06 距離
研究所の共用スペースの一つに私は一人でいた。
周囲には人の気配がない。それもそのはず、先ほど自分の部屋で見た時計は午前五時半を示していた。
鏡と洗面台がセットになったものが八つ、四つずつ背合わせになって並んでいる中、私は、定位置となっている右の奥にある洗面台の前で化粧水を手に取った。届かない位置にある細長い窓の外はまだ薄暗い。
無機質な白い電気に照らされた空間には、衣擦れの音や化粧水を馴染ませる音……私が出す音だけが響いた。
ただでさえひんやりとしている手足は、空気の冷たさに温度を奪われてさらに冷たくなっている。鏡の中の私は、黒いブラウスを腕まくりして、濃い灰色の瞳で真っ直ぐと私を見ていた。
小さなあくびと足音に視線を向けると、スウェット姿の旭さんがやってくる。その服は上下共に黒色。それでメガネも黒縁なのだから、本当に黒が好きなのだと思う。三ヶ月前、実際に本人もそう言っていた。
「愛ちゃんおはよー、今日は早いね?」
「目が覚めたので。おはようございます」
そう答えながら顔を洗うために付けていたヘアバンドを外すと、背中の真ん中あたりまでの黒髪がするりと舞った。
私は、朝の用意に必要なものを入れている紺色のカゴから櫛を取り出す。
何の引っかかりもなく梳かすことができるこの髪質は案外珍しいものなのかもしれない。
隣の洗面台でしゃかしゃかと歯磨きを始めた旭さんの、私とはまた少し違う黒髪を見てみる。あちこちの方向に髪が跳ねていて、これは毎朝大変そうだと他人事のように考える。
ここで生活し始めてから半年と少し、私は、一人でも研究所の中で行動するようになっていた。
きっかけは本当に偶然だった。旭さんが研究所外の用事に行かなければいけなかったとき、私一人でも歩き回って良いかと尋ねたのが始まりである。
自分の部屋で読書をして過ごすのも悪くはないが、やることの選択肢が限られるのは惜しいと考えたのだ。私は、たくさんのことを経験して、より多くのことを学ばなければいけない。
食堂や団欒スペース、中庭など、所員が共用で使っている場所になら行っても良い。それ以外の部屋に行きたい場合は誰かと一緒に行くこと。
これが、私の一人行動の条件だった。
使い終わった櫛や化粧水を片付けていると、歯磨きが終わって完全に目が覚めたらしい旭さんに話しかけられた。
「ところで……目が覚めるとはまた珍しいね、今までになかったと思うけど。何か思い当たることとか、そのあたりちょっと聞かせてくれない?」
旭さんは白衣を羽織るどころかまだパジャマ姿なのだけど、早速、研究モードに入ったようだった。
ポケットからスマートフォンを取り出して、どこかぎらぎらとしているように見える瞳を私に向けている。おそらくその画面にはメモアプリが表示されているのだろう。
さすが旭さんとでも言うべきだろうか。
学術的な内容から日常のコミュニケーションまで、知識も顔も幅広く、研究員の中でもオールラウンダー的存在。それは、今のように少しでも気になったことを逃さない姿勢があるからこそ為せる技なのだろう。
私がこっそり研究モードと呼んでいるこの姿は、ある種のスイッチが入った状態のようだった。その状態といかにも寝起きだと言わんばかりの服装が、どうにも食い違って見えてくる。
顔から足元まで一通り眺めて、もう一度視線を合わせて。小さく首を傾げると、旭さんも同じ方向に同じだけ首を傾げた。
「……愛ちゃん?」
「すみません。白衣を着ていない旭さんが珍しくて、つい考え事をしていました」
「言われてみれば確かにね?」
微笑んだ旭さんは、すでに研究モードからは離れていた。
「改めて、おはよう愛ちゃん」
「おはようございます、旭さん」
お互いに朝の準備を終わらせ、決まった時間——午前七時半になってから。私の部屋にやってきた旭さんは、タブレットを片手にいつもの白衣姿となっていた。
洗面所と違ってじんわりと暖かい部屋で、私はベッドに、旭さんはキャスター付きの椅子に腰掛ける。レースカーテンの隙間から差し込む低い光が、宙に浮かぶ埃をきらきらと照らしていた。
差し出された体温計のスイッチを入れて脇に挟むと、すっかりルーティーンと化したヒアリングが始まる。
「さてさて、今日の質問だけど、いつもより早く目が覚めて、なおかつ起きるという選択をしたのはどうして?」
先ほど答えそびれたものを聞かれるかもしれない。その予想は当たっていたようだ。私は、あらかじめ考えていた仮説を伝える。
「おそらく、ここ数日早く寝ることが多かったからだと思います。それで、睡眠が足りていたから目覚めたのではないかと」
「確かに、最近は八時間半以上寝ている日が多いみたいだね」
タブレットを確認して、旭さんは答えた。
「これ以上は休まなくていいよって愛ちゃんの体が言ってるのかもね」
