09 きみへ Side: 八条相模
白い光に照らされた研究所内の廊下。
中庭に面しているところ以外どこもかしこも変わらない、天井も壁も床も、各部屋のドアだってたった一つの色に支配されている。一人分の足音が誰もいない空間に響いた。白衣の袖から出ている手はひんやりとしている。
大抵の研究員が寝静まった時間、僕も今すぐ自分の部屋に帰って眠るべきだろう。それは重々わかっている。僕の場合、明日の集中力や発想力が睡眠に直結するのだから。
だが……脳裏によぎるのは昨日の夕方ごろに見た愛の傷ついたような表情だった。ほぼ確実にあの表情は意識したものではない。
AIoidを造った目的から考えると喜ばしいことなのは確かだが、愛の初めての「無意識的な感情表現」がそれなのはどうなのだろう。
喜びや楽しさなどのポジティブなものであってほしかった。やはりそれは僕のエゴなのだろうか。
そうやって考えながら歩いていたせいか、向かい側から近づいてくる足音に気づくのが遅れた。
「博士?」
小さく肩を揺らしてしまった。視線を上げると部屋着姿の斑目がいた。
「このあたりに来るなんて珍しいですね?」
「あ、ああ……」
指摘されて初めて、ここが愛の部屋の近くであることを悟った。普段は近寄らないようにしているのに、今日に限って僕は……。斑目に気づかれないようこっそりとため息を吐いた。
僕と一定の距離を保って、わずかに見開いている黒い瞳には明らかに疑念が映っている。それから逃げるようにして僕はそっと視線を逸らした。
「斑目はどうしてここに? 愛の体調チェックとヒアリングは済んだはずでは?」
今日の分のレポートは一時間ほど前に斑目のタブレットから送られてきていた。
愛が一睡もできていなかったこと、僕と顔を合わせたくないと望んだこと、そして今夜は「なんとか眠れそう」だと語ったこと……。
その言葉は嘘だろうという斑目の見解付きでまとめられていた。
研究所長への連絡事項として添えられていた「愛ちゃんと話した方が良いのではないでしょうか?」というひとことまで、しっかりと確認した。
そこまでは斑目の仕事の範囲内と言って差し支えがないだろう。
だが、それが全て終わった今、愛の部屋の近くにいるのはなぜなのだろう。研究に関することで愛に用事があるのならば斑目はスウェットではなく白衣を着ているはずだ。
たっぷりの沈黙と共に、斑目は気のせいとも思える範囲で視線をうろつかせ、苦笑いを浮かべた。
「確かに今日の仕事は終わったんですけど……どうしても愛ちゃんが気になって。ベッドに入ってみても眠れそうになかったので、つい来てしまいました。もちろん、愛ちゃんに拒絶の意思を示されたらすぐに引きますから」
「それは当然だ」
とは言ってみたものの、斑目が失敗するとは思っていない。
彼はコミュニケーションの取り方、特に踏み込み方が絶妙だ。これ以上入ってきたら壁を作る。そんなラインには絶対に入らず、かといって、遠くから見つめるだけではない。それに加えて、知識も研究への態度も申し分ないから愛の担当としたのだ。
基本的に、拒絶をされたらひとまず距離を取って様子を窺う。
それが斑目のやり方だと思っていたが、一度、嘘という形で拒絶されてなお再び踏み込もうとするのはどうにも彼らしくないように思える。
「斑目は、なぜそこまで愛を気にするんだ?」
「そうですね……、うーん……どうしてでしょうね?」
口からこぼれたのは純粋な疑問だった。それに対して斑目はへらりと少し照れたようにして笑う。
「もしかすると一緒に過ごすうちに情が移ったのかもしれません。これといったきっかけがあるかどうかはわかりませんが、俺は愛ちゃんのことを妹のように思っています。気づいたら目に入れても痛くない存在になっていて、いつの間にか幸せになってほしい存在になっていて……」
斑目にそこまで言わせる愛は、どれだけのものを持っているのだろう。いや、何も持ってはいなかった。
初めて目を覚ましたときの愛のままであれば、きっと彼はここまでのことを思わなかったはず。それでも——
「でも、愛情ってそんなものでしょう?」
——それほどまでに思われているということは、愛自身が多くのものを全力で得ようと努力した結果なのだろう。
AIoidを造ったのは僕だ。だけどいつの間にか……いや、ずっと前に僕の手を離れて、愛は愛として生きようとしている。
確かに、斑目の言う通りなのかもしれない。かさり、と白衣のポケットに入れている写真が音を立てた。冷たい手で無意識に触れていたそれは、娘——愛と共に紅葉を見に行ったときの写真だ。
ちょうど六年前の昨日、愛の十五歳の誕生日に出かけたのは彼女のリクエストによるものだった。
