14 向き合う
博士と旭さんと出会ったあの日からもうすぐ一年、この青系の色で統一された部屋が私のものとなってからもうすぐ一年。
昨日までと同じように私はベッドに、旭さんは机の下から移動させてきたキャスター付きの椅子に腰掛けている。
背中側から差し込むのは、春から夏へと移り変わる今限定のどこかからりとした太陽光。白いレースカーテン越しに私の体を暖めている。それは、朝の体調チェックとヒアリングを済ませたあとのことだった。
「愛ちゃん、少し頼み事をしてもいい……?」
これを頼んでも良いか、ではない時点でそれは言いづらいことなのだろう。旭さんがここまで私に気を遣うことといえば、ほぼ確実に、私が知らない博士の何かだ。
一日に一回は顔を合わせていた博士をぱたりと見かけなくなったのは三日前のことだった。
何かがあったのだということは、旭さんをはじめとした研究員の様子を見ていればわかった。どうしてか私に向けられる心配の視線たち、何事かと見てみれば逸らされる目線の数々。
どうにも落ち着かなくて食堂では博士の姿を探してしまうし、旭さんとの会話の中でもその話をして困らせてしまう始末。
だけど、私は何も聞かなかった。私はAIoid、研究対象に言えないことは何かと多いのだろうと見て見ぬふりを貫いていた。そんな中での申し訳なさそうな旭さんの言葉だ。
「何ですか……?」
心臓が変なふうに鼓動を早める。
博士に何かあったのかもしれない。その思考に辿り着いて、たまらず私は自分の手で手を握りしめる。手のひらはいつの間にかひんやりと湿っていた。
「実はね……最近、博士が研究室から出てこなくて。朝昼晩関係なく、ずっとこもりっきりなんだ」
「……だから博士を見かけなかったんですね?」
旭さんは静かに一度頷いた。
「博士にはそろそろ出てきてもらわないとさすがにまずい。マスターキーを使って強制的に引っ張り出すこともできるんだけど、たぶんそれじゃあ意味がないから。だから、博士が自主的に出てくるよう手伝ってもらえないかな……?」
旭さんに連れられてやってきたのは、普段私があまり近づくことがない区画にある一つの研究室の前だった。
横開きのドアのすぐ隣、ルームプレートには「AIoidシステム研究室1:責任者・八条相模」の文字。ここは私が初めて目覚めた部屋だ。
先ほどの話の通り、旭さんがノックをしても声をかけても物音一つ聞こえない。小さく息を吐いた旭さんに視線を向けられた。
「お願いしていい?」
「やってみます」
ドアの前の位置を譲られて、私は一度深呼吸。軽く握った拳でコンコンコンと三回ノック。やはり返事はない。
「……博士、一緒に朝食を食べませんか?」
しんと動かない空気に私の言葉は尻すぼみとなった。
その数秒後、ガタガタと何かが落ちるような音と慌ただしい足音が近づいてくる。閉ざされていたドアの向こう側が見えた。
ロマンスグレーの癖毛は見事に爆発していて、その白衣は少しよれている。博士の姿が最初の記憶と重なった。あのときほどではないけど今の博士も十分に疲れて見えた。
目の下には隈があって、数日前とは比べ物にならないほどやつれている。顔は土色、その濃い灰色の瞳には私の姿だけが映っていた。
食事と睡眠をまともに取っていないのではないか。その予想は十中八九当たっている。
隣の旭さんには目もくれず、震える手で私に手を伸ばして——
「あ、い」
——掠れた声で呟いた博士は、ふらりと、その体を傾けた。
「博士……!?」と、手を伸ばしたまではよかった。問題は私の力では受け止めきれないこと。
ドミノ倒しになる体、このままでは後ろ頭を打つ。痛いだけで済めばいいがそう楽観視はできないだろう。それでも、博士が怪我をするより何倍もましだ。
そう考えたのは一秒にも満たない時間だったのだと思う。私は博士の頭を抱え込んでぎゅっと目を瞑った。
だけど、いざやってきたのは想像していたものとは違う暖かさだった。
「……あっぶない危ない」
背中側から聞こえてきた旭さんの声はわずかに震えていた。
両肩を掴む形で支えてくれたようだった。旭さんに全体重をかけた体勢のまま、ずるずると視線の高さが下がっていく。博士と旭さんに挟まれる形となっている私にできることはなさそうだった。
されるがまま、ぺたりと埃一つない床に座り込む。私が後ろに倒れないことを確認したあと、旭さんは正面に回って、私に寄りかかったまま意識を失っている博士をその場に寝かせてくれた。
私よりも暖かくて、しっかりと重さがある。そんな博士が離れてやっと息を止めていたことに気づいた。
冷たい手は微かに震えていて、心臓は走った直後のようにどくんどくんと存在を主張している。
「愛ちゃん、大丈夫?」
その質問にすぐさま「はい」と答えることができたならどれだけ良いのだろうか。私はそうやって思考した。
