05 逸らす
トラブルという名の非日常はあっけないほど簡単に終わった。
昼食を食べるころには完全にいつも通り。昨日できなかったからと始まった博士との面談も、概ねいつものように終わろうとしている。
南に面している小窓にはブラインドカーテンが下がっており、向かい合わせた長机にはそれぞれ二つずつ、計四つの椅子が置かれている。長机も椅子も、私のプログラムの拠点となっているあの大部屋と同じものだ。
このこじんまりとした部屋ではエアコンの風の音がよく聞こえた。
他のところでは暑いと感じる窓の外の高いところにある太陽光がちょうど良い加減で背中を暖めている。私は、タブレットを自立させて操作している博士の前に座っていた。
記録の入力がひと段落したのか博士は私に向き直る。そして、自身の胸のあたりに手を置いて言った。
「最後に、このあたりの違和感はまだあるか?」
博士には話していなかったことをなぜ知っているのだろうか、と考えて、すぐに旭さんが伝えたのだろうと思い当たった。
私は博士の真似をして自分の胸より少し上に触れてみて答える。
「もうありません」
あのあと、旭さんと朝食を食べるために食堂へ向かっていたら、例の違和感はいつの間にか消えていたのだ。数時間経った昼食後の今でもそれは変わらない。
「そうか」とだけ答えた博士は私からすっと視線を外した。
まただ。今までの三十分の面談中に数えたものだけでも十三回。昨日までと比べて、圧倒的に目を逸らされる数が多い。最初は勘違いかとも考えたが、一度気にしてみるとその多さは異様だった。
昨日までを思い返してみても、目を逸らされる回数は多いときで一時間に二、三回ほどだったはず。
人はこの行動をするとき、その相手に何らかの気まずさや葛藤を抱いていることがあるという。今の博士の場合、「相手」というのは私のことだ。だが、ただでさえ近くはなかった距離をさらに広げられる理由がわからない。
白に囲まれた部屋で無言の時間が過ぎていく。タブレットをスリープモードにさせた博士がモノクルをかちゃりと上げた。
突然響いたノックの音に、私は思わず肩を揺らした。向かい側の博士は気にする素振りも見せず、淡々と「どうぞ」と返す。
「失礼します」
横開きのドアを開けた旭さんは、ドアノブに触れた体勢のままぴたりと固まった。
「……あの、何かありました?」
この部屋に流れる不自然なほどに動かない空気を感じ取ったのだろう。あいにく、私はそれに対する答えを持っていない。
「何も」「特には」
博士と言葉が重なった。
旭さんは後ろ手にドアを閉めながら軽く首を傾げて「そうなんですね?」と聞いてくる。いくら疑いの目で見られたとしても、実際にそこに何もないのだから何かを言えるわけがない。
私が大きく頷くと、博士は机に手を付いて立ち上がった。そして小さく音を立てながら椅子を入れる。
「僕は研究室に戻る。何かあれば声をかけてくれ」
私たちの返事を待たず、旭さんに道を譲られて部屋を出て行った。博士の白衣の裾はひらりと舞い、すぐにドアに阻まれて見えなくなる。
旭さんと私は同じタイミングで顔を見合わせて、苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、俺たちも移動しようか」
「はい」
面談室を出て、中庭側がガラス張りになっている廊下へ。比較的柔らかい日の光に照らされた白い道を、博士の研究室とは真逆の方向に進むこと十五歩。
斜め前を歩いていた旭さんは突然立ち止まった。私は真横に並ぶ形になって、名前を呼びながらその黒い瞳を覗き込んでみる。
「どうかしまし——」
「愛ちゃん」
唐突に被せられた言葉に首を傾げ、私は、「何ですか?」と尋ねた。
「本当に博士とは何もなかったの……?」
こちらを気にするような声色と、どこかミスマッチに光って見えるメガネ。心配だけではなく、ほんの少し好奇心があるのだろう。それでも、旭さんが予想していたり期待していたりすることは何も言えない。
なんと答えるべきだろうか。旭さんを見つめながらしばらく考えていると、横を通り過ぎていった名前も知らない研究員にまじまじと見られてしまった。確かに、研究対象とお世話係が廊下でお互いをじっと見つめ合っていたら気になるだろう。
足音が離れたのを確認して、結局、正直に考えを話すことにした。
「強いて言うのなら、博士は私と距離を置きたいのかもしれません?」
「……疑問系なんだね?」
「実際、疑問ですから」
旭さんの考えることですら予想できないことが多いのだ。
一週間に一度しか関わらない博士の考えることなんて予想できるはずがない。好きな色も、よく口にする食べ物も、大切なものも……。私は、博士のことを何も知らない。
三ヶ月間、必要最低限ではあるが関わってきたにもかかわらずそれなのだ。博士が意識的に私へ何も言っていない。その考えを否定できるほどの情報もない。
今日の印象を踏まえた上で考えてみると、否定どころか肯定できてしまいそうだ。
本人に聞くことができたなら一番早くて確実なのだろうけど、少なくとも今の時点でそれを実行しようとは思わない。
隣にいる旭さんは、真面目な表情をして腕を組んで、斜め下を向いていた。思考モードに入ったことをよく理解した上でそれを邪魔するように口を開く。
「旭さん、何色が好きですか? それと、よく口にする食べ物と大切なものも教えてください」
今、私にとって、博士について考えを深めるのは難しいことなのだ。だからといって、旭さんには申し訳ないことをしてしまったと思う。
軽く目を見開いてからにこりと笑った旭さんに、私は、ぎりぎり届かないくらいの声で「ありがとうございます」と呟いた。
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