04 違和感
起動命令、■■■■■を確認、受託しました。
システムチェック、開始。
……嗅覚、クリア。
……味覚、クリア。
……触覚、クリア。
……視覚、クリア。
……聴覚、クリア。
メインシステム、オールクリア。
AIoidシステム、再起動します——。
三ヶ月振りに聞こえたシステム音声は、随分と私から遠い存在だった。
頭の中で響いているのは確かなのだけど、初めて目覚めたときほど自分との一体感のようなものがない。
瞼を開く。白い天井だ。左側には紺色のカーテン、私の体には深い青のタオルケットがかけられている。私は……一体どうなったのだろうか。枕元にあるカレンダー機能付きの時計は、八月四日の午前七時を示している。
今日は八月三日だったはず。ひとまず時計の不具合を疑いながら体を起こして、私は遮光カーテンを開けた。じりじりと太陽が差しこんでくる。昼間や夕方のものとは違う、低い角度の日差しだ。
十中八九、時計は壊れてもずれてもいないのだろう。そもそもこれは電波時計、自動的に時間と日付を合わせてくれるものだった。
ふと立ち上がって、今着ているものが私の最後の記憶にあるものと一致することに気づいた。白色のブラウスと黒いフレアスカート、首元のリボンは外れているが、それ以外は完全に同じ。
確か、朝食を摂ったあと、旭さんから「家族」について学んでいる途中に額が熱くなって……。
記憶を遡っていたちょうどそのとき、部屋のドアをノックする音がした。きっと旭さんだと、私はすぐさま声を返す。
タブレットを持って入ってきた旭さんの目の下はうっすらと黒く染まっている。いつもより少し疲れたように、「おはよう」と笑いかけられた。
「体調はどう? 変な感じとか、気持ち悪いとかはない?」
もしかすると私は不具合を起こして倒れでもしたのかもしれない。
そう考えると、旭さんの様子とその質問の意味が繋がる。私の記憶には、制御できなくなってしまった思考と熱がこびりついていた。異常な熱がもうないのは、旭さんたちが対処してくれたからなのだろう。
私はひんやりとした自分の手を手で強めに握った。
「すみません。ご迷惑をおかけしました」
そうやって頭を下げると、はっと息を呑む気配がした。
「ど、どうして愛ちゃんが謝るの? 愛ちゃんは何も悪くないよ? だからほら、顔を上げて……?」
ゆっくりとその言葉通りにすると、私の方へ中途半端に手を伸ばした旭さんがいた。気のせいかスクエア型のメガネがずれている。
とりあえずお互いに話す体勢に入ろうという提案に頷き、私はベッドに、旭さんはキャスター付きの椅子を移動させて座った。エアコンの風の音がやけに大きく聞こえる。しばらくの沈黙を破ったのは旭さんの方だった。
「えーっと……どうして謝ったのかを聞いてもいい?」
なぜだか旭さんは私との距離を掴みかねているようだった。確かに私と向かい合っているにもかかわらず、昨日までよりもずっと遠く感じる。
「私が考えすぎたせいでご迷惑をおかけしたんですよね。だから、謝りました」
「ちょっと待ってちょっと待って……! 全然、まったく、本っ当に、これっぽっちもそんなことないからね? 愛ちゃんは悪くない、謝る必要はない。いい? ここまではオーケー?」
勢いに押される形で私は「はい」と答える。
「そもそもの話、愛ちゃんには考えるということを積極的にしてもらった方が俺たちとしてはありがたい。今回、愛ちゃんは自分が考えすぎたせいだって言ったけど、それはAIoidの成長として自然なことなんだよ」
AIoidの成長。今までに聞いたことのなかった言葉だ。旭さんたちが研究対象に言っていないことは多い。「AIoidプロジェクトのテーマ」だなんて、一切触れたことがない話だ。
意図的に遠ざけられていたから、私も無闇に近づかない。それが私たちの境界線。
だけど、今は旭さんの方から話そうとしてくれている。だからこそ、私は改めて姿勢を正して聞く体勢に入った。
「詳しくは言えないけど、愛ちゃんにはこれからも考え続けてもらいたい」
「わかりました」
だけど、また考えすぎて熱に支配されてしまったらどうすればいいのだろう。
それでも旭さんたちは私を助けてくれるのだろうか。考えるまでもなく、確実に助けてくれる。私は研究対象なのだから。私が「迷惑をかけてしまう」だなんて考えずとも、たとえ私が望まなくたって、それは変わらないことなのだろう。
いつの間にか下がっていた視界の端に、私のそれよりも一回り大きい手が現れる。それは、強く握った私の手に触れて、暖かさを分けてくれた。
「今回何が起こったのか簡単にだけど説明するね。昨日のプログラム中、愛ちゃんは故障しかけたところを博士にシャットダウンされた。それから今後の対策として……愛ちゃんの頭脳を向上させてもらったよ」
