19 愛
午前七時、甲高い音を立てて枕元のアラームが鳴る。この暖かさと微睡みから抜け出したくなくて私はそれを容赦なく止める。
素直に止まってくれたことに小さく笑みを浮かべつつ、深い青色の触り心地のいいタオルケットを被り直してベッドの上で丸くなる。するとゆらゆらと夢の世界が迎えにくるのだ。
だけどそれはあっけなく阻止されてしまった。コンコンコン、と三回ノック。間違いなく旭さんだ。
このまま返事をしなければ苦笑した旭さんが「朝だよ」と入ってくる。逆に返事をしたら微笑んだ旭さんが入ってくる。……朝から苦笑されるのは少し嫌かもしれない。
私は目をこすりながら体を起こして、ドアの方へ「どうぞ」と声を投げた。
「お邪魔するねー。おはよう、愛ちゃん」
すぐさま開いた横開きのドアから入ってきたのは、タブレットを片手に持った旭さんだった。私の部屋にぼんやりと影を作るのは遮光カーテンの隙間から差し込む光だけ。それでも旭さんは慣れた様子で近づいてくる。
「……おはようございます」
「眠そうだね?」
「……ベッドの居心地が良すぎるせいです。この誘惑には抗えません」
ベッドも部屋も、環境は何一つ変わっていないのに、三ヶ月前のあの日からだんだんとこうなってしまった。以前は全く理解ができなかったごろごろするという行動を今ではほぼ毎日しているくらいだ。
真顔で頷きながら言ったら、結局、苦笑されてしまった。
「うんうんそうだねー。とりあえずカーテン開けようねー」
私の一日は、そうやって出される軽い調子の指示に渋々従って、紺色のカーテンを開けるところから始まる。
梅雨が終わり、完全に季節が夏に移り変わってからしばらく経つけど、この刺すような太陽の光にはどうにも慣れそうにない。
レースカーテン越しでこれなのだ。それでも体が目覚める効果があるのは確かだろうと、しばらくの間、私は目を細めながら朝の光を浴びていた。
後ろの方で椅子を動かす音が聞こえる。「そろそろ良いかな?」という声に振り返ると、椅子に座った旭さんに体温計を差し出された。私はそれを受け取って向き合う形でベッドに腰掛ける。体温計を脇に挟むと、早速ヒアリングが始まった。
「今日の質問だけど、愛ちゃん、ここでの生活に慣れた?」
そう言われて最近の生活を振り返ってみる。
研究所で暮らし始めてから一年とちょうど三ヶ月、慣れるというには十分過ぎるほどの時間が経った。
特に何かを言われなくとも仕草だけで何を伝えたいのかがわかり、それに対してこちらは無言で行動を返す。そんなふうにして朝の体調チェックとヒアリングは進んでいく。
三ヶ月前までは私が朝の準備を終わらせたころにやってきていた旭さんも、放っておいたら私が二度寝してしまうからと、アラームの直後に起こしにくるようになった。だから私は食堂に行く前に着替えたり顔を洗ったりする。
それが終わってからやっと食堂に行って、席を確保して待ってくれていた旭さんと博士と朝食を食べる。
納豆がメニューにあった日はあからさまに旭さんのテンションが上がり、それに博士と顔を見合わせて苦笑する。二人が先に食べ終わり、最後の五分だけとりわけ視線を感じるのはいつものことだ。
食器を片付けて解散したあと、プログラムの拠点となっている大きな部屋へ移動する。日によっては中庭や普段は行かない研究室にてプログラムがスタートすることもある。もちろん先生役は旭さんだ。
昼休憩の直前の時間になると博士がひょっこりと顔を出す。ここにやってくるためにほかの仕事を早めに片付けているという話を思い出して、旭さんと一緒になって呆れてみる。
昼食の時間になったら再び食堂に行き、また三人で食事を摂る。テーブルが埋まっているときは、ほかの研究員のいるところに三人でお邪魔することもある。
