03 休止 Side: 斑目旭
愛ちゃんの様子がおかしい。
それに気づいたのは、愛ちゃんが瞬きをしなくなったからだった。慌てて触れたその額はやけどしてしまいそうなほどに熱を持っている。濃い灰色の瞳はうつらうつらとしていて、俺を見ているようで見ていなかった。
故障。最悪の可能性が浮上する。
俺は愛ちゃんに声をかけながら、タブレットで博士に緊急事態を報告した。博士は肩で息をしながらすぐにやってきた。一分もかからなかったと思う。
そして、すぐさま強制シャットダウンの命令を口にする。「AIoidシステム、休止命令・ゆるしてくれ」と。
次の瞬間、愛ちゃんは座ったまま崩れ落ちるようにして動かなくなった。
背中と膝裏に腕を入れて抱えられても、何の反応も返さない。身じろぎどころか呼吸すらしていないのだろう。
愛ちゃんは、今、恐ろしいほどに「人」ではなかった。
「……あい、ちゃん」
口からこぼれた自分の声は掠れていた。
愛ちゃんが人ではないことは、愛ちゃんがAIoidという研究対象であることはわかっていたはずなのに、俺は……。……俺は、何を思っていたのだろう。
昨日がいつも通りだったから今日もいつも通りだろう。
どこかでそう信じて疑わず、愛ちゃんの変化に気づけなかった。思えば、朝のヒアリングを終わらせた直後にいつもと違う様子を見せてくれていたのに。
愛ちゃん本人が気づいていなかったとして、仮に隠そうとしていたとして。
だからと言って俺が見逃していい理由にはならない。なんなら本人よりも先に気づくべきだった。
俺は愛ちゃんのお世話係であると同時に、AIoidを一番近くでモニタリングする研究者なのだから。
俺のせいで愛ちゃんを故障寸前まで追い込んでしまった。
三ヶ月記念日を迎えた愛ちゃんが、笑うのが上手くなった愛ちゃんが、俺を「旭さん」と呼んでくれる愛ちゃんが。俺のせいでいなくなってしまうところだった……?
冷たい手足、乱れる自分の呼吸音、端が黒く染まる視界……すべての感覚が自分のものであってそうではないような、怖い感覚に囚われる。
顔から血の気が引くのと対照的に早鐘を打つ心臓の感覚だけは、嫌なほどに自分のものとして残っていた。
「……この愛は、AIoidだ」
博士のその呟きに、一気に感覚が戻ってくる。
愛ちゃんへ近づきすぎないように、愛ちゃんを研究対象として見るために。博士の言葉は、そうやって自分自身に言い聞かせているみたいだった。
その顔色は俺よりも悪いのではないかと思うほど。もはや青いというより土色だ。愛ちゃんをお姫様抱っこしている手は微かに震えている。
起動命令が博士にしか実行できないように、休止命令も博士にしか実行できない。
それもそうだろう。娘と瓜二つの愛ちゃんの起動と休止を他の人に任せることなんてできない。だからこそ、博士自身が実行するしかない。
愛ちゃんが「人」ではないということを実感して、一番苦しいのは俺ではなく博士だ。
しっかりしろ、斑目旭。
「博士、代わります」
「……ああ」
そっと抱き取った愛ちゃんの体はまだ少し熱を持っていた。
見た目は人とほとんど変わらず、言動も人によく似ている。それでも愛ちゃんは人ではない。それは「心」を持っていないから、そういう見方もできるだろう。
固く閉じられた瞼と、一時的に止まっている呼吸、そして全く感じない鼓動がそれを忘れるなと告げてくる。
「ひとまず、博士の研究室に連れて行くということで良いですか?」
「……ああ」
横開きのドアのすぐ側にあるルームプレートには、「AIoidシステム研究室1:責任者・八条相模」の文字。博士は、鍵代わりとなっている所員証をロック部分に触れさせる。
開いたドアの向こう側は、他の部屋と同じように白色で統一されていた。物が定位置に収まっていて、きっちりと整理整頓がなされている。
だけどその中でも、愛ちゃんをちょうど寝かせられるくらいの実験台の周囲だけはお世辞にも整っているとは言えない。
いくつものディスプレイが出しっぱなしで、その向かい側にあるデスクには走り書きのメモが散らばっている。
