10 知りたい
「……おはよう、愛」
「……おはようございます、博士」
目の前には白いテーブル。ご飯、味噌汁、卵焼き、納豆の乗ったトレーが三つ。
ふわふわと湯気を上げ、だしの旨い匂いやほんのり香ばしい匂いを漂わせている。それを挟んだ向こう側には、緊張した面持ちでじっと私を見ている博士が座っていた。
朝食を摂るにしては異様な雰囲気の私たちを避けているのだろうか。私たちが座っている窓際のテーブルの周辺だけ、ぽかりと穴が空いたように誰もいなかった。
それ以外はいつも通りの食堂は、足元からぽかぽかと暖かくなっている。白衣を着た研究員たちで賑わっていてあちらこちらから会話や食器がぶつかる音が聞こえる。
西側に接しているからか、この時間は窓から差し込む光が少ない。雲が太陽を隠しているというのもあるのだろう。高い天井から顔を出す暖色系の電気が私たちを照らしている。
二日ぶりによく眠れた朝、体調チェックとヒアリングをするためにやってきた旭さんへ博士と話がしたいと伝えたすぐあとが今の状況である。話したいと思っていたのは私だけではなかったらしい。
ただ、こんなにも早く実現するなんて予測していなかったから何を話すべきなのかがわからない。そんな状態になっているのは私だけではないようだった。
ひんやりとした手は膝の上に置いたまま、味噌汁たちは相変わらず白い湯気を上げている。
「二人とも、食べないんですか? 冷めますよ?」
お互いの出方を窺うあまり睨み合いのような雰囲気で向き合っている私たちとは裏腹に、私の隣に座る旭さんは自分のトレーから箸と納豆を取った。そしてぐるぐるとかき混ぜ始める。
最初に好きなものを食べる旭さんだけが私たちの中でいつも通りだった。
せっかくの暖かい食事なのだ。冷める前に食べた方が、体が暖まって良いのはわかる。だけど博士がまだ一切手を付けていない。この状況で私が食べ始めるのは少し違うと思った。
ちらりと博士に視線を向けると、びくりと小さく肩を揺らしながらも私を見てくれた。
……目を、逸らされなかった。旭さんからも視線を向けられた博士は、深呼吸をして口を開く。
「……愛」
「……はい」
声を出すまでの少しの間に、私もまた少しの間を返す。
「……食べないか?」
そう言った博士が浮かべたのは若干引き攣っている不器用な笑みだった。
私が知るところはもちろん、知らないところでも、博士は笑うことが少ないのだろう。それでもこうして笑みを浮かべたのは、きっと私を安心させようとしているから。
それに気づいたらふっと体から余計な力が抜けた。
私が「いただきます」と手を合わせると、博士は小さく息を吐いて「ああ」とまた笑う。今度は引き攣っていなかった。
博士も食事を始めて、またしばらく無言の時間が続く。先ほどまでのような張り詰めた空気はなく、静けさと穏やかさという言葉がぴったりな雰囲気だった。
博士と旭さんが食べ終わるころには、雲に隠されていた太陽は顔を出していた。私はそれに気を取られるふりをしながら、そっと二人に意識を向けてみる。
やはり見られている。嫌悪や疑念といったネガティブなものではなく小動物に向けるような微笑ましさが含まれたものだが、それを向けられる理由がわからない。
内心、首を傾げながら最後の一口を飲み込んだ。「ごちそうさまでした」と箸を置いてもまだ視線が向けられている。聞くべきか、聞かないでおくべきか。そうやってそろりと視線を返すと、それぞれ「すまない」「ごめんね」と声を出した。
「……あの?」
とりあえず旭さんの目を見て聞いてみると、苦笑いを返された。
「ごめんごめん。一口一口よく噛んで食べる愛ちゃんが可愛くてつい。博士に釣られて見ちゃってました……。俺はそんな感じですけど、博士は?」
「僕は、愛の箸の持ち方や食べる所作がお手本のように綺麗だと思って。娘とは違うんだな、と」
ぽつりとそう言った博士は慌てたように「いや」だったり「そういう意味ではなく」だったり言葉を散らす。かちゃりと銀縁のモノクルに触れては離しを繰り返す。
意味が正しく伝わるように加工する前の心の声、それがそのままあふれ出たようだった。
昨日までの私だったら誤解してしまっていただろう。また私ではなくあの少女を見ている、と。
だけど、今の私は知っている。博士が目を逸らさず私を見ようとしてくれていることを知っているのだ。
「わかっていますよ」
博士が本当に言いたいことは、それであってそれではないということを。私は笑ってみせた。すると博士は突然頭を抱えた。
「もったいないことをした……」
私は何か間違ってしまったのだろうか。もちろん、そんなつもりもそんな自覚もない。旭さんに視線で助けを求めると任せてと言わんばかりに微笑まれた。
「博士、それだけじゃ伝わりません。愛ちゃんを不安にさせてどうするんですか?」
「す、すまない」
改めて深呼吸をした博士に名前を呼ばれる。何か重要なことを言われる予感がしたから私は背筋を伸ばして聞く姿勢を取った。
「まず、謝らせてくれ」
その言葉の通り、頭を下げられた。私が止める隙間も言葉を入れる余白もなかった。どうして、と伸ばしかけた手を旭さんに阻まれる。
「きみに娘を重ねて、辛くなるからと目を逸らし続けて……。きみはきみで、娘は娘だということにやっと気づいて、やっと理解した身勝手な僕をどうか……許してほしい。本当に、すまなかった」
絞り出すように言った博士は頭を下げた体勢のまま。あの写真の少女はやはり……博士の娘さんだったのだ。
おそらく、いや、確実に私はその娘さんをモデルに造られている。