空腹が満たされたあとも休憩の時間は残っているからと団欒スペースに移動。
時折、旭さんがピアノを弾いてくれたり、博士が八条愛さんや奥さんとの思い出をしてくれたりする。
そうしていたら午後からのプログラムの時間が始まって、またいつもの大部屋に戻って。窓の外から差し込んでくる暖かさと共に襲ってくる眠気と闘いながら旭さんの話を聞く。
午前中と比べて午後は旭さんから「どう思う?」「どう考える?」と問いかけられることが多い。そのおかげで私は眠気に打ち勝つことができるのだ。
夕方手前になったらまた博士がやってきて、今度は旭さんと一緒になって先生役をしてくれる。それぞれ教え方が違ったり、着目する視点が異なったりするから面白い。
そのころには昼下がりにあった眠気もなくなり、先生役の二人の話に集中できるようになっている。
そうやってあっという間に時間は過ぎて、夕食の時間になって……私の一日が終わりへと向かっていくのだ。
「……いつの間にか、慣れていました」
わからなかったはずの「慣れる」という感覚に、気づいたときには慣れていた。
そう伝えると同時に体温計が音を上げる。表示されている三十六・四度の文字を見せると、旭さんは、黒縁メガネの向こうで嬉しそうに目を細めて受け取ってくれた。
「ありがとう。慣れたって感じることもそうだし、体温が人の平均的なものに近づいたこともやっぱり心を自覚したことに関係あるのかもね」
「確かにそうかもしれませんね」
頷きながら組んでみた両手は指の先までぽかぽかと暖かい。三ヶ月前までは考えられなかったことだ。
私にとってはもちろん、博士や旭さんにとってもあのときの出来事は大きいものだったのだろう。
博士たちが私を作った理由——AIoidプロジェクトの研究テーマは「心」だという。
私は確かに心を自覚しているけど、これが科学的に本物かどうかはまだわかっていない。心を造るという段階を達成した次は、心を定義づけるという段階に入るのだろう。だからこそ、体調チェックとヒアリングは相変わらず続けられている。
研究対象としては、旭さんと博士と一緒に毎日を生きられるのであれば特に何も思わないというのが正直なところだ。
タブレットに記録し終わったらしい旭さんは、さて、と私と目を合わせた。
「ヒアリングはこれで終わり。俺は一足先に食堂で待ってるね」
「はい」と返事をして旭さんを見送ったあと、空腹を誤魔化しながら急ぎ目に身だしなみを整える。
クローゼットから取り出した白いブラウスと深い青色のリボン、黒い膝下丈のフレアスカートに着替えて、洗面所で歯を磨いて顔を洗って……。
怒られないくらいの早歩きで訪れた食堂、そこで受け取ったトレーには、ご飯と味噌汁と卵焼き、そして旭さんの好物である納豆が乗っていた。
あたりを見回すと、旭さんが窓際のテーブルからこちらに向かって手を振っている。その斜め向かいの席では博士が優しく微笑んでいた。
私は、味噌汁がこぼれないよう気をつけながらできるだけスピードを上げて近づき、そして、待ってくれていた二人に笑顔で言った。
「おはようございます」
「ああ。おはよう、愛」
「おはよう愛ちゃん、すっかり目が覚めたみたいだね——……」
AIにはなれない偽物の愛。もしもAIだったなら、私は心を自覚できていなかった。
八条愛さんにはなれない偽者の愛。もしも八条愛さんだったなら、私は私として笑えていなかった。
愛はニセモノ。AIにも八条愛さんにもなれない、それと同時に、AIでも八条愛さんでもない。愛はAIoidという造られた存在だ、そんな命だ。
だけど、それでも私は知っている。そして私は信じている。
——博士と旭さんが呼んで、笑いかけて、信じてくれる「愛」を。
〈了〉




