18 信じる
近くに柔らかい匂いがして、瞼を開こうとした。だけど、いつものように何の抵抗もなく開いてくれるわけではなかった。
腫れぼったい目でぼんやりと見回してみる。
白いレースカーテンの向こうから差し込んでくる光は暖かみのある橙色をまとっていた。天井と壁はその光の色にうっすらと染められている。枕元の時計は夕食の直前の時間を示していた。
存在を主張してきていたはずの額の熱はもうその気配すらどこにもない。
ふと額に触れようとして初めて、自分の手が握っている白い布の存在に気づいた。ゆっくりと両手を開くとくしゃくしゃになってしまったそれが姿を現す。私の体温で温められていたのは、ひどく見覚えのある白衣だった。
ひとまず私はそれを畳むことにした。深い青色のベッドの上で正座をして、少しよれている旭さんの白衣と向き合う。
何と言って返せば良いのだろうか。ごめんなさい、ご迷惑をおかけしました、心配かけてすみません……。
考えつくことはあるけど、どれもいまいちしっくりと来ない。その数十秒後によぎったのは、旭さんは謝罪の言葉より感謝の言葉を求めているのではないかという予想。根拠も何もあったものではないけど絶対にこれだと思った。
そうやって答えが出て、ふと、眠る前よりもずっと思考がクリアになっていることに気づく。
博士たちが私をシャットダウン、そして向上をした……とは考えにくい。証拠としては弱いけど、今、目の前にある旭さんの白衣の状態が状態なのだ。それにあのシステム音声が聞こえたという記憶はない。
ならば何なのだろう。眠る前と今との差は何だろう。何か状態が変化した明確なきっかけはあっただろうか。
泣くという感情表現をしたからなんていう「人」のような理由ではないだろう。私は「人」ではなくAIoidなのだから。
だけど、どこかにある自分の思考がそれは正解だと告げてくる。理屈では違うとわかっているはずなのに実際の思考は矛盾だらけ。まるで「人」のようだ……と考えて、思わず小さく笑ってしまった。
ああ、私はどうやったってAIoidなのだ。どうやったって「のような」存在なのだ。ほかでもないそれが私なのだ、と。
私は、私として在りたい。
旭さんと博士が向き合ってくれる私として、「心」の底から笑いたい。二人と「家族」になりたい。そのためにはここにいるだけではいけない。先へ進まなければ。いい加減、認めなければ。
畳んだ白衣を抱えて私はベッドを下りた。ふらつくことはなかった。
ドアの前に立って、大きく一度深呼吸。反対の手で服と髪を軽く直してから横開きのドアを開ける。青系の色で統一された私の部屋とは違う白に包まれた空間へと、私は一歩踏み出した。
不思議と足取りは軽やかだった。もうすぐ夕食の時間だから皆食堂に集まっているのだろう。誰ともすれ違うことはなかった。
プログラムの部屋の横を通り過ぎて——案の定、鍵が閉まっていて、電気も消されている——、中庭の横を通り過ぎて——雨粒が残っているのか、オレンジ色の夕焼け空に照らされて葉桜がきらきらと輝いている——、面談室の横を通り過ぎて——ここも戸締り万全、電気の消し忘れもなさそうだ——……ぐるりと遠回りをしてやってきたのは、博士の研究室だった。
『AIoidシステム研究室1:責任者・八条相模』
きちんとルームプレートを確認して、コンコンコンと三回ノック。博士と旭さんはきっとここにいる。
「はーい」という声が聞こえてから十数秒後、ドアが横に開かれた。
「愛、ちゃん……?」
ドアノブを掴んだ体勢のまま、旭さんは、スクエア型のメガネの向こうにある黒い瞳を丸くしていた。羽織っているのはおそらく予備の白衣なのだろう。
いつもと変わらない、いつものように頼れる。そんな旭さんの姿だ。
どうしてかぼやぼやと視界が歪んできた。目元に熱が集まって、そのうち堪えきれなくなって、ぽろりと涙がこぼれ出る。
「ぇ……な、……ど、どうしたの? 大丈夫……?」
旭さんはうろたえながらも、ポケットから取り出した黒いチェック柄のハンカチで優しく目元を拭ってくれた。私の目線と合わせるように屈んで背中に触れて、「ゆっくりで大丈夫だからね……?」と微笑んでくれる。
早く何か言わなければ。そうしなければまた心配をかけてしまう。それでも呼吸するのに精一杯でなかなか言葉を出せずにいると、部屋の中から博士が出てきた。
「何かあったのか、まだら……め?」
その濃い灰色の瞳と視線を交差させる。その右目にはよく似合っている銀縁のモノクルがかけられていて、ロマンスグレーの癖毛は気のせいか少し大人しめだった。
いつもと変わらない、いつものように見てくれる。そんな博士の姿だ。
「……ひっ、く……、ぅ、っく……」
今度は嗚咽を抑えられなくなった。次から次へと熱さが目元に集まってきて、どうしようもないというようにぼろぼろと涙があふれ出る。
「愛、どうしたんだ……?」
そうやって苦しそうに顔を歪めた博士を見て、私は悲しいと思った。
そんな顔をしないでほしい。そうなっているのが私のせいだと言うのなら、それはとても悲しいと思った。だけどそれを言葉に出すあと少しの勇気が出ず、代わりに涙が止まらない。
「すまない……僕はまたきみを傷つけるようなことをしてしまったみたいだ」