「そうですね」
と返してみたあとに、それは少し違うのではないかと考えた。
私は「人」ではなく、AIoidだ。確かに睡眠も食事も必要としているが、そのすべてが「人」と同じわけではない。
睡眠でエネルギーを上限値まで回復したとしても、そのまま午前七時まで眠っていればいいだけの話ではないだろうか。決まっている時間になる前に目が覚めるとは、一体どういうことなのだろう。
……いや、これに関してはそこまで深く考えることでもないのかもしれない。変に論点を変えず、旭さんの言う通りに捉えればいいのかもしれない。
「起きる選択をした理由ですが、完全に覚醒しているのにベッドで横になっているのは時間の無駄だと考えたからです」
質問のもう半分に答えたら、旭さんはどうしてかメガネの下の黒い瞳をうろうろと動かし始めた。気まずく感じている、罪悪感を持っている、動揺している。このあたりの感情だろうか。
「……旭さん?」
「いや、その……俺、目が覚めてもしばらくはベッドでごろごろしてるときがあるから。『時間の無駄』っていうのに勝手ながら衝撃を受けてました」
そうやって少々早口かつ敬語で言い切ったと同時に、体温計が甲高い電子音を鳴らす。その隙に深呼吸をして落ち着いたらしい旭さんは、何事もなかったように「貸して?」と手を伸ばしてきた。だから私も何事もなかったように体温計を渡した。
「えーっと、三十五・六度ね。だるいとか、ぼんやりするとか、寒いとか何か不調を感じたりはしない?」
「特にないです」
「オーケー。それじゃあ、朝ごはん食べに行こっか」
味噌汁の旨み、焼き魚の香ばしさ、炊き立てのご飯の匂い。
いわゆる「食欲をそそる匂い」が漂う食堂は、研究員で賑わっている。幅が広い窓はあるが、朝の光は私の部屋ほど入ってこない。それでも足元から暖かいのは、火が近くで使われているからなのだろう。
プログラムの部屋や面談室といった研究所内のほかの場所とは違い、ここは白だけではなく、黄色やオレンジ色、その同系色の灰色など、明るい色味に満ちていた。
一つの机には六人が座れて、それぞれの椅子にはランダムで色が付いている。紙飛行機を余裕で投げられそうなくらいに天井が高く、開放的なのも食堂ならではなのかもしれない。
私と旭さんは朝食を乗せたトレーを持ったまま食堂中を見回す。あちらこちらから聞こえる話し声——おそらくそのほとんどが各々の研究に関わる内容——、食器がぶつかる小さな音、「いただきます」「ごちそうさまでした」の挨拶……。
「あ、博士だ」
周囲に向けていた意識は、旭さんのひとことによって一気に引き戻される。
その視線が向けられた先には、誰もいないテーブルの端に座りご飯を口に運ぶ博士の姿があった。
博士はこの研究所の所長だ。お世辞にも親しみやすさがあるとは言えない上司に、所員たちは遠慮しているのかもしれない。
「相席良いか聞いてみるね」
「お願いします」
混雑する時間帯、ほかに空いている席はなさそうだった。こういうときは旭さんが知り合いに相席を頼んでくれるのだが、今日はその「知り合い」というのが博士となるらしい。
私たちは窓際に座る博士に近づいた。
「博士、おはようございます。愛ちゃんと一緒に相席良いですか?」
「……ああ、おはよう」
そう言いながら、向かい側の席をそれぞれ指してくれた。これは良いということだろうと、旭さんと共にお礼を伝える。
私が博士の正面の黄色い椅子に、旭さんが私の右隣の灰色の椅子に座った。
「いただきます」と味噌汁から順に食べ始める。箸で具を押さえたまま汁を一口。
席を探している間に、やけどしないくらいのほど良い暖かさとなっていた。塩味と旨味を同時に飲み込んで、ほっと息を吐く。
次に、焼き鮭に箸を伸ばした。一口大にして、ご飯茶碗片手にぱくりと食べる。控えめだが確かに存在する塩気に白ご飯を口に含んだ。すると、味が柔らかくなった。
……見られている。一挙一動を観察されている。ちらりと視線を返した先の博士は、ばっちりと私の方を見て眉を下げて苦しそうに微笑んでいた。
時折、博士はそんな表情をする。私を見て、どこか遠くを見る表情を。私の最初の記憶に映るくしゃりと顔を歪めた泣き笑いの博士。あのときほどわかりやすい感情ではないけど、同じ類のものなのだと思う。
きっと博士は、私に過去を……誰かを重ねているのだ。
だからこそなのかだけどなのかはわからないが、博士は私から距離を置こうとしている。目を逸らされる回数が増えたあのときから三ヶ月と少しが経った今までそれはずっと変わらない。
私はその視線から逃げるようにして再び味噌汁を飲んだ。先ほどのように、ほっと息は吐けなかった。
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