07 重ねる
プログラムの拠点となっている会議室を出て、ふと目に入ってきた中庭の桜はすっかり葉を落としていた。
十一月に入ってから初めて降った雨に枝を濡らして、それでも堂々と空を抱いている。
中庭とガラス張りになっている廊下でも太陽光は入ってこない。雲が空を覆い、いつもより薄暗い夕方手前のこの時間、足元から冷たさが上ってくる。
会議室の施錠を確認していた旭さんはいつの間にか私の隣に並んでいた。
「雨だね」
「そうですね。昼までは曇っているだけで降ってはいなかったのに」
「明日の朝には止むみたいだよ」
「……そうなんですね」
なんとも味気ない返事をしている自覚はある。
何かこれといった出来事があったわけではないはずだけど、今日は朝からずっとこうなのだ。気を遣ってくれた旭さんから、「今日のプログラムはこの辺にしておこう」と言われたのはつい先ほどの話である。
「どこか行きたいところとか、何かやりたいこととかはある?」
そう聞かれて、思考を巡らせる。答えは思いの外すぐに出てきた。
「団欒スペースに行きたいです。旭さんさえよければ、またピアノを弾いてほしいです」
共用スペースのひとつ、食堂の隣にある団欒スペースには誰でも弾いていい「研究所ピアノ」と名付けられたアップライトピアノが置かれている。
以前、一度だけ旭さんがそれを弾いてくれたことがあるのだ。優しくて穏やかで、だけど時々小さな遊び心が入っていて。
そんな暖かさのある、まるで旭さんそのもののようなピアノの音色をまた聞きたいと思っていた。あれ以上に耳当たりの良い音を私は知らない。
AIoidである私までもが惹きつけられてしまうその仕組みを理解したい。そのためにはやはり情報が必要だ。
両手を組んで、黒色の目を見開いている旭さんをじっと見つめる。
「……愛ちゃんは、そんなに俺のピアノが聞きたいの?」
「聞きたいです。旭さんが想像している以上に聞きたいと考えているのではないかと思います」
「そ……そこまでなんだね。わかった、じゃあ行こうか」
旭さんは私にくるりと背を向けて歩き出した。これは、弾いてくれるということで間違いないのだろうか。
普段と比べて随分とわかりにくくなっているその感情からは、どちらなのかを確信できない。私は、ほんの少し力んでいるように見えるその背中に声を投げた。
「あの、ピアノを弾いてくれるということで合っていますか……?」
「愛ちゃん……」
その場で足を止めて振り返った旭さんは斜め下を向いていた。その目元はメガネの反射に隠されて見えないけど、口元をむずむずとさせていることはわかった。
「大切な存在の頼みだよ? 妹的存在の頼みなんだよ? そこまで言われて、お兄さんが叶えないわけにはいかないよね。……曲のリクエストも受け付けるから」
わずかに頬を染めて、はにかんで笑う旭さんはどこからどう見ても嬉しそうだった。ただピアノを弾いてほしいとお願いしただけで、そこまで喜ばれるとは。
旭さん真似をして私も口角を上げてみる。
「ありがとうございます、旭さん」
「お礼を言うのはまだ早いよ! さあ行こう。お兄さん、じゃんじゃん弾くから」
灰色のソファーとオレンジ色や黄色の椅子、そして白い机。同じ系統の色でまとめられた中にぽつんと置かれている黒いアップライトピアノ。
定員十五人ほどの団欒スペースは、廊下と違ってじんわりと暖かかった。
この時間帯は誰もいないのではないかという私の予想は考えてもいなかった形で外れた。ロマンスグレーの癖毛という、この研究所には一人しかいない存在——博士がいたのだ。
今まで博士が団欒スペースを利用しているところは一度も見たことがない。
「博士が誰かを呼びにくる以外でここにいるなんて、珍しいね」
小声で話しかけてきた旭さんも、椅子に座って机の上に手を置いている博士へと不思議そうな視線を送っている。
私たちに気づいていないのか、その体勢のまま博士はぴくりとも動かない。
「そうですね。博士、何かを見ているようですが……」
「話しかけてみる?」
「良いんですかね?」
「良いと思うよ。だってここ、共用スペースだし」
暗に「話しかけられたくなかったらここにはいない」と言って博士に近づく旭さんに、それもそうかと私は倣う。
横からその表情を覗き込んでみて、すぐさまその行動は間違いだったと悟った。
博士は泣きそうな表情をしていた。それでいて、何よりも大切なものを見つめるような表情をしていたのだ。そしておそらくは無意識のうちにかちゃりと銀色のモノクルに触れる。やはりその濃い灰色の視線は手元に向けられていた。
「あのー、博士? ……聞こえてますかー?」
旭さんの言葉にも、何の反応も返さない。これ以上、今の状態の博士に干渉してはいけないと、私の中の何かが言っている。
このままでは何かが起こると、何か良くないことが起こってしまうと。証拠も根拠も何もないのに、私の心臓は鼓動を早める。
「これは……思考の沼にどっぷり浸かっている状態だね」
微動だにしない博士を横に、二人で顔を見合わせる。苦笑した旭さんに合わせて、私も苦笑いを作った。
「まあそのうち戻ってくるよ。というわけで愛ちゃん、何か曲のリクエストはある?」
早くこの場から離れなければ。ただそれだけを考えて、それを悟られないようにして。私はあらかじめ考えていた言葉を返す。
「この前のとき、一番最後に弾いていた曲をお願いできますか?」
がたりと、物音がした。十中八九その正体は博士だ。一秒にも満たない時間でそう思考して、振り返ってはいけないという結論に至った。
振り返ってはいけない、絶対に。振り返ってしまったら私は——
「……愛?」
——それでも、振り返らずにはいられなかった。
ひらりと博士の手から落ちたものが、私の足元に着地した。
冷たくなった手で、震える手で、そうしないのが不自然だから「落ちましたよ」とそれを拾う。
一枚の写真だった。見覚えのある少女が写っている、ただそれだけの写真だった。
長い黒髪と濃い灰色の瞳の十五、六歳くらいの少女。毎朝、鏡で見る自分にそっくりだった。
「…………私?」
否、私ではない。はっ、と息が詰まる。心臓の音がうるさくなる。
この写真を撮られた覚えもなければ、この赤いジャンパースカートだって着たことはない。
背景に写っている街や色付く木々たちは研究所内のものではないのだから。造られてからおよそ半年、私は、この研究所から出たことはない。この目で直接紅葉を見たことはない。
それに何より……AIoidはこの少女のように、「心」の底から湧き出るような、そんな自然な笑みを浮かべることはできない。
不規則な呼吸に、暴れる心臓。体の外から聞こえるすべての音が消える。
両肩を掴まれて、揺れる視界を無理やり上げる。博士が何かを言っているのが見えた。「あ」「い」。きっと、私の名前を呼んでいる。
博士の濃い灰色の瞳は写真の少女と同じ色。それはつまり、私と同じ色。ぐらぐら揺れたと思ったら、何かを呟き、逸らされる。
私は手元の写真に視線を落として、再度博士の瞳を見て。合わない視線に息が止まった。
——ああ、博士は私を見ていないのだ。博士の瞳に映っているのは、私を通して見ているのは……この少女だった。
両肩を掴んでいた暖かさが離れていくのを、私はただ、他人事のように眺めることしかできなかった。
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