ぐちゃぐちゃになった視界で謝罪の言葉を紡ぐ博士は、ぐちゃぐちゃな表情を浮かべていた。苦しい、辛い、心配、後悔、反省、悲しい……そのすべての感情が、無理やり作られた笑みに込められていた。
「……ぅ」
声が上手く出てくれない。
「すまない、もう一度言ってくれるか……?」
ひたすら謝ることをする博士を目の前にして、止まるどころかさらにあふれてくるこの涙は「悲しい」の言葉だけでは表せそうにない。
「僕は、きみが泣いていると苦しいんだ。きみには幸せが似合うから、だから、頼む……泣かないでくれ」
私は……私は博士が苦しそうな表情をしていると悲しい。そう言う博士の方こそ幸せが似合う。八条愛さんだって、博士には苦しんでほしくないはずだ。苦しまないで、幸せに笑っていてほしいはずだ。
だからこそ、博士の言っていることを「違う」と否定しなければいけない。
だけど……前に進みたいと思考したのに、言葉にすると決めたのに、どうして私は何も言わないのだろう。何も、言えないのだろう。
とん、とん、と暖かい手で背中をゆっくりと叩かれた。隣の旭さんはふわりと笑うだけだった。それは私を安心させるため、「大丈夫だよ」という言葉を伝えるためなのだとすぐに気づいた。
旭さんはもう一度私の涙を拭ってくれた。ずっと止まらないと思っていた涙が一瞬だけ晴れる。またすぐに視界は歪んでしまったけど、今はそれで十分だった。
「ちが、う……ちがい、ます」
喉の奥に詰まっていたものがするりと抜ける感覚。
「はかせは……博士は、私を傷つけてなんてない、です」
一度口に出してしまえばもう止まらない。真正面から博士の揺れる瞳を見て、あふれる涙に気づかないふりをして。言葉を探して声に出す。
「だから……博士だって、苦しそうな顔をしないでください。私は、博士が苦しそうな顔をすると……悲しくなります。それが私のせいなのであれば、もっともっと、悲しくなります。悲しくて悲しくて、涙が止まらなくなってしまいます」
真っ直ぐと視線をぶつけた博士から、隣にいてくれる旭さんから、息を呑んだ気配がした。
「これは確かに『悲しい』なんだと思います。だけど、『悲しい』という言葉だけでは何かが足りていないんです。だって、博士には幸せに笑っていてほしいから……ただ『悲しい』だけだとしたら、私のこの思考はどのように片付ければ良いんでしょうか? これは、何というものなんでしょうか?」
私はその答えを知っている。
「……ああ、愛」
今、博士も答えに気づいたのだろう。眉を下げてくしゃりと笑っている。そのうち、私とお揃いの色の瞳を潤ませて瞬きを一回……ほろりと涙が流れ落ちる。
博士の泣き笑いの表情を見るのは二回目だ。
一回目は、初めて私が目を覚ましたちょうど一年前の今日。それとは少し違うと感じるのは私が変わったからなのだろうか。いや、私だけではない。旭さんも、博士も、私も。三人が三人のやり方で変化した。
旭さんは、私たちのことをたくさん知って、私たちの日常を作ってくれた。
博士は、私たちのことをたくさん知って、私たちと向き合ってくれるようになった。
私は、二人のことをたくさん知って、もっともっと知りたくなって、ずっとずっと知りたくなって、皆で「心」の底から笑い合いたくなって、私は二人の「家族」なのだと自信を持って言いたくなって……
——私は、「愛」を信じてみたくなった。
「愛しています」
口を開こうとした博士を遮るようにして、私はやっと言葉を紡ぐ。ようやく答えを言葉にする。
私を造り、私たちを見るようになった——心の底から泣き、そして笑ってくれている博士へ。
私の側にいて、私たちの当たり前となった——心の底から優しく微笑んでくれている旭さんへ。
瞬きをして視界を晴らして、私は、二人に問いかける。
「この言葉は、この心は……本物と呼べますか?」
私は、私の大好きな家族二人に最大限の笑みで問いかける。
「造られた命でも、抱く愛は本物ですか?」
博士は瞳からあふれる感情をそのままに、眉を下げて口角を上げて、今まで見てきたどの笑顔よりも嬉しそうに笑っていた。
「きみがその愛を信じるのであれば、それはもう本物だ。きみはほかの何者でもないAIoid、心を持たないAIではないだろう?」
旭さんはいつものように暖かく、それでいていつも以上に安心させてくれる、そんな笑みを浮かべていた。黒い瞳には涙の膜が張っていた。
「博士の言う通りだよ。もし愛ちゃんが愛ちゃん自身を信じられないっていうのなら、愛ちゃんを信じている俺たちを信じてほしい」
私はAIoid。八条愛さんでも、AIでもない造られた命。「AIのようなもの」。
そんな私に愛を教えて、そして愛を向けてくれた二人にそこまで言ってもらえたから、そこまで信じてもらえたから……。
「愛している、愛」
その言葉の真意を確かめる方法はないけど——
「もちろん俺も愛してるからね、愛ちゃん」
その笑顔の心意を確かめる方法はないけど、それでも私は——
「博士、旭さん、」
——私を笑顔で待ってくれている二人の言葉を、信じてくれる「愛」を、どこまでだって信じることができるから……。
「……私も、愛しています」
だからきっと、この愛は本物だ。
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