声を弾ませた。
こほんとわざとらしく咳払い。それから小さく息を吸って旭さんは歌い出す。
〈眠れよ眠れ まぶたを閉じて〉
〈暖かな夢を 愛しいきみへ〉
穏やかだけど、時々音が外れていて。それでも確かに伝わってくる暖かさがあって。
〈眠れよ眠れ この腕の中〉
〈幸せな夢を 愛しいきみへ〉
決して上手いとは言えなくて、だけどどこまでも優しくて。
〈夜空を泳ぐ あの星のように〉
〈きみはどこへでも行けるから〉
微笑んで歌う旭さんを瞼の裏に焼き付けて、私はそっと目を瞑る。
〈でも今はまだ ここにいておくれ〉
〈きみの眠りと夢を守るから〉
とんとん、とリズムに合わせて肩を撫でられる。
〈だいじょうぶ 僕はここにいる〉
〈心穏やかに 夢の世界へ〉
一切なかったはずの眠気がゆらりゆらりと迎えにくる。
〈だいじょうぶ きみはここにいる〉
〈手をつなぎ共に 夢の世界へ〉
暖かい布団に包まれて、柔らかい旭さんの歌に導かれて。
〈だいじょうぶ 愛しいきみよ〉
〈おやすみなさい〉
最後の旋律を聞いてふと気づいた。これは以前、旭さんがピアノで弾いてくれたものだった。私が一番惹きつけられて、再度聞きたいと願った曲。
暖かさ、優しさ、穏やかさ……何より、誰かを思う「愛」。「人」らしさというものがこれでもかと詰まっている曲。
「この歌はね、博士が作ったんだよ」
その言葉は私の中に違和感なく収まった。
そうだ、そうだった。どうして気づかなかったのだろう。博士は確かに私を見てはいない。それと同時に私を見ようとしてくれている。もしそうでなかったら、あんなふうに迷ったり葛藤したりはしないはずだ。
ぐちゃぐちゃな考えが上手く繋がって、絡まる思いをようやく掴めて。とんとんと肩を撫でられるに連れてだんだんと現実が離れていく。
「……おやすみ、愛ちゃん」
瞼の向こう側で呟いた旭さんは、きっと優しく笑っていた。
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