15 嫌だ
起き抜けに紺色の遮光カーテンを開いても光はほとんど入ってこなかった。
そっと白いレースカーテンの向こうを覗いてみると、大粒の雨が白いタイルを叩きつけている。水飛沫が跳ねて、それが落ち着く前にまた別の水飛沫が跳ねて……。
その日——五月三日は大雨が降っていた。
湿度が高い影響か、それとも薄暗い影響か研究所は普段と比べてずっと静かだ。明るく暖かい色味の食堂も今日ばかりはモノクロに見える。
厳密に言えば特に変わったところはないのかもしれない。昨日と違うことといえば、私が、研究所長である博士の不調を知ったことだろう。トップが倒れた研究所は全体的に元気がなかった。
正面に座る旭さんは五分ほど前に食事を終えていた。私はやっと最後の一口のご飯を飲み込んで、「ごちそうさまでした」と手を合わせる。
それを合図にして、旭さんは窓の外から私に視線を移した。
「愛ちゃん、一つ聞きたいんだけど……博士に会いたい?」
「会いたいです」
深く思考する前に私はそう答えていた。それもそのはず、昨日の夜から決めていたのだ。
博士と会いたい。会って、話がしたい。何の話がしたいのかはわからないけど、漠然とそう思った。
私は博士と向き合わなければいけない。そのためには話をするのが一番の近道なのだろう。
旭さんはゆっくりと一度頷いて微笑みを見せてくれた。
「じゃあ、会いに行こっか」
心臓がドキドキと騒いでいる。肩や背中に力が入っている。そんなあからさまな緊張感とは裏腹に、目的地である医務室までの道中はとにかく他愛もない話をした。
「雨がすごいね」だとか、「今日は朝ごはんに納豆がなくて悲しかった」だとか……。
旭さんのその心遣いのおかげで握りしめていた冷たい拳を緩めることに成功した。
プログラムの部屋に行く途中、普段何気なく通り過ぎている場所にその部屋はあった。旭さんがノックしたドア、その隣のルームプレートには黒文字で「医務室」と書かれている。
「どうぞ」と声が返ってきて、「失礼します」と旭さんが横開きのドアを開ける。
そのあとを追うとつんとした消毒液の匂いが鼻についた。研究所は基本的にどの部屋も白を基調としているが、ここは見える色だけでなく空気までもが白いと感じた。
「……愛」
室内の色とは違う、暖かみのある白衣を着た旭さんの背から顔を出す。
すると、真っ白なベッドに腰掛ける博士と目が合った。白いシャツと黒いズボンをまとっており、いつもの白衣姿ではない。出会ってからちょうど一年が経った今日、博士の仕事外の姿を初めて見た。
壁沿いにある薬品や包帯が入れられた棚、等間隔で置かれている三つのベッド、それを隠すようにしてある白いカーテン、その反対側の事務机には書類が一箇所にまとめられている。この部屋の主である医務員は席を外しているようだった。
私たちは博士が使っている一番手前のベッドに近づく。
その顔はほんの少し赤みを取り戻し、目の下の黒みも多少薄くなっていた。倒れるように眠り、お風呂で暖まって、食事も摂ったのだろう。昨日よりかは随分とよくなっている様子にほっと息を吐く。
旭さんに背中を押され、私は努めていつも通りにひとこと。
「おはようございます、博士」
「……ああ、おはよう」
私とお揃いの濃い灰色の瞳が力なく細められた。
博士に促されて、ベッドの側に用意されていた丸椅子に座る。当たり前のように隣に座ってくれた旭さんに私は感謝の念を送った。
膝の上で手を組んだ博士は、ぽつりと話し始める。
「斑目から、僕の妻と娘の話をしたと報告があった」
「はい」
「……少し、六年前の話をしてもいいか?」
苦しそうに眉を下げた博士に私はすぐさま頷いた。博士にとって良くも悪くも大切な記憶であるそれを話してくれる。
やはり博士は私と向き合おうとして、実際に向き合ってくれている。今はただそれがありがたかった。
* ・ * ・ *
——もしも過去に戻ることができたなら。あの日から、ずっとずっと考えている。
遮光カーテンを閉め切り、空気だけでなく時間までもが動いていないと錯覚する部屋で。直接床に積み上げた本の上に付箋だらけの別の本を置く。先ほどのページには適当なメモを挟んだから問題ない。
白地に黒文字、青いラインが入ったそのタイトルは『人間は「心」を造れるのか』。これをはじめとした先行研究では、決まって「現時点の技術では不可能」だと答えを出している。
確かに人間は「心」を造ることなどできない。おそらくこの先もそれは変わらないのだろう。これに関しては客観性も根拠もあったものではない完全なる主観だが……逆に、その前提で考えてみるのはどうだろうか。
温度のない白色の光で手元を照らして、連鎖的に繋がっていく思考をシャープペンシルで書き留める。
両腕を広げても端と端に届かない机いっぱいに広げた模造紙は、すでに三分の二ほどが文字や図形で埋め尽くされていた。残りの三分の一もすぐ黒く染まるだろう。
だが、そんなことは関係ない。今は考える必要もない。床にスペースを作って同じ大きさの模造紙を広げているのはこのためだ。
右手の側面はあとで洗えば問題ない。今はただ、やっと動き出した思考をリアルタイムに書いていくだけ。
手のひらにも背中にも、体中にじっとりと汗をかいている。かといって暑いわけではなく、むしろ末端は冷たい。糖分不足で震える指を無理やり動かした。
自分の体であってそうではないような気持ち悪さ。思考を、視線を、手を……一瞬でも止めてしまったらしばらく動けなくなる。もはや予感ではなく確信だ。
早鐘を打つ心臓の音、ガリガリという筆記音、腕を動かすたびに聞こえる衣擦れの音、忘れたころに再開する呼吸音。そして、時の流れを決定づける秒針の音。思考のノイズとなるそのすべてを意識的に遠ざける。
「お父さーん」
背中側、扉一枚挟んだ先から聞こえてきた声。一秒にも満たないわずかな時間、手が止まりそうになった。
「ねぇ聞いてる? お父さんってば」
「こらこら、仕事の邪魔しないの。お父さんは忙しいみたいだから二人で行こう?」
大切さに順位をつけるとするならば自分自身よりも随分と上、文句なしの同率一位。妻と娘の声に意識の三十パーセントほどを奪われながらも、僕はガリガリとシャープペンシルを動かす。
「お母さんは甘すぎるよ」
「お父さんと愛限定だからいいの」
「全然良くないし」
「ほら行くよ」と遠ざかる一つの足音にほっとした自分がいた。
「……んもー、ちょっと待ってて!」
愛は素直に付いていかず、拗ねたような声を出す。
「お父さん、手は離せないかもしれないけど耳だけ貸して!」
その声の勢いとは裏腹に、コンコンコンと三回響いたノックは控えめだった。別の人がノックしたと言った方が納得できるくらいだ。
そこで初めて、愛は愛で僕のために遠慮してくれているのだと悟った。
「ゴールデンウィークくらい家族サービスしてよね!」
先ほどまでは全く見えていなかったはずのカレンダー。五月三日は赤で丸く囲まれ、その下には赤文字で「三人でおでかけ!」と書かれている。
三週間ほど前から毎日目にしていたはずなのに、僕は……。
「っていうかさ、入学式来てなかったでしょ。来るって言ってたのに。可愛い可愛い一人娘のせっかくの入学式だったのにね? ……私が結構根に持つタイプなの、お父さんならもちろん知ってるよね」
それでも手は止めない。止めてはいけない。この思考を逃してはいけない。一週間煮詰まっていたものがやっと動き出したのだ。ここで手放すのはもったいなさすぎる。
「愛ー! 行くよー!」
「はーい! すぐ行くからー!」
玄関に向けて声を投げるその隙に、いつの間にか五十パーセントほど向けていた意識を思考へと取り戻す。
「まあ、その……だから、許してほしかったらちゃんと埋め合わせしてよね! また今度の休みにでもさ。それじゃ、いってきます!」
三週間前にあった愛の高校の入学式の埋め合わせ。
今日の三人の外出で散歩を兼ねて徒歩十五分のところにあるカフェに行くだけのことで、その大きなイベントをすっぽかした僕を許してくれる。
研究よりも何よりも優先すべきことはわかり切っていたはずなのに。愛との約束を思い出したのは、すべての取り返しがつかなくなったあとだった。
* ・ * ・ *
「何度も考える、考えてしまう。僕が……僕があの子たちの代わりに死んでいれば良かった、と」
そう言った博士は下手な笑顔を作った。「こんな話をしてすまない」と無理やりに笑った。
笑顔になれるような話ではないのに、聞いている私ですら笑えるはずがないのに……むしろ、笑うよりも泣いてしまった方が楽だろうに。
私を安心させるための表情だろうとすぐに見当がついた。だから私は大丈夫だという意味を込めて笑顔を返そうとする。
だけど、できなかった。
博士が死んでいれば良かった?
そんなわけがない。それを笑顔で誤魔化したくなんてない。その話をしてくれた博士に対して、誤魔化すのは誠実ではないと思った。……私は、私を真正面から見てくれる人に誠実でありたいと思った。
今こうして博士がいるからこそ私という存在が造られたのだ。その博士が死んでいれば良かっただなんて……ならば私は何なのだろう。
どくんどくんと心臓の音が大きくなる。
あの写真で笑っていた八条愛さんだって、博士が死んでいれば良かっただなんて思うはずがない。
あの幸せそうな笑顔は、あの撮影者を見つめる暖かな笑顔は、絶対に「心」の底からあふれ出てきたものだから。絶対に本物だから。「心」を持たない、所詮ニセモノな私には作れない本物の笑顔だから。
握りしめた冷たい拳の震えが止まらない。
博士が八条愛さんを想っているように、八条愛さんも博士を想っている。写真を見ただけの私でも……「愛」を知らない私でもそれわかったのだ。
それにもかかわらず、博士はどうして自分が代わりに死んでいれば良かっただなんて言うのだろう。
額が、熱くなる。
思考がまとまらない。両手で触れた頭はやけどしてしまいそうなくらいに熱を持っている。
視界が、揺れる。
頭の熱が目元に集まってきてじわりと滲む。とうとう耐えきれなくなってぽろりとこぼれてしまった。それは頬を伝っていくうちにぬるくなって、ぽたぽたと青いスカートに染みを作る。
「……愛」
ぼやけて見える博士は、どうしてか先ほど見たものよりもずっと苦しそうだった。その表情に浮かんでいるのは心配とは少し違う苦しさだろう。
もしも……もしも私のせいでそんなふうになってしまっているのなら、どうか私から目を逸らしてほしい。博士が苦しむくらいなら、私を見なくたっていい。
「……愛、泣かないでくれ」
懇願するように名前を呼ばれる。私は泣いているのだろうか。これは、本当に涙なのだろうか。ならばどうして。どうして私は泣いているのだろう。
視界がだんだんと黒く染まっていく。時折ちかちかと白く光る。
ああ、これはいけない。止めなければ。そうしなければ、故障してしまう。それを避けるためにとシャットダウンされてしまうだろう。
「……すまないが、」
躊躇うように手が伸ばされる。
ほらやっぱり。ああ、いけない。それはダメだ。絶対に避けなければならない。胃の部分から喉の奥から、大きな違和感が迫り上がってくる。
知らないうちにすべてが終わっていて、いつの間にかすべてが始まる。
私はAIoidだ。博士たちの研究対象だ。だけど、私は私だ。博士たち向き合いたい。これは、私の思考の結果だ。
だから、いけない。だから、ダメだ。勝手に私を変えられるのは、それは避けなければならない。
なぜなら——私が嫌だから。
伸ばされた博士の手を振り払って、がたりと椅子を倒して立ち上がる。
傾きそうになる体に無理をさせながらドアの向こうへ一直線。背中の方から聞こえた声に無視をして、喉元の違和感を強引に飲み込んで、自分の部屋へと駆け出した。
* ・ * ・ *




