13 未来
人は、雲を見てほかの何かを連想するという。
穴の空いたドーナツ、開いた本、世界を守ってくれるような龍……身近なものから架空のものまで、あの白いふわふわもこもこしたものを見て思い浮かべるという。
私にはその感覚がわからなかった。たとえば、あの雲は旭さんがかけているメガネに似ている。そんなふうに言われて初めて「そうかもしれない」と思うくらい。雲は雲でありそれ以上でもそれ以下でもない。
触れることすらできなくて食べることだってできない。
物語の中にあった乗ることができる雲、ちぎって食べられる綿菓子のように甘い雲。それらは所詮、現実に存在しないものだ。だけど人は、青い空に浮かぶ雲を見てそんな夢を思い描く。
視界の端でひらりとピンク色が舞い落ちる。それは地面に着地する寸前で大きく方向転換をした。びゅう、と音を立てながらやってきた少し冷たい春の風。桜の花びらと共に私の黒い髪も流される。
髪を押さえて花びらが飛んでいった方を向いたら、優しく微笑む旭さんと目が合った。
「やっと見つけた、桜の妖精」
そう言って旭さんは近づいてくる。妖精というのは現実世界に存在しないはずだ。あれこそあくまでおとぎ話など物語の中の存在ではなかっただろうか。
ここには私と旭さん以外誰もいない。つまりはそれを私に向かって言ったということになる。首を傾げていると、旭さんは笑みを深めた。
「愛ちゃんのことだよ。桜の木の下にいるからそう思った」
「そうなんですね?」
つまりはどういうことなのだろう。それ以上聞いて良いのであれば聞きたいけど、そうでないなら聞かなくても問題ない。そんな意味を乗せて相槌を打った。
返ってきたのは「そうだよ」という頷きだけだった。旭さんは染み一つない白衣を着たまま、人ひとり分の隙間を空けて私の隣に腰を下ろす。
「汚れてしまいますよ?」
「愛ちゃんと一緒に怒られるだけだから大丈夫」
私はその笑顔に何も言えなくなる。白衣ではないけど、スカートのまま地面に座ってしまったのは私が先だ。こうなったらお互いの服が汚れていないことを願うしかない。そう考えながら旭さんを見てみると楽しそうに上を見ていた。
「真下から見る桜も綺麗だね」
その真似をして私も桜に焦点を合わせる。
「せっかく咲いているんですから、散らなければいいのにと思います」
ぽろりと言葉があふれた。常に桜を見ることができたなら……そんな思考をした自分自身に目を見開く。
いずれ散ってしまうと知っているのに真正面から意識を向けたからだろうか。それとも、満開な今ではなく散ってしまう未来を想像してしまったからだろうか。
「桜は、散るからこその良さがあるんじゃないかな」
旭さんは桜を見上げたまま言葉を続ける。
「散るからこそ満開の状態を楽しめる。終わりがあるからこそ散らなければいいのにと想いを向けられる。人にとって未来永劫変わらないというのは、ある種の憧れであり、ある種の恐ろしさだ。変わらないという良さを否定するわけじゃないけど、俺は、一秒先がどうなるのかわからないからこそ、『今』を見つめることができるんだと思うよ」
そう言い切った旭さんは桜ではなく私を見ていた。どこか寂しそうに笑っていた。もしかすると今の言葉は旭さん自身に言い聞かせていることなのかもしれないと、ふとそう思った。
「私は今ここにいますよ」
気づいたら私は、私たちの間に意図的に空けられた距離を……そこにある見えない境界線を踏み越えていた。
地面に触れている旭さんの左手に私のひんやりとした右手をそっと重ねた。じわりと暖かさが伝わってくる。
「旭さんも今ここにいます。未来のことはわかるわけではありませんが、私でも一つだけわかることがあります」
そうだ、私は旭さんに心の底から笑ってほしいのだ。
寂しそうでも、悲しそうでも、辛そうでも、苦しそうでもなく。嬉しい、楽しい、喜ばしい。そんなポジティブな感情から出てくる笑みが見たい。