自分の手のひらから、私を覗き込んでいる旭さんに視線を移す。
大丈夫、と言わなければ。旭さんのおかげで私も……おそらく博士も怪我をせずに済んだ、と伝えなければ。早く何か、返事をしなければ。
「……っ」
喉の奥から出てきたのはそんな空気の音だけだった。旭さんは眉を下げていつものように微笑んだ。
「ごめん、聞き方が悪かった」
頭に優しさが乗り、ゆらゆらと視界が揺れる。その笑みは私を安心させるためであることにそこでようやく気がついた。
「……あさひ、さん」
「急にこんなことになって大丈夫なわけないよね。ごめんね、あらかじめ話しておくべきだった」
大丈夫で在れたなら、大丈夫と言えたなら。こうやって旭さんが謝るようなことにもならなかったのかもしれない。
否定の考えも肯定の思いも、受け取るという意思も受け取らないという意志も、何の言葉も出てきてはくれなかった。
それでも、旭さんは私の無言をそのまま受け取ってくれたようだった。名前を呼ばれてスクエア型のメガネの向こう、真っ直ぐこちらを見ている黒い瞳に気づく。
「あとで話したいことがあるんだけど、聞いてくれる?」
きっとそれは博士の話なのだろう。もしも私が聞きたくないと言えばその通りにしてくれるのだろう。だけど、初めからその選択肢は存在しない。
半年前のあの日から、博士は一度だって私から目を逸らすことはしていないのだ。私を真っ直ぐと見て、私と向き合ってくれている。
それは博士だけではない。旭さんも同じだ。ならば今度は私が向き合う番だろう。博士と旭さんと……そして、私自身と。
だから私はその言葉に小さく頷いた。
* ・ * ・ *
遮光カーテンを閉じて電気を消した自分の部屋。
手探りでベッドに寝転がり、触り心地の良い薄い羽毛布団の下に体を潜り込ませる。太陽の光がある日中はだんだんと暖かくなってきたとはいえ、月が昇る静かな時間はまだ空気が冷たい。
数回瞬きを繰り返すとそのうち物の輪郭が見え出した。このままでは本格的に眠れなくなる。私は無理やり目を瞑った。
すると、昼間に聞いたばかりの言葉が思考の中で再生され始める。
「——博士には、奥さんと娘さんがいたんだ」
からりとした光が差し込むプログラムの部屋は、いつも通り白さに包まれていた。
違うのはホワイトボードに何も描かれていないこと。旭さんは私の隣の席に座って、紛れもなく過去形でそう言った。
「六年前の五月三日、二人が交通事故で亡くなるまでは絵に描いたような幸せな家族だった……らしい。そのとき、俺はまだ研究所にいなかったから、あくまで人から聞いた話なんだけどね」
それは、直接二人を知らない私にとっても意味のある日だった。
五月三日……明日で、私が初めて目覚めてからちょうど一年が経つ。膝の上に置いた手はひんやりとしていた。
「博士はこの時期になると自分の研究室にこもってひたすら研究に没頭するようになる。……これは本人から聞いたわけでもないただの俺の予想なんだけど、たぶん、二人のことを思い出さないようにしているんだと思う」
旭さんは、ふぅ、と息を吐いて机の上で両手を組んだ。
「愛ちゃんが愛ちゃんとして造られたのは、その娘さん……」
そこで言葉を区切った旭さんに改めて真っ直ぐと見つめられる。
「八条愛さんの存在があったからなんだ」
私が、あのとき見た写真の少女——八条愛さんをモデルに造られているというのはわかっていた。
確かに、博士は最初私を見てくしゃりと泣き笑いしていた。確かに、博士は私に八条愛さんを重ねていた。そんなふうに今の話を聞いて納得したところがあるくらいだ。
だけど、それを真正面から言葉として突きつけられるのはどうしても息が苦しくなる。
八条愛さん……私のモデルで、私と同じ「愛」という名前を持っている人。
AIoidの愛は、どうやったってAIにはなれない。どうやったって愛にはなれない。
AIoidは「AIのようなもの」であり、「八条愛のようなもの」なのだろう。
ああ、そうだったのか。造られたときから……造られる前から、最初から私は偽物であり、偽者だったのだ。
でも、それでも——
いつの間にか下がっていた視界の端で何かが動く。すっかり冷たくなった私の手を包んだのは今までと変わらない暖かくて優しい手。
「ごめんね、俺たちの……俺のエゴを押し付けてごめんね?」
視線を上げると、スクエア型のメガネ越しに黒い瞳が私を見ていた。
先ほどと変わらないように、いつもと変わらないように、そんなふうに真っ直ぐと見つめられていた。
——確かに今、旭さんは私を見てくれていて。
「……旭さん」
「うん」
そうやって申し訳なさそうに、そして安心させるように微笑んだ旭さんだけでなく、あのときの約束通り私を見てくれるようになった博士もいて。だから私は——。
「——だいじょうぶ」
小さく呟いた言葉は微睡む意識の中へと消えていった。
* ・ * ・ *




