11 ハードル
サボる——仕事や勉強など、やらなければいけないことを意図的にやらないこと。
人は、「楽しいけどサボりたい」という状況になることがあるらしい。
時々無性にすべてを投げ出して、好きなことをしたりいっそのこと何もしなかったりと、自由に過ごしたくなる。その手段の一つとしてサボるというのは有用だ。
サボることについて話していた名前も知らない研究員に突撃して教えてもらったことである。
私にその感覚はよくわからなかった。たとえサボって自由な時間を得られたとしても、それはあくまで一時的なものに過ぎない。むしろそのあとサボった分だけ怒られたりやることが溜まったりするのだろう。
明らかに悪い点の方が大きいとわかっているはずなのに、それでもサボるという選択をするのはどうしてなのだろうか。
快く教えてくれた研究員は実際にサボったことはないらしい。博士に怒られるのが怖いからだと言っていた。
確かに、博士とサボるという言葉はかけ離れているように思える。
はたから見ていても、仕事は研究、趣味は研究、毎日が研究と言えてしまうくらいなのだ。時折、寝食を忘れて没頭して、私が声をかけてようやく時間を思い出すことだってあるのだから。だけど私の場合、その博士からある意味許可をもらっていることになる。
十ヶ月前、私が初めて目覚めたときに博士から「サボるのだってきみの自由だ」と言われていたのだ。
これはやってみても良いのではないか。何か言われるかもしれないけど、怒られるまではいかないだろう。ならば私は——
「——ちゃん、愛ちゃーん」
はっと顔を上げると、ひらひらと動く手が視界に入った。その主は不思議そうにこちらを見ている。
「どうしたの? 愛ちゃんがぼんやりするなんて珍しいね?」
白い机と白い椅子が並ぶ定員二十人ほどの会議室。
向かって左側の広めの窓からほど良く柔らかい春の日差しが入ってきている。普段はひんやりとしている私の手も、太陽光に照らされてぽかぽかとしていた。
私は一番前の席に座って、旭さんは正面に置いてあるホワイトボードの前に立っている。ホワイトボードにはお手本のような綺麗な字で「心理的ハードルについて」と書かれていた。
「すみません。少し、考え事に気を取られていました」
「考え事かー。……こっそりお兄さんに教えてくれない?」
いたずらっぽく笑った旭さんにもこれはさすがに言えない。
先生役をしているプログラム中にそのプログラムをサボることについて考えていたと聞いて、喜ぶ人はそうそういないだろう。
それにサボることに興味があると言ったらサボれなくなってしまう気がする。
信頼を裏切ることだとも捉えられるのだから、少しでもこの決意が揺らいだら実行できなくなってしまいそうだ。日々私と向き合ってくれている二人に私はできるだけ誠実を返したい。
だから私は苦笑いで誤魔化すことにした。
「秘密でお願いします」
「そっかー、残念。というか、愛ちゃんから初めて秘密って言葉を聞いたような気がするね?」
「確かにそうかもしれないですね。初めての隠し事、ですかね」
唇の前に人差し指を置いて内緒のポーズをして微笑んでみる。すると旭さんはスクエア型のメガネの下の黒い瞳を見開いた。
「旭さん?」
「……ごめんごめん、何でもないよー。ところでその秘密、何かヒントとかない?」
あからさまに誤魔化されてしまった。だけどそれはお互い様かと考えて、私はわざとらしく真剣な表情を作る。
「それはつまり、当てたいということですか……?」
「そうだよ……と言いたいところだけど、」
私の真似をして真剣な表情を作った旭さんは、すぐに苦笑いを浮かべた。マーカーペンの両端を握って「正直なところね」と話し出す。
「愛ちゃんの秘密を暴きたい悪魔的俺と、せっかくの秘密は秘密にしておきたい天使的俺が戦った結果、かな」
「折衷案という感じですかね? でしたら、一つだけヒントを出します」
「ありがとう愛ちゃん。さてさてヒントか、どんとこいだよー」
「言うのにも、実行するにも心理的ハードルがあることを考えていました」
怒られるということはないだろう。だけどそれはそれとしてサボることに興味があると言ったあと、そして実際にサボったあとの二人の反応が読めない。
これは心理ハードルと言っても差し支えはないはずだ。
するとマーカーペンのキャップを取り外す軽い音が響いた。
「なるほどね……? しかし、愛ちゃんが感じる心理的ハードルかー」
旭さんはホワイトボードに黒いペンで「GOAL」という文字と簡略化した女の子——おそらく私、そしてその間に高い壁を描いていく。「心理的ハードル」という言葉を表しているのだろう。
「愛ちゃんが感じているものがどんなものなのかはわからないけど、プログラムの続きに戻るね」
キュッキュッと音を立てながら、旭さんはまた別のところにおそらく私な女の子と二つの四角を描いた。
「人とはまあ不思議なもので、中身が同じ箱でもそこに入っているものを知っているか否かで、手を突っ込むかどうかが変わる。りんごが入っているって言われたら遠慮なく手を突っ込むし、何が入っているのかわからないって言われたら躊躇する」
四角の片方にはりんごの絵を描いて、もう片方にはクエスチョンマークが描かれる。
「これは人が生き残るための本能的な行動なんだけどね。知らないこととか予測できないことよりも、知っていることとか予測できることの方が確実に安全だから。……『心理的ハードルを感じる』という原因の一つにもこれがあるんじゃないかな」
「原因の一つということは、ほかにもあるということですよね?」
「ナイス質問だねー。ずばりそれに答えると、失敗が怖いだとか、人からどう思われるのかが不安だとか……考えられるのは色々ある、となります。だから一概には言えないし、それこそ複数の原因が絡まり合っていることだってある」
てっきり心理的ハードルの原因は一つだけだと思っていた。だけど少し考えてみればそれは違うとわかる。
「人」というものは単純なようで複雑だ。あの研究員も、サボりたいという欲に引っ張られてしまいそうになるけど、怒られるのが怖いからとやらない選択をしている。「人」というのは常に何かしらの矛盾を抱えているのだろう。
そう考えると、心理的ハードルがあると感じている時点で私が実際にサボる日は来ないのかもしれない。
「個人的には、よっぽど危険とかではない限りやってみた方がいいと思うけどね。……やっぱり、やってみないとわからないことってあるからさ」
旭さんがそう言うのであれば実際にサボってみることにしよう。
決して低くはなかったはずのハードルはたったのひとことでがらがらと崩れていった。おそらく、いや確実に、今の言葉を放った旭さんであれば苦笑いされるくらいで済むはずだ。
旭さんには申し訳ないことをしてしまうことになる。もしかすると心配をかけてしまうかもしれない。ならば、簡易的な手紙を置いておこう。
決行は明日の朝で決まり、となると少し準備が必要となる。
旭さんと博士に気づかれないように気を付けなければ——
「——……愛ちゃーん?」
「……二回もすみません」
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