「愛をここに」
示されたのは案の定その実験台の上だった。ベッドのようになっているところへそっと寝かせると、博士はディスプレイを起動する。画面に現れたキーボードを操作して、愛ちゃんの頭に電極を付けて、維持管理が始まった。
博士の視線は複数のディスプレイと愛ちゃんの間を行ったり来たり。その手は絶えず動いている。この感じだと俺は直接手伝わない方が良さそうだ。
集中した博士を下手に手伝おうとすると、その意識を乱したり邪魔になったりしてしまう。だからこそ、博士の下につく俺たち研究者は、この状態のときに手を出すことを良しとはしない。
ならばせめて、この散らばり具合をなんとかしよう。
「博士、デスクの整理をしても良いですか?」
「……ああ」
確認するのが少し遅かったか。今のワンテンポ遅れたどこか冷たい返事は、聞こえているけど聞こえていない状態だ。
だけどまあ、一応許可はもらったから……問題はないだろう。俺は博士に背を向けて大量のメモと向き直った。
俺が両腕を広げてやっと端と端に届くくらいの大きさにもかかわらず、デスクの白が見えるところはほとんどない。
タブレットやパソコンといったデバイスが発達した世の中で、博士は珍しくアナログメモ派の人なのだ。
アイデア出しの段階や煮詰まったときは紙に書いていて、かといってすべてがアナログなわけではない。俺たちに共有することはデバイスを使ってやってくれている。デバイスとアナログの割合は案外、八対二くらいなのかもしれない。
同じ系統のメモをグループ化して、それをまたグループ化してを繰り返す。
すると、紙の白色とシャーペンの黒だらけの中に、ぽつんと色付く一枚の写真を見つけた。それに寄り添うようにして手書きの楽譜が置かれている。
並ぶ五線譜と歌詞の上部に書いてあるのは「愛しいきみへ」という博士の文字。この曲のタイトルなのだろう。
メロディーだけが書かれているシンプルな楽譜だけど、これはなかなかに……。歌詞のイメージをそのままに、頭の中で再生された曲はどこまでも優しかった。
写真には、まだ黒髪だったころの博士と五年前に亡くなった博士の奥さん、そして……背中の真ん中あたりまでの黒髪と博士譲りの濃い灰色の瞳を持つ十五、六歳くらいの女の子が写っている。三人とも屈託のない笑みを浮かべていて、まさに「幸せな家族」の写真だ。
この女の子は浮かべている表情こそ違うが、まるで愛ちゃんの生き写し。
……いや、愛ちゃんの方こそが女の子——八条愛さんをモデルに造られたのだ。似ていて当然、似ていて必然だろう。
「……斑目」
その声にはっと顔を上げ、振り返ると博士に手招きをされた。
だから俺は何でもないようにその写真と楽譜をデスクの中央……間違っても床に落ちないところに置いて、指示通りにディスプレイの前へと移動する。
現れたキーボードを操作していると、博士は画面に視線を向けたまま言った。
「……顛末書は今日中に提出するように。それと、愛の記憶装置は問題なさそうだ」
一瞬、タイピングの手が止まった。
故障は避けられたのだと、愛ちゃんが記憶をなくすことはないのだと。暗にそう言われて、一気に呼吸が楽になった。
指先が簡単に動くようになり、狭くなっていた視野に気づいた。やっとすべての感覚が戻ってきた。
俺は、メガネをくいっと上げて、「承知しました」と小さな声で答えるのが精一杯だった。
だけどまだ……まだ安心はできない。愛ちゃんが異常なく目覚めたわけではないのだから。
そう考えている間にも、研究室にはキーボードのタッチ音が響いていた。時折、スイッチを押す電子音やシャーペンの筆記音が混じって聞こえる。
愛ちゃんにまた笑顔でおはようと言うために。愛ちゃんとまた今日を迎えるために。愛ちゃんからまた「旭さん」と呼んでもらうために。
俺は改めて画面と向き合い、愛ちゃんの維持管理に意識を向けた。
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