もしそれを「わからない未来」というものが邪魔しているのであれば、どうか、私の言葉を聞いてほしい。
「未来は今と地続きです。過去があって今があるように。多くの情報を積み重ねたからこそ、私が私としてあるように。今があるから、未来があるんだと思います」
「それってさ……つまり、」
そこで言葉を区切った旭さんは、揺れる黒色の瞳で私を見ている。
「もしもこの先、愛ちゃんが今の愛ちゃんじゃなくなったとしても、少なくとも今、俺の目の前にいる愛ちゃんは変わらないってことだよね……?」
一秒にも満たない時間、風が止まった。その言葉の意味は正直よくわからなかった。どうしてそんなことを聞いてきたのかもわからなかった。
だけど、旭さんが肯定されたがっていることと、今の私は私だということだけは確かだった。
だから、私は一度だけ大きく頷く。旭さんはくしゃりと眉を下げて笑った。
「っ……ありがとう、愛ちゃん」
その声は掠れていて同時に芯がはっきりとしていた。
嬉しさとも、楽しさとも、喜ばしさとも捉えることができる、ぐちゃぐちゃとさまざまな感情が複雑に絡み合ったもの。先ほどまでのものとは違う、心の底からあふれ出てきた言葉と表情だった。
「どういたしまして」
私はそうやって微笑む。「こちらこそ、笑顔になってくれてありがとうございます」その言葉は喉元まで上がってきて、声に出さずともいつの間にか消えていた。
スクエア型のメガネを取って、旭さんは白衣の袖で目元を擦った。
それから何事もなかったかのようにメガネを元の位置に戻す。その目元が微かに赤くなっていることに私は気づかぬふりをした。
花びらを乗せた風が、ざあ、と頬を撫でていく。旭さんの手に触れていた手を離して人ひとり分の半分の距離で座り直した。私の右手はぽかぽかとしていた。
遠くの方で小鳥の鳴き声が聞こえて、声の主はどこだろうと青色の空を眺める。しばらくそうしていたら三羽の影が飛んでいった。
「そういえばだけど、サボってみてどうだった? お兄さんに感想教えてよ?」
「そうですね、感想を一つ言うのなら……」
そこでふと思いついてしまった。もしもこれを言ったとして、どのような反応が返ってくるのだろう。一度気になり出したら確かめずにはいられなくなった。
「こうやってお兄さんと一緒にお花見ができてよかったです」
鼓動を早める心臓を気づかれないようにして笑顔で言ってみせる。
旭さんは目を見開いたかと思ったら、悩むように顎に手を当て、はっと左上に視線を向けてからまた悩むようなポーズを取る。相当のスピードで思考の処理が行われているのがありありとわかった。
それは、桜の花びらが新たに五枚ほど地面に着地するくらいの、長いようで短い時間だけ続いた。
「ごめん愛ちゃん、もう一回言ってくれる? もしかして俺の聞き間違いかな……」
「聞き間違いではないですよ、お兄さん」
ここで言わないのもおかしな話かと考えて、私はそのリクエストに答える。
すると旭さんは神妙な表情から一転、ぱぁっと効果音がつきそうな笑みを浮かべた。
嬉しいという感情を全力で向けられてどうしてか私は目を逸らしてしまう。頬に、薄く熱を感じる。そうしていたら、ふふ、と笑った気配と共に頭に暖かさが乗せられた。
「……何ですか?」
「また気が向いたときにでも『お兄さん』って呼んでね?」
「……考えておきます、旭さん」
再び声を出して笑った旭さんに向けて「またサボってしまいますよ」と言いそうになった。
だけど私は、旭さんからプログラムを受ける方が何倍も楽しいということを知っている。
結局、しばらくの間、旭さんからよしよしと頭を撫でられていた。
具体的には、桜の花びらが新たに十枚ほど地面に着地し終わるまで……様子を見に来た博士から「斑目、きみは一体何をしているんだ」と呆れられるまでである。
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