「……え?」
それは、私の知らないところで私が造り変えられたということだろうか。
ただでさえひんやりとしていた手がさらに冷たくなった。触れられている手の暖かさがだんだんと違和感となってくる。
「だから、今回と同じようなことにはもうならない。理論上は、の話だけどね」
顔が見えない旭さんは努めて淡々と言葉を続ける。
手の暖かさの違和感と同じものが、今度は喉元に現れた。迫り上がってきたと言った方が正しいだろうか。胃の部分に入った食べ物が逆流してくるような違和感。今はそこに何も入っていないというのに……また別の不具合なのだろうか。
「愛ちゃん、」
違和感でしかない暖かさにぎゅっと両手を握られる。
振り払うのは簡単だけど、それはできない。もしもそれを実行したら、今までのすべてが壊れてしまうという確信があった。
「……勝手なことをしてごめんね」
その瞬間、違和感が少し軽くなった。私は握られた手を眺めながら、ただ旭さんの話を聞く。
「今回のことは俺たちの……俺の責任だよ。愛ちゃんの不調に気づかなかった俺が悪い。その結果、こんなことになってしまった。それも、愛ちゃん本人の知らないところで勝手にね。だから、ごめんね。気づかなくて……ごめんね?」
感情を押し殺すようにして、それでも隠せていない感情があふれていて。旭さんの声は掠れていた。
泣いて、いるのだろうか。そう思い当たって、私はそっと顔を上げる。
「旭さん……」
眉を下げて、口元に力を入れて。くしゃりと顔を歪めている。だけど目元は濡れていない。涙が流れていない今の状態を、私は正しく理解できなかった。
人は、抱えきれないほどの感情や思いを発散するために涙を流すという。大きな感情や思いの発散方法の一つとして、泣くということは有用なのだ。
今の旭さんはどうだろうか。抱えているであろうもの——後悔を、内に閉じ込めようとしてはいないだろうか。
「ごめんね、愛ちゃん」
努めて笑った旭さんの手が離れていく。私とは違う暖かさが、離れていく。
「私は、」
気づいたら旭さんの手を繋ぎ止めていた。どうして、と考えている場合ではない。今、一番大切なのは目の前の旭さんのこと。私は、スクエア型のメガネの下でわずかに目を見開いた旭さんを真っ直ぐと見つめる。
「私は、AIoidです。博士たちが造った存在です。それが、愛です。だから……だから、向上された私も、私です」
人が抱えきれないほどの感情や思いを発散するには、泣く以外にも方法がある。誰かから受け取る言葉によって、誰かに言葉を吐き出すことによって、自らの中で上手く消化することができるのだ。
私にその「誰か」の役が務まる確率は、おそらく五十パーセントあるかどうかというところだろう。だが、ゼロではない。ならばやってみる価値は十分にある。
旭さんは困ったように眉を下げて微笑んで、私の話を聞いてくれるようだった。
「もし私がまた故障してしまいそうになったとき、いつも私を見てくれている旭さんなら今度こそ気づいてくれると思います。それに……私も私で違和感があったら伝えます」
ヒューマンエラーという言葉があるが、それは「人」限定の話。
たとえ旭さんが気づけなかったとしても、AIoidである私が気づけばいい。今回のように暑さのせいだと一蹴せず、見逃してしまいたくなる些細な違和感でも。
「旭さんなら、聞いてくれますよね?」
一方的に握っているだけだった暖かさに握り返されて、私はそこに視線を向ける。
もうあの違和感はなかった。むしろ、違和感ではない別のものが、全然悪くなんてないものがある。だけど私はそれに相応しい名前を知らない。自分の中の情報にあるどの言葉とも違う、未知のものだった。
顔を上げて見てみると、旭さんは笑っていた。先ほどまでの作られたものでもなく、困ったようなものでもない。純粋な感情が乗った笑顔。
期待されることへの嬉しさ、頼られることに対する喜び……そんな言葉だけでは表せない、どこまでも複雑で紐解くことが難しい「人」らしい表情だ。
「もちろんだよ、もちろん聞く。愛ちゃんの言葉を、必ず」
どこまでも「人」らしい旭さんに、どうやったって「人」にはなれない私。
本物か偽物か、圧倒的に後者だ。「人」の真似をしただけの「心」が伴わない笑顔を作って、私は答える。
「ありがとうございます、旭さん」
「……こちらこそありがとうね、愛ちゃん」
そう微笑んだ旭さんの温度に違和感は感じない。ただ、この喉元まで迫り上がってきた違和感は消えてなんてくれなかった。
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