12 桜の妖精 Side: 斑目旭
今日の愛ちゃん。体調、問題なし。ヒアリングもしっかりと受けてくれた。何か悩んでいるという様子もないし、朝食も完食していた。
気になることとして、昨日のプログラム中から上の空状態となることが多かったことが挙げられる。
ひとまずはと様子見を貫いていたけど今日になってからそわそわ感が増えたようにも思えた。おそらく昨日話していた「秘密」というものが関係しているのだろうけど……。
「……そういうことか」
プログラムの拠点となっている大部屋で一人声に出してしまったのも仕方のないことだろう。
愛ちゃんの定位置となっている席には半分に折られた一枚の白い紙、落ちないようにするためか、マーカーペンが重しとして乗っていた。
いかにも確認してくださいとアピールしているそれを見てみると、愛ちゃんの字で「サボります」と書かれていたのだ。ご丁寧に差出人と受取人の名前付きである。
朝食後、忘れ物をしたからと自分の部屋に戻った愛ちゃん。いつもの部屋に集合という話になり、俺は一度、博士の研究室に顔を出してからこの部屋にやってきた。
だけど約束の時間を五分過ぎても愛ちゃんは来ない。ぎりぎりに来た俺と入れ違いになった可能性は否定されたばかり。
サボるときは何も言わないのが一般的なはずだけど、おそらくそれをわかった上でこの手紙を置いたのだろう。
俺たちに心配をかけないため、同時に、サボることへの罪悪感を消化するため……そんなところなのだろう。本当に真面目な子だ。
東側の窓から差し込む朝の光は俺の心とは裏腹にぼんやりと室内を暖めていた。きらきらと埃を照らしていて、いつしか無音の音が聞こえてきそうになって。
愛ちゃんがいないこの部屋にそわそわし始めた俺は、思っていた以上に愛ちゃんに絆されているらしい。気づいたら小さく笑っていた。
「さて、とりあえず博士に報告かな……」
タブレットに入力するより直接口で伝える方が早いだろう。まだ博士は研究室にいるはず。そう考えて振り返ったら目的の人物がすぐそこにいた。
銀縁のモノクルを右目にかけたロマンスグレーの癖毛の男性。どうしてか腕を組んで壁に寄りかかり、こちらを見ている。横開きのドアはいつの間にか空いていた。
「えーっと、博士……?」
俺の戸惑いの声をスルーして、博士はぽつりとひとこと。
「きみが独り言だなんて珍しいな?」
「……確かにそうかもしれません。俺の独り言と同じくらい、もしくはそれ以上に珍しいことが起こっているので」
「それは僕に報告しようとしていたことと関係あるか?」
「わかっていて聞いてますよね……?」
思わずじとっとした視線を向けてしまって、慌てて謝ろうとしたら止められた。「問題ない」と制した方とは反対の手をその口元に当てている。よく見てみたら細かく肩を震わせていた。
また笑っているのだと、そこで初めて気づいた。
最近はこういうことが増えた。博士も愛ちゃんも、笑うことだったりむすっとした表情だったりと感情を表に出してくれることが多い。その変化に俺が毎回驚くことまでがセットとなっている。
そうなったのは四ヶ月前のあの出来事がきっかけだろう。
ギクシャクしながらも二人はだんだんと良い方向へ変わっていった。「良い方向」というのは完全に俺の主観だけど、AIoidプロジェクトのテーマから考えてもそれは間違っていないと思う。
研究の第一段階が達成される日も案外そう遠くないのかもしれない。
「……斑目?」
壁から背中を離して不思議そうな表情をして俺を呼ぶ博士は、やっぱり愛ちゃんに似ている。
片や人で片やAIoid、血のつながりなんてものはないけど見た目も行動も父娘そっくりだ。濃い灰色の瞳と少し垂れ気味の目の形……見た目については、それはそうだという話ではある。
「すみません、報告しますね」
さて、博士はどう対応すると決めるのだろうか。全く見当がつかない。
せめて愛ちゃんが悲しい表情をするようなことにはならないでほしいというのが俺の正直なところだけど、今回の場合、対応を決定するのはどうやったって博士になる。
報告せずとも把握しているのだろうけど、博士と俺とで認識が違う可能性は十分にあり得る。俺は、俺の視点のありのままを伝えた。
「——いいんじゃないか?」
博士はそう言って口角を上げた。ひとまず認識の相違はなかったことにほっと息を吐きつつ、俺の予想から随分と離れていた反応に軽く首を傾げる。
「自分で決めて実際に行動するというのは簡単なようで難しい。だが今日、愛はそれをやってのけた。……成長したとは思わないか? 毎回サボられるのはこちらとしても堪ったものではないがな」
「愛ならそうはならないだろうが」と付け加えた博士はやっぱり楽しそうだった。俺が想像している以上に、俺が知っている以上に。博士も愛ちゃんも変化している。
確かに愛ちゃんは成長している。サボるだなんて今まででは考えられなかった。
そのことに言われて初めて気づいた俺はまだまだだ。AIoidのお世話係を任せてもらえるくらいにはなっているけど、今の俺はそれ以上でもそれ以下でもないのだ。
それが悔しくもあって、すぐに気づいた博士が羨ましくもあって。
俺も成長しなければ、変わらなければ……成長したい、変わりたいと思わせてくれる二人が誇らしくもあって。
「俺、愛ちゃんを探してきます」
特に脈絡のない言葉に目を見開いた博士は、「ああ」と笑って道を譲ってくれた。
博士に感謝の言葉を伝えてドアの先へと飛び出す。
廊下を挟んですぐ側のガラスに囲まれた向こう側、中央に鎮座して空に向かって枝を広げる大きな桜の木。周囲の低い草花が揺れるたび、ひらりひらりとピンク色の花びらを散らしている。
中庭に愛ちゃんの姿は見えなかった。それもそのはず、こんなにすぐに見つかるころにいるとは考えにくい。俺だったら絶対に選ばない場所だ。
タブレット片手に研究所内を早足で移動する。愛ちゃんがいるのは共用スペースのどこかだろう。自分の部屋にいるのは落ち着かない、そうやって苦笑する愛ちゃんを想像した。
研究所の居住エリアの入り口付近。朝のピークを過ぎた食堂は西側の控えめな日差しに照らされ、暖かさを漂わせたままに人の姿を残していない。
あるものすべて、黄色やオレンジ色を差し色に穏やかな雰囲気でまとめられている。奥の方から、稼働する食洗機の音や食器同士が軽くぶつかる音が聞こえてきた。愛ちゃんはここにもいない。
その隣にある、食堂と同じ色味の団欒スペース。灰色のソファーにも明るい色の椅子にも、この時間にここを利用している人はいなかった。
時折ピアノを聞きたいと頼まれては弾いている、博士が作った子守唄。必ず嬉しそうに微笑むのはきっと無意識のことなのだろう。愛ちゃんはここにもいない。
ならば……どこにいるというのだろう。見逃したところはないかと記憶を遡ってみる。誰もいない空間で顎に手を当てて考える。
ふと思い出して、俺は、到底早歩きだとは誤魔化せないスピードで駆け出した。
プログラムの拠点となっている大部屋がある方とは反対側の廊下を通って、見えてきたのは最初に確認した中庭だ。
「……愛ちゃん」
思わず飛び出た呟きはガラスに阻まれて届かない。
満開の桜の木の下に座って、物憂げな表情で上を向いている空色のブラウスと同じ色味の青いスカートの少女。さっきは影に隠れて見えなかっただけで、愛ちゃんは最初からそこにいたのだ。
まるで「気づいて」と……「ここにいるよ」と言っているような隠れ場所だ。
俺は見事にから回って見つけるのが遅くなってしまった。考えるべきだったのは「俺だったら」ではなく「愛ちゃんだったら」ということだった。
愛ちゃんは人ではなければAIでもない。AIoidという不安定な存在だ。
唯一無二であるからこそ、拠り所がない。日々変化していくからこそ、予測が立てられない。
AIoidプロジェクトの第一段階が達成されたそのとき——AIoidが心に気づいたそのとき、愛ちゃんは俺たちと笑えているのだろうか。
見えない未来が、少し怖い。だけど俺たちは……俺は、今を見つめることしかできない。
愛ちゃんが花びらと共に風に乗ってどこか遠くへ消え去ってしまわないように。俺は、中庭に続くドアを開けて一歩近づく。かさりと音を立てて土と草を踏み締めた。
その瞬間、花の匂いを含んだ一際強い風が吹く。味方をしてくれた風が収まると、濃い灰色の瞳がこちらを向いた。
ああ、よかった。愛ちゃんはそこにいてくれる。
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