17 娘 Side: 八条相模
耳を塞いでしまいたかった。この場から離れてしまいたかった。愛の泣き叫ぶ声から、逃げ出してしまいたかった。
だが、僕はここにいなければならない。愛がそうなったのは僕のせいなのだから。……僕よりも、愛の方が苦しいのだから。
しっかりと閉じられたドアのすぐ側で、それでも聞こえてくる苦しい声を僕はただ聞くことしかできない。
隣の壁に背を預けて、瞼を閉じて受け入れる。組んだ両手はじっとりと湿っていて普段の暖かさはそこになかった。
僕はどうしてあんなことを言ったのだろう。少し考えれば愛が傷つくことだとわかったはずなのに。愛は僕のせいで苦しんで、僕のせいで思考して……僕のせいで故障の危険に晒されている。
あのとき、無理やりにでもシャットダウンを実行すれば良かったのだろうか。あのとき、よろよろと去って行こうとする手を掴めば良かったのだろうか。
……どれだけ後悔したとしても、愛にあんなことを言ってしまったという事実は変わらない。それはわかっている。わかっては、いるのだ。
「博士」
その声に瞼を開くと、僕を真っ直ぐと捉えている斑目の姿があった。気づいたら愛の部屋からは何も聞こえなくなっていた。
どうしてか白衣を羽織っていない彼は小さな疲れを浮かべながらも微笑んでいる。
「愛は、どうだった……?」
聞くべきではないことだ。そうだと十分にわかっているつもりだった。
斑目に愛の様子を窺ってほしいと頼んだとき、うっすらと向けられた感情が何だったのか。それがわからないほど僕は鈍感にはなれない。
「博士、」
再度僕を呼んだ声は、先ほどよりもずっと硬い。笑っているはずなのに喜と楽の感情は全く見えなかった。
普段の斑目からは考えられない声のトーンに思わずごくりとつばを飲み込む。しん、と空気が白く張り詰めた廊下では、その音がやけに大きく聞こえた。
「愛ちゃんのことが気になるのであれば、彼女が目を覚ましてから自分で確かめてはどうですか?」
今、彼が抱いているのは確かな怒りの感情だ。
以前、斑目は愛のことを目に入れても痛くない存在だと言っていた。
それは変わらないどころか、今はあのとき以上に愛のことを想っているのだろう。僕の前でもたびたび「今日も愛ちゃんが可愛かった」と話している。もちろん、研究員としての仕事とは別に。
愛を妹のように溺愛している斑目が、愛を傷つけてしまった僕に対して怒らないはずがない。挙げ句の果てに僕はそのケアを自分でやろうとせず、斑目に押し付けるような形を取ってしまった。
それも、また愛から拒絶されるのが怖いからというどこまでも自分本位な理由で、だ。
斑目の怒りには正当性しかない。だから、僕は「すまなかった」と頭を下げた。
その体勢を保つこと数秒、降ってきたのは大きなため息だった。おそるおそる顔を上げると斑目は再びにこりと笑った。
「謝る相手が違うのでは?」
「そう、だな……」
本当にその通りだ。僕の言葉で傷ついたのは斑目ではなく愛なのだ。僕が今、謝るべき相手は……愛だ。
斑目は僕自身に対して怒っているのではない。彼が怒っているのは、僕の言動によって愛を傷つけたことに対してだ。
斑目が……彼と愛がどう受け取るのかを真の意味で考えず、ただひたすら「僕は二人と向き合っている」と思いたくて。そうやって、より深く思考することを放棄した僕のせいで、結果として斑目を怒らせて……愛を、苦しませてしまった。
きみには幸せでいてほしいと願っているのに、きみから目を逸らさないと約束したのに。
『僕があの子たちの代わりに死んでいれば良かった』
この言葉を放ったとき、僕は何を見ていたのだろう。
きっとそれは、僕と同じ濃い灰色の瞳に映る……僕自身の姿だった。
「そんなに苦しそうな顔をしないでください。愛ちゃんがまた泣いてしまいます」
怒気が見え隠れする笑みは、もう斑目の顔にはなかった。代わりに、苦く、それでいて真剣な表情がそこにはあった。
僕はその黒い瞳を見返してあらためて姿勢を正す。何か、とても大切なことを伝えられる予感がした。
「笑顔でいる……とまではいかなくともせめて言葉にしてください。苦しそうな表情のまま、ただ謝るだけではダメですよ。苦しいと感じているのならその苦しさを言葉にして伝えてください。愛ちゃんはもう、受け止める準備ができているはずです。だから下手に隠さないで真っ直ぐと伝えて、その上で愛ちゃんの言葉を受け止めてください」
斑目は僕の何倍も愛に寄り添って、愛を理解しようとしている。そんな彼に愛は信頼を置いている。
数ヶ月前、斑目から愛に「お兄さん」と呼ばれたという報告があった。愛は斑目の妹ではないと釘を刺した裏で、当然だろうと納得したのだ。
それくらい、彼は愛に心を砕いているのだから。
対して僕はどうだろうか。本当に、真っ直ぐと向き合えているのだろうか。……否、表面的にしか向き合えていない。その証拠となるのが愛に言ってしまったあの言葉となるだろう。
僕は、今度こそ向き合わなければいけない。本当の意味で、深いところまで。
今度こそきみの瞳を見つめなければ。
……いや違う。僕が、僕の意志で向き合いたいのだ。
「ありがとう、斑目」
その言葉は意外なほどにするりと出てきた。
「お礼を言われるほどのことではないですよ。俺は、俺のやりたいことをやりたいようにやっただけです」
つまりは愛のためなのだろう。穏やかに笑った斑目を久々に見た気がした。
「きみは本当に愛が好きだな……」
「もちろん、可愛い可愛い妹ですから」
わざとらしくちらちらと僕を見て、あまりにも自慢げに頷くから少々腹が立った。
「愛はきみの妹ではない。僕の娘だ」
わずかに目を見開いてから斑目は「それはどうでしょうね?」と言う。
どうしてか嬉しそうに笑った彼はもしかすると意図的に僕を挑発したのかもしれない。全く、末恐ろしい部下だ。
目を伏せて思い返すのは、全身を使って全力で心を表す娘の姿。嬉しいときは声を上げて笑い、悲しいときはとめどなく涙を流す。
もう、触れることも言葉を交わすことも叶わない。
無意識のうちに触れていた右目のモノクルがかちゃりと音を立てた。
娘がお小遣いを貯めて、僕の誕生日に贈ってくれた度が入っていない伊達メガネ。似合いそうだからという理由なのがまた娘らしいと思う。
あのときもらったものはもう壊れてしまったが、娘が褒めてくれたという記憶は確かに残っている。
『だーかーら、お父さんなら大丈夫だって言ってるでしょ! モノクルもばっちり似合ってるんだからもっとかっこよく自信を持って、ね?』
……ああ、そうだな。僕は今度こそ間違えるわけにはいかない、間違えない。どうか、こんな僕を見守っていてくれ——愛。
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