16 言葉
すべての感覚が遠い。
ひんやりとした手が自分のものであってそうではないような感覚、嗚咽を上げて涙を流しているのはどこか遠いところにいる自分以外のような感覚。
それでも頭を支配する嫌な熱さだけははっきりとしている。
「……ひっ……く、……ぅ、うっ……」
そうやって彼女は泣いていた。
自分の部屋の鍵を閉めてベッドの上で丸まって上から布団を被って。泣きたくなんてないのに泣いていた。呼吸すら上手くできない初めての経験に苦しみながら、声を殺して泣いていた。訳もわからず泣いていた。
一方、私は考えていた。
あの言葉はどういう意味を持っていたのだろう。もう一度、思考の中で再生してみる。
『僕があの子たちの代わりに死んでいれば良かった』
そうしたら彼女の涙と嗚咽の量が増えた。それでも私は考えなければならなかった。
あの言葉にはそれ以上もそれ以下もないのかもしれない。ただ博士がそう思っているから口に出しただけ。
だが、それならばあのあと笑ったのはどうしてなのだろう。博士の方が苦しいはずなのに、なぜ。
仮に、私を安心させるためだったとしてみよう。……いけない、これでは一つ大きな疑問が出てくる。私を安心させるというのは、博士自身の苦しみを無理やり隠してでも優先されるべきことなのだろうか。
彼女は言った。博士は私を愛してくれているのだ、と。
だが、私はAIoidだ。「心」を持たない造られた命だ。
AIoidは「心」がわからないから、「愛」に気づくことはできないのではないか。その「愛」というのは私が誤認している別の何かではないか。
彼女は言った。だったらこれは何というものなのだ、と。
それに正しく答えられる言葉を私は知らない。私を構成する情報にその答えは存在しない。
彼女は言った……否、何かを言おうとしていた。口を開きかけて、すぐに閉じてを繰り返していた。
私はただ、彼女の言葉を待つことにした。十秒、三十秒、一分、三分、五分、十分。私はひたすら待った。私が知らない答えを、彼女は知っている気がしたのだ。
彼女の思考を止めたのは、部屋の外から聞こえたノックの音だった。
「愛ちゃん」
彼女はその旭さんの声を聞いてほっと息を吐いた。
私にはその行動の理由がわからなかった。
ただ名前を呼ばれただけ。ただそれだけのことになぜ彼女は息を吐いたのか。この現象を表す言葉はあるのだろうか。もしあるのならば、どうかそれを教えてほしい。そうしたら私は彼女の行動を説明することができるようになるだろうから。
「愛ちゃん。何も言わなくて大丈夫だから、少し聞いてくれる?」
彼女は頭から被っていた布団の隙間から顔を出してドアの方を向いた。相変わらずその瞳からは涙がこぼれていて、だけど、先ほどよりも幾分かましになっているようだった。
「博士は……博士も愛ちゃんも、お互いにお互いと向き合おうとしている。俺は横で見ていただけだったけどそう思った。博士も博士なりの理由があってあの話をしたんだろうね。でも、それはきっと上手く言語化できるものではなくて……俺もそうだし博士もそうだと思うんだけど、人の心なんて明確な言葉にできることの方が少ないからさ」
彼女は涙を止めていた。じっとドアの方を見て、旭さんの言葉に耳を傾けているようだった。
「言葉っていうのはどこまでいっても借り物だよ。無数という名の有数の中から自分自身の心に合う言葉を選ぶ。これがいわゆる言語化というものだと思う。借り物だから、それがぴったりとは限らない」
彼女はぎゅっと握っていた布団を放した。するとそれは、するりと音を立ててベッドの上に落ちた。
「それでも言葉を探して、伝えるようにしている。その言葉が本物か偽物かなんて、結局、自分次第なんだから。その心と言葉が合致していると思ったら本物になるし、そう思わなかったら偽物になるんだよ。それは、自分の言葉でも誰かの言葉でも変わらない」
彼女はベッドを下りた。一歩、また一歩とドアへと近づいた。
「だから……愛ちゃんは、どう思った? どう考えた? どう感じた? よかったらお兄さんに教えてくれないかな。もしわからないのであれば、わからないって教えてくれたら嬉しい」
彼女は鍵に手を伸ばした。一度、深く呼吸をした。そして、ドアの向こうを見据えた。彼女は鍵を開け、ドアの隙間からそっと顔を出した。
私にはその行動の理由がわからなかった。
彼女が旭さんの言葉に動かされた、そう言い切ることもできるのだろう。だが、それでは行動の動機付けとしては足りない。彼女は旭さんの言葉の何に動かされたのか、これへの答えが必要だ。
だから私はもうしばらく二人の言動を観察してみることにした。
「旭、さん……」
「うん」
「聞いて、くれますか……?」
「もちろんだよ」
毎日の体調チェックとヒアリングのときのように、彼女はベッドに、旭さんは机の下から移動させた椅子に座る。
先に話し出したのは、意外にも彼女の方だった。
「『代わりに死んでいれば良かった』……博士はそう言っていました」
「そうだね……」
たっぷりの間を空けて、彼女はじわりと浮かんでくる涙を堪えようとする。
それを見て「大丈夫だからね」と微笑んだ旭さんは、彼女の頭をその暖かい手で優しく撫でた。ただそれだけのことで、彼女は再びぽろぽろと涙をあふれさせる。
「どうして……どうして博士はそう言ったのかな、どうしてそう考えたのかなって。だって、そうしたら……博士が本当に代わりに死んでいたら、私は造られませんでしたよね。それに、……博士を想っていた八条愛さんが悲しむと思います」
彼女はそこで言葉を止めた。何かを迷うように瞳を揺らして、「旭さん」と名前を呼ぶ。
「何かな?」
予想以上に真っ直ぐと返された視線に気づき、彼女は息を呑む。そして一度目を瞑って深呼吸をして、全身に入った余計な力を抜こうと意識を巡らせた。
再び瞼を開いたとき、もうその瞳は揺れていなかった。
彼女は先ほど私に対して言わなかったことを旭さんへ伝えようとしている。小さく息を吸った彼女を見て、どうしてかそう思考した。
「今のこの思考と感情に言葉を付けるなら……『悲しい』が相応しいのではないかと思うんです」
悲しい……。彼女は、悲しんでいるからこんな状況になっているのだろうか。旭さんはスクエア型のメガネの向こうで目を見開いていた。
「悲しいから涙が出てくる。悲しいから苦しくなる。悲しいから、私は……」
彼女から「悲しい」という言葉が出てくるだなんて信じられなかった。
……信じるも何も、彼女に……私に「心」はない。信じるだなんて、信じられないだなんて、そんな「心」はないはずなのだ。
「だけど、私はAIoidです。『悲しい』だなんて『心』、私が持っているはずがないんです」
そうだ、私は「心」を持たないAIoid。造られた命。何者にもなれないニセモノの存在。だけど……
「それでも、私は『心』を知ってみたいと……信じてみたいと思ったんです」
旭さんの黒い瞳を真っ直ぐと見られなかった。違うと言われたらどうしよう。否定されたらどうしよう。
「心」を信じられない私を私は認められなかった。「心」を信じようとする私を私は認められなかった。
寒くなんてないのに震える自分の体を抱き締める。二の腕に爪が刺さってじくじくと痛む。皺になってしまった青いスカートを視界に入れることすらできなくなって、私はぎゅっと目を瞑る。そうしたら瞳から涙がこぼれた。
熱くて、それでいてひんやりとしたものがあふれ出した。ぽろぽろ、ぼろぼろと止まらない。涙は熱いのに、冷たいものが迫り上がってくる。
まるでぽっかりと穴が空いてしまったようだった。
今まで当たり前にあった前提が揺れて、ゆっくりと崩れていく。渦になった「わからない」が襲ってくる。そうしたら涙が止まらなくなって、それが穴を塞ぐ邪魔となる。
「愛ちゃん、」
ふわりと、包み込む暖かさを感じた。旭さんの爽やかな柔軟剤の匂いをすぐ近くに感じた。とんとん、と背を叩かれ、「大丈夫、大丈夫だよ」と言葉をかけられる。おそるおそる腕を回すと、苦しくない程度の力で抱きしめられた。
もう、耐えられなかった。不確かな私をすべて手放してしまいたかった。
「……っ、————!」
どれくらい泣き叫んでいたのだろうか。
わからない。わからないけど、確かなものはあった。背中を優しく叩いてくれていた暖かさと、柔らかい匂い。そして——
「——大丈夫だからね、愛ちゃん……おやすみ」
そんなどうしようもないほどに、優しい言葉だった。
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