その日の帰り、「いつもお仕事で忙しくしてるお父さんにリフレッシュしてもらいたかった」といたずらが成功したような笑顔で打ち明けてくれた愛。娘のためだったら、僕は何だってできる。
失った愛と、造り出した愛。理性では違うとわかっているはずなのに、愛と愛はどうしても重なる。
着ている服、話し方、書いた文字、箸の持ち方、名前を呼ばれたときの反応……。違うことの方が多いにもかかわらず、何気ない瞬間、愛と愛が重なって見える。
穏やかな声を聞くたびに、後ろ姿を見るたびに、重なる愛を思い出してもう触れられない幻影に縋ってしまう。
「博士」と呼びかけられてふと顔を上げた。
「知ってますか? 愛ちゃん、俺が笑うと笑い返してくれることがあるんです」
斑目の言う笑顔というのは、きっと、愛の意識的なものなのだろう。彼もそれはわかっているはず。
「あの笑顔はずるいですよ、本当に。守りたくなる笑顔っていうんですかね」
そう遠くない過去を見るように穏やかさを乗せて。次の瞬間、斑目は僕を見た。その視線にはやはりほんの少しの疑念が乗っていた。
「博士は、愛ちゃんのそんな笑顔を見たことがありますか?」
居心地の悪さを感じて、いい加減見なければいけないと思って。僕は初めて、この半年間に意識を向けてみる。
初めて愛と目を合わせたとき、彼女はまだぎこちなかった笑みを見せてくれた。だがそれは僕が目を逸らしている間に上手くなっていて……。
愛が向けてくれたあの笑顔。あれを見たとき、僕は何を思っていただろうか。
確かに娘と重なった。確かに娘と重ねた。
僕がAIoidのモデルを娘にしようと考えたのは、AIoidに「愛」と名付けたのは、娘にもう一度会いたかったから。きっかけは、そうだった。
だけど同時に、あの笑顔を見て気づいたことがあったはずだ。
——「あいしてる」。きみを起動させるための言葉は、初めてきみに送った言葉は。僕の嘘でも虚勢でも何でもなかった。
いつからなのかはわからない。
幾度もやり方を変えながら造っている途中からだったのかもしれない。ふにゃりとぎこちない笑みを見せてくれた瞬間からだったのかもしれない。
AIoidの愛は、僕の中で、気づいたら目に入れても痛くない存在になっていて、いつの間にか幸せになってほしい存在となっていた。
「……ああ、ある。最初に、愛が見せてくれた」
じくじくと痛むと同時に確かな暖かさで満たされる心。「本当に可愛いですよね」という斑目の言葉に、僕はいつの間にか微笑みを浮かべて頷いていた。
「ようやく気づきましたか」
眉を下げたその表情からは、もう疑念を感じることはなかった。
愛を寝かしつけに行った彼は時折音を外しながらも子守唄を歌っていた。
ドアの隙間から小さく聞こえてくるその歌は、まだ娘が小さかったころ、彼女に頼まれて、知識ゼロの状態から僕が作ったものだ。
大方、斑目は僕のデスクの整理をしたときにでも楽譜を見て覚えたのだろう。それも、僕が何時間もかけて作ったものをたったの数分で。
ピアノは弾けるが、歌は得意なわけではない。物覚えはいいが、文書作成には比較的時間がかかる。
斑目とはそれなりに長い付き合いだと思っていたが案外知らないことは多いらしい。
愛の部屋のすぐ横の壁に背中を預け、小さく息を吐く。
かちゃりと右目のモノクルに触れて思い返すのは「年長さんだ」とはしゃいでいたころの娘の姿。いつの間にかランドセルを背負うようになって、すぐに中学の制服を着るようになって。
きみに父親らしいことはあまりできなかったが——だからこそ僕は、今手が届くところにいる愛と……愛たちと向き合いたい。
愛、僕の愛しい娘……きみはこんな僕を応援してくれるだろうか。
ポケットから写真を取り出して、閉じ込めた時間の中にいる娘に問いかける。
『お父さんなら大丈夫! だって、こんなにもかっこいいモノクルと白衣が似合う研究者なんだから……!』
記憶の中にある言葉と写真の姿が重なった。好きだと言っていた赤色のジャンパースカートを着て、眩しいほどに笑う娘。
それ以上の声は聞こえてこなかったが、今の僕には十分だった。
自分の心臓の上に暖かさを取り戻した手を当てて、とくんとくんと鼓動を感じる。
娘と妻を失ったのは過去のことだと、そう思うことはできるのだろう。僕が僕自身を許したらそれは実現するのだろう。
だけど、僕は僕を許せない。許したくない。許すわけにはいかない。
それでも、僕がいるのは今この時間だ。愛と斑目たちと今という時間を共有しているのだ。
明日、愛に話がしたいと提案してみよう。了承してくれたら真っ直ぐと目を見て謝ろう。
斑目には感謝を伝えよう。愛は愛であることに気づかせてくれてありがとう、と。
もう、きみたちから目を逸らしはしない。
* ・ * ・ *