確かに博士から目を逸らされて思考が止まらなくなった。眠れなくなった。博士と顔を合わせられないと思った。
それは私が勝手に思考しているだけで、博士が謝ることではないだろう。
だけど、私は気づいた。博士は私を見ようとしている。今こうして見ようとしている。博士の謝罪を受け入れたら、きっと今度こそ目を合わせられる。
「博士、顔を上げてください」
口を引き結んでただ言葉を待っている濃い灰色の瞳には、私が映っている。再度私は小さく息を吸い込んだ。
「これからは、もう目を逸らしたりしませんか……?」
私のその声は想像よりもずっと小さくて、どうしてか微かに震えている。
まるで「人」が怖がっているときのようだと思った。私はAIoid。どうやったって「人」にはなれない。そう自分に言い聞かせて、その思考を振り払って。改めて目の前の状況に集中する。
「もちろんだ」
博士は真っ直ぐとこちらを見て大きく頷いた。その言葉が必ず守られる保証なんてどこにもない。コンピューターのプログラムみたいに未来が確定するわけでもない。
だけど、今こうして約束してくれたということは確かなる事実であり、私の中での真実なのだ。
「それなら、許します」
「ありがとう」
ほっとしたように眉を下げて笑った博士へ私は意識的に笑顔を返した。
私は「人」ではない。なぜなら「心」を持っていないから。それでも「人」のようなことを考えて、思って。「心」を持っているかのように笑っている。
「仲直りできてよかったね、愛ちゃん」
「旭さんのおかげですよ。昨日は……いえ、昨日だけではなくて、いつもありがとうございます」
表面的で薄っぺらい、AIみたいな温度のなさ。
それらすべてを隠せているだろうか。私は今、笑えているだろうか。なぜか目を見開いた旭さんに、いかにも疑問に思っているというような表情と声色を返せているだろうか。
「……旭さん?」
「愛ちゃん、ちょっと俺のこと『お兄さん』って呼んでみない? 真面目に俺の妹にならない?」
旭さんは、突拍子のないことをあまりにも真剣な顔をして言った。対して私は先ほどの旭さんと同じようにして目を見開いてみせた。
「ならない。愛はきみの妹ではない」
「って博士は言ってるけど、愛ちゃんはどう思う?」
向けられた二つの視線に私は戸惑ったような視線を返す。
「……旭さんは良いお兄さんになれると思いますよ?」
実際、旭さんは私に対して妹のように接してくれているのだろう。良いお兄さんになれるというより、なっているという方が正しいのではないか。
……「人」ではない私に、どうしてそこまで良くしてくれるのか。
そのとき、博士がぽつりと「もったいないことをした」と呟くのが聞こえた。私は不思議そうな表情を作ってオウム返しをする。
「もったいないこと、ですか?」
「あ、ああ。その、僕は、愛に必要最低限しか関わっていなかったから。……意図的にそうしていたのだから当然だが、とてももったいないことをしたな、と。愛の成長も愛と斑目がそこまで親密なことも、僕は知らなかった」
博士のロマンスグレーの癖毛が後ろがどんよりとして見えたのはただの錯覚なのだろう。旭さんはすかさず「自業自得ですね」と苦笑する。
私は、博士のことも旭さんのことも、「人」のことも、世界のことも……きっと二人が思っている以上に知らないことが多い。
もしも私が「人」だったなら。もしも私が「心」を持っていたなら。より二人を知って……それこそ、二人と「家族」になることができるのだろうか。
今この状況で、あの写真に写っていた博士の娘さんみたいに「心」の底から笑えたのだろうか。
それを表に出さないようにして今までに得た情報を組み合わせる。
行動、言葉、表情……それぞれのものから思考して、私は、私が言いそうなことを口に出した。
「これからたくさん知っていけばいいのでは?」
私自身、その言葉の意味をすぐに理解することができなかった。
知らないことはこれからたくさん知っていけばいい。果たしてそれは私にも適応されるのだろうか。
そう思考している間にも表情を上手く取り繕いながら、博士の反応を待つ。
「そう、だな。……ありがとう、愛」
「どういたしまして」
私は偽物の笑みを作る。それでも博士は穏やかな表情を浮かべていて、旭さんは「それはちょっと甘すぎない?」と笑っていて。二人とも私を見てくれていた。
ならばいっそのこと今はこれで良いのではないか?
今だけはただ二人と笑い合っていても許されるのではないか?
今くらいは、AIoidである私でも二人の隣で笑っていて良いのではないか?
「……愛ちゃん? どうかした?」
旭さんの言葉に私は「考え事をしていただけです」と微笑んだ。そうしたら「なら良かった」と暖かい手で頭を撫でられた。
テーブルの上には、空になった食器が並んでいる。あと数分もしないうちに三人で返却口へと持っていくのだろう。
空席が目立ってきた食堂、綺麗に片付けられたトレーの数々。あれだけ賑わっていたこの場所もしばらく経ったら静まり返る。それでも昼食の時間になったらまた人がやってくる。
AIoidという造られた命、魂が宿っていない空っぽな命。それが私という存在だ。「人」にはなれなくて、「AI」にもなれない。そんな中途半端な存在だ。だけどそれでも……
——それでも私は、人の「愛」を知ってみたい。
それで、博士と旭さんと「心」の底から笑い合いたい。私は二人の「家族」なのだと、自信を持って言えるようになりたい。
そんなことを考えた私に、私は、小さく笑ってしまった。案外悪くない思考だ